石崇
話の着想は王嘉『拾遺記』の石崇についての条(「石季倫愛婢名翔風……石氏房中並歌此為樂曲,至晉末乃止。」)より。
石崇の愛妾というと緑珠が有名ですが、『拾遺記』の石崇の条には翔風という愛妾が出てきます。
なんでも三国時代の魏の終わり頃、石崇は十歳の翔風を北で得た。
翔風は十五になる頃には美しく成長し寵愛されたが、三十歳になると容色が衰え、ある人に「胡女不可為群」と差別心も丸出しに誹られ、世話係に落とされた。
恨んだ翔風は五言詩を作り、石崇の家でみなこの詩に曲を付け歌ったが、西晋の末に止んだ、という内容です。
この翔風の物語の間に挿入される石崇の贅沢についての描写から、この話を書きました。
ちなみに翔風および石崇の豪邸である金谷邸の様子については『長い三世紀のルポルタージュ』の第二章「金谷の大豪邸 金ぴかの楽園のそちら側」、緑珠については短編「三斛の真珠」でも題材にしているので、そちらもあわせてご覧ください(宣伝)。
王嘉『拾遺記』は『捜神記』などと同じ「志怪小説」に分類されます。
「志怪小説」は史書に載せるにはあまりに荒唐無稽だと判断された記録集(小説=フィクションではなく、あくまで記録=ノンフィクションだと当時考えられていました)を指し、三国時代の魏から宋にかけてさかんに記されました。
『拾遺記』を記した王嘉は五胡十六国時代の前秦に生きた人物で、『晋書』巻九十五芸術列伝に伝があります。
それによると、王嘉は身軽で見た目は醜く、外見はちょっとあれだが中身は聡明で、滑稽な話を好み五穀を食べず、きれいな服は着ていないが清らかな気をまとっていて、世の中の人々とは交流せず、崖に穴を掘って住み、数百人いた弟子もみな穴を掘って暮らしていた。
石勒の治世の終わり頃に長安に出てきて、前秦の苻堅が長安を治めるとまた山に隠遁しましたが、苻堅が何度も丁重に応対するので予言を授けた。
やがて苻堅が敗れて後秦の姚萇が長安に入ると、姚萇は苻堅と同じくらい丁重に王嘉をもてなし
「前秦の残党を率いる苻登を殺し天下を定め得られるか」
と聞いたが、王嘉は
「略って、得られるでしょう」と答えたために激怒した姚萇に殺された、とのこと。
作者自身が志怪小説の登場人物じみています。
『拾遺記』は著されてざっと一五〇年後の南朝の梁の時代にはすでに散逸してしまっており、梁の蕭綺という人物が残っていた部分を集めて編纂しなおしました。
一度は散逸してしまったため、もとは全十九巻二百二十条あまりあったのが、約半分の十巻一二七条に減ってしまったそうです。
現在の再編纂された『拾遺記』には神話の伏羲の時代から石虎(石勒の息子)の時代までの話が収められています。