劉琨
話の着想は『晋書』劉琨伝より。
本文の末尾にも略歴が書かれていますが、劉琨の人生全体をもう少しだけ詳しく紹介したいと思います。
劉琨の人生の前半は恵帝の外戚である賈謐・賈南風が実権を握っていた時代にあたります。
劉琨は前漢の中山靖王・劉勝の末裔を称し(三国志の蜀の劉備と同じです。中山靖王・劉勝は前漢の景帝の子で息子が一二〇人以上いたとされ、その末裔を称する人々も多数いました)、二十六歳で司隷従事となりキャリアをスタートさせると、石崇の別荘である金谷邸に招かれたり、時の権力者である賈謐の「二十四友」に加わったりと、貴族的生活を謳歌します。
キャリアも順調で、太尉であった高密王・司馬泰に招聘され、著作郎、太学博士、尚書郎にと次々に任官されます。
劉琨の転機、劉琨のみならず中国史上の変換点となったのが三〇〇年に起こった趙王・司馬倫によるクーデターです。賈謐・賈南風は殺され、実権は恵帝の叔父である趙王・司馬倫に移ります。劉琨が三十歳のときでした。
ここから劉琨の人生が後半が始まるとともに、西晋の皇族同士の内紛である八王の乱は激化していきます。
劉琨は姉が趙王・司馬倫の息子に嫁いでいたため縁戚関係にあり、その縁で父や兄とともに重用されます。趙王・司馬倫が皇帝を僭称し、他の皇族たちが趙王・司馬倫の討伐のため挙兵すると、劉琨は趙王の側で戦います。
が、趙王・司馬倫を倒し次の権力者となった斉王・司馬冏は、劉琨が名門の出身であったことから重用しました。
斉王・司馬冏がまた他の皇族に倒されると、范陽王・司馬虓のもとでやはり重用され、東海王・司馬越の側に立って成都王・司馬穎の討伐で軍功を挙げます。
しかし劉琨の事跡として主に語られるのはこの後、三〇七年に并州刺史に任命されてからのことです。
当時并州は匈奴の劉淵が占拠していました。戦いの最前線へ着任した劉琨は、鮮卑の拓跋猗盧へ息子を人質に送って同盟を結び、劉淵らに抗戦します。その戦いの中で父母をはじめ家族の多くを殺される惨禍にあいました。
抗戦もむなしく并州から撤退を余儀なくされると、幽州の段匹磾を頼り戦い続けますが、三一七年には劉聡(三一〇年に没した劉淵の子)の武将であった石勒に決戦を挑んで大敗します。
その後、段部のなかで内紛が起こり、段匹磾のいとこである段末波によって劉琨の息子の劉羣が捕らえられてしまいます。段末波は劉羣に手紙を書かせ、劉琨も段末波の側につくよう求めました。
しかしこの手紙は劉琨のもとへ着く前に段匹磾の手に落ちます。
劉琨を問いただした段匹磾は、最初劉琨の「貴殿を裏切らない」という言葉を信じますが、弟の段叔軍に「夷狄(非漢民族)の我々が(漢民族である)晋の人を従えられるのは兵力があるからにすぎない。もし段末波が劉琨を奉じれば、我々は滅びてしまう」とささやかれ疑心が生じ、劉琨を幽閉します。
その後、劉琨の救出作戦が立てられますが事前に露見して失敗、遠く江南の地で野心を逞しくしていた王敦の手引きをうけた段匹磾に劉琨は絞殺されました。享年は四十八。
前半は貴族的な享楽の生活を送り、後半は五胡勢力と晋王朝との戦いのさなかにあった劉琨の人生は、この時代の縮図といった感があるなあと思います。