着想元について
■着想元について
主人公の「僕」は私が創作した架空の人物です。「僕」が受けたという肖像画を描くようにという勅命や、「僕」が描いたという肖像画、そして肖像画の製作記であるという本作も、完全なフィクションです。
ですがいくつかの設定はある程度元ネタがある、つまり当時の記述をもとにしています。
たとえば「僕」の師匠は画工、なかでも後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事をしていますが、この元ネタは四世紀前後に生きた「僕」より少しのち、四世紀前半に生きた東晋時代の葛洪という人物があらわしたとされる『西京雑記』に由来します。『西京雑記』は西の京、つまり長安に都があった前漢の時代の逸話があつめられた書物なのですが、このなかに王昭君という人物の話が収録されています。
それによると、当時後宮にはあまりに多く女性がいたので、皇帝は全員の顔を見て選ぶわけにはいかず、女性たちの肖像画を見て選んでいた。そのため後宮の女性たちは画工たちに賄賂をつんで美人に描かせていたが、王昭君だけは賄賂を送らなかった。
そんなとき、いわゆる北方騎馬民族の匈奴が、和平の見返りとして妻をもとめてきた。皇帝は(賄賂を送らなかったがために)不美人に描かれていた王昭君の肖像画を見て、王昭君を匈奴におくることにした。しかし実際に会ってみると、王昭君はとんでもない美人である。皇帝は後悔したがいまさら約束を反故にするわけにもいかず、王昭君を匈奴に嫁がせた。
王昭君が匈奴に嫁いだあと、皇帝はどうしてこんなことが起こったのか調べさせた。その結果大規模な賄賂が明らかになり、都にいた画工のすべてを処刑し、画工たちの巨万の富を没収した。都には当時名の知れた画工がいたが――ここで画工の名前と得意分野(人物、動物、色使いなど)があげられています――全員処刑された。これきり、都の画工はずいぶん少なくなった、という話です。
賄賂を送らなかったために(送らなかった理由は、一説では自分はこんなに美人なのだから送る必要はないと考えていったから、だといいます)、(美人でありながら)(「野蛮」な)匈奴に嫁ぐことになる王昭君の伝説は、この『西京雑記』のあとも中国文化の重要なモチーフの一つとして、現代にいたるまで生き続けています。
という話が近い時代にあるのだから「僕」の時代にも、後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事、というのはあったんじゃないかなと思い、「僕」と「僕」の師匠の設定に採用しました。
もっとも『西京雑記』の選著者は葛洪以外にも諸説あり、しかしいずれも後代の仮託と考えられているのですが、いずれにしても五世紀、南朝梁に生きた殷芸の時代にはあったことは確実なようなので、まあ……ほぼ同時代でいいじゃろ……古代では数世紀のズレは誤差の範囲なので……(独自研究)。
ちなみに「画工」という言葉はあれど、「肖像画」という語は当時なかったようで、『西京雑記』にはただ「圖(「図」の異体字)と記されています。
また「僕」の肖像画は「皇太子殿下」、つまり西晋の恵帝(司馬衷)が家臣の顔を覚えるために使われた、という設定ですが、こちらにも元ネタがあります。
なんでも歴史書である『晋書』によれば、恵帝の実子である司馬遹が宮中でほかの諸王子たちと遊んでいるところへ恵帝が来て、諸王子の手を順繰りに取った。司馬遹の手も取った。そこへ恵帝の父である武帝(司馬炎)が、「この子はお前の子だぞ」と言ったところ、恵帝はやめた、という話があります(『晋書』「卷五十三 列傳第二十三 愍懷太子」より。「嘗與諸皇子共戲殿上,惠帝來朝,執諸皇子手,次至太子,帝曰:「是汝兒也。」惠帝乃止。」)。どうやら恵帝は自分の息子の顔がわからなかったらしいのです。
息子の顔がわからない(=覚えられない?)なら、家臣の顔も覚えられていないのではないか、当然それは困るから何がしかの対策を、恵帝の父である武帝や側近たちはしたのではないか? という連想で「僕」の設定を考えました。
つぎに主人公の「僕」は戦乱のために故郷の洛陽をはなれ建鄴へ移住した避難民という設定ですが、こちらも当時戦乱を避けて、多くの人々が移住したという歴史的事実にもとづくものです。
ただこの話を書いたあとに關尾史郎「内乱と移動の世紀 : 4~5世紀中国における漢族の移動と中央アジア」という論文を読んだところ、洛陽から建鄴へというような長距離の移動ではなかったと述べられていて、まあそうだろうな……とこの話を書き終えて二年以上経った今では思います。北海道をよく知らない人がたてた北海道旅行の計画みたいな工程だもんな……。
歴史小説を書いていると、自分の知識のアップデートによって過去の自分の作品にツッコみたくあることは、ままあります。
さいごに、この話全体の着想は写真家・土門拳の肖像写真集『風貌』から得ました。
『風貌』は著名人の肖像写真とともに撮影記が添えられています。その撮影記に書かれたカメラマンとモデルという関係、撮影の間やその前後に起きたエピソード、そして何より土門拳の観察眼と文章が大変面白く、撮影記というシチュエーションを借りて(肖像写真ではなく肖像画ですが)この話を書いた次第です。
話の作り方としては、ここに書いた順番と逆になります。
つまり『風貌』を読んでこういう話が書きたいと思い立ち、話を成立させるために歴史資料にある程度もとづいて、こういう話があってもさほどおかしくない(と私が思える)設定を固めていった、という製作工程を踏みました。