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着想元について――「冠と字」

※小説本編はこちら

https://ncode.syosetu.com/n2485ed/


 出典は『三国志(さんごくし)』「諸葛恪伝(しょかつかくでん)」、および『儀礼(ぎらい)』「士冠礼(しかんれい)」より。


 主人公の諸葛恪(しょかつかく)は、()の重臣である諸葛謹(しょかつきん)の長男であり、有名な(しょく)諸葛亮(しょかつりょう)孔明(こうめい))の甥です。伝記によれば、才気煥発(さいきかんぱつ)で頭と舌の回転が速く、若くして名を知られていました。当時皇太子であった孫登(そんとう)賓友(ひんゆう)(皇太子と同年配の良家の息子が、太子へ教育や良い影響を与えるために任命される、いわば「ご友人係」)に選ばれていることからも、諸葛恪が家柄だけでなく能力面でも評価を受けていたことがうかがい知れます。


 家柄もよく、能力も高く、頭の回転も速く、そんな諸葛恪は、だからこそというべきなのか、舌戦で人をやりこめるところがありました。


 小説中にはとりあげなかった有名な挿話のひとつに、ロバの話があります。諸葛恪の父・諸葛謹は、面長でした。現代日本語で言えばいわゆる「馬面」だったらしく、ある日諸葛恪らの仕える呉の君主・孫権(そんけん)は、群臣を集めた目の前で一頭のロバを引いてこさせます。ロバの顔面に札をかけさせると、さらにこう書かせました。「諸葛子瑜(しょかつしゆ)」。子瑜(しゆ)は諸葛謹の字です。


 ……こういう”余興”をやるところが呉の、孫権の特長なのですが、このとき(恐らくはまだ年若い)諸葛恪が前に進み出て、「二文字書き加えるのをお許しください」と乞います。孫権が許可すると、諸葛恪は「之驢(のろば)」と書き加えました。つまり(と解説するのも無粋なのですが)、ロバ=諸葛謹(主格)だったのをちょこっと書き加えて諸葛謹のロバ(所有格)に変えてしまった、というわけです。この機転にみんな大笑いして、”上手いこと言った”諸葛恪には褒美としてこのロバが与えられたそうです。


 小説中に出てきた皇太子の前で下ネタを言った話(牛糞も卵も同じ場所から出ます)や、酒の席で厳格で有名だった老臣・張昭(ちょうしょう)をやりこめた話(師尚父(ししょうふ)、つまり(しゅう)太公望(たいこうぼう)が九十歳でも陣頭に立った故事を引用して、無理に酒を飲ませる)も、「諸葛恪伝」のなかに出てきます。諸葛恪がとっさの機転で舌でやりこめた話は他にも多く「諸葛恪伝」に載っています。どうやら相当こういう傾向があったらしい、というのが諸葛恪の後世に伝わる印象です。


 そういう人物の名前が「(かく)」(つつしむ)で字が「元遜(げんそん)」(へりくだる)なのはおもしろいな、というのが本作の着想でした。


 いうまでもなく、諸葛恪のような態度は他人の顰蹙(ひんしゅく)を買います。言い負かされた人は諸葛恪を恨むでしょう。だから「能力があっても見せびらかさず謙虚でいなさい」という道徳は、ある意味実用的な行動方針でもあります。そして諸葛恪はそれを無視して他人を論破し恨みを買い続けている。親としては心配になる、どうにか言動を改めてくれないかと思う。だから成人して子を再度名づける冠礼で、改めて「元遜」、へりくだる(者)、という字を贈ったのかもしれない。そう諸葛謹の心情を想像しました。


 そして、「恪」、「元遜」、自分の性質とは真逆の名前を二度も名づけられたからこそ、諸葛恪は人を舌と機転でやりこめ続けたのではないか、とも想像しました。自分を理解しない肯定しない父・諸葛謹への反抗、という側面もあったのではないか。そんな妄想から、本作を書きました。


 作中前半部で描いた冠礼(かんれい)の儀式の様子は、『儀礼(ぎらい)』のなかの「士冠礼(しかんれい)」をもとに書きました。『儀礼』とは儒教(じゅきょう)の経典のひとつです。「礼」とは何か、「礼」を守るにはどうしたらいいか、ということを考える学問として「礼学」があります。この礼学の主要なテキスト群として「三礼(さんらい)」があります。「三礼」とは『周礼(しゅらい)』、『礼記(らいき)』、そして『儀礼(ぎらい)』のことです。『周礼』は理想的な国家組織について述べ(礼はマナーとはちがった概念なので、これも礼にふくまれます。この場合の礼は国家儀礼などの礼です)、『礼記』は礼の精神面を主に述べるのに対し、『儀礼』は純粋な各種儀式(冠婚葬祭)の手順がまとめられています。この『儀礼』のなかに冠礼の手順がまとめられた「士冠礼」という章があり、作中の冠礼の様子の典拠としました。


『儀礼』の成立時期については伝説では周公旦(しゅうこうたん)(周の伝説的な政治家。儒教の聖人)とされていますが、実際には戦国時代(前四〇三~前二二一)ごろとされています。諸葛恪の時代には後漢(ごかん)鄭玄(じょうげん)(一二七~二〇〇、歴史的に重要な大儒学者)が整理し注をほどこした『儀礼』が成立しているので、これに基づいて作中の描写を書いてもそんなに的外れではないだろうの精神で参考にしました。とはいえ直接『儀礼』を参照するのは小説執筆当時(二〇一七年)難しく、藤川正數『礼の話』(明徳出版、一九九三)を直接の参考資料としました。


 作中の通り、冠礼では「(ひん)」をつとめる人物が重要な役割を果たします。張承(ちょうしょう)が諸葛恪の賓なのは筆者の創作です。諸葛謹が賓を依頼するぐらい親しい人物とは誰かと考えたとき、張承がふさわしいと思われました。若くして評価されている諸葛恪について、「結局、諸葛の家を滅ぼすのは元遜どのだ」と言っている(『三国志』「張昭伝(付、張奮・張承・張休伝)」)のも、諸葛謹がもつ諸葛恪への心配を共有できる人物という役どころに合致したから、というのもあります。


 さて、こうして成人を迎えた諸葛恪のその後について軽く触れて、このノートを終わりたいと思います。


 諸葛恪の最初の功績として伝に載っているのは、丹陽(たんよう)群の不服住民を軍門に下したことです。不服住民たちを支配するのは無理だとみなが考えるところ、諸葛恪は「私なら三年で(不服住民を服従させて、彼らを徴兵して)兵士四万人を手に入れて見せます」と豪語し、盛んに許可を願い出ます。そのさまを見て父の諸葛謹は失敗を見越して「恪は我が家を大いに盛んにする代わりに、我が一族を根絶やしにしてしまう」と嘆息したと言います。しかし、諸葛恪は不服住民を兵糧攻めし、降伏すれば処罰はなし、もし処罰した者には厳罰を処すという方法で、彼らを服従させることに成功します。諸葛恪は功績を称えられ、将軍となり、(こう)に封じられます。父・諸葛謹の遺領(いりょう)を継ぐのではなく、自身の功績で将軍となり侯となるところにこだわったのではないか、と筆者は妄想してしまいます。


 その後、諸葛恪が賓友(ひんゆう)としてそば仕えした皇太子・孫登(そんとう)が若くして亡くなってしまいます。同年には父の諸葛謹も死去。翌年から、呉では泥沼の後継者争いが起こります。いわゆる「二宮(にきゅう)の変」です。孫権の次男は夭折(ようせつ)してしまったため、三男・孫和(そんか)と四男・孫覇(そんは)のどちらを皇太子とするかで家臣団は分裂、互いに激しく攻撃し合います。この渦中で重鎮の陸遜(りくそん)も陰謀にはめられ、孫権と激しく仲違いし憤死。諸葛恪は陸遜の後釜として軍事の最高責任者となります。後継者争いはその後も続き、結果、皇太子になったのは孫和と孫覇どちらでもない、まだ幼い七男・孫亮(そんりょう)でした。そして孫権も亡くなり、諸葛恪は幼君・孫亮の後見人という最高権力者となります。


 こうなると諸葛恪を止められる者は誰もいませんでした。諸葛恪は東興(とうこう)の戦いで()を大いに破ったことに自信を持ち、兵士を大動員して魏の合肥新城(がっぴしんじょう)を攻囲しますが、何ヶ月経っても落とすことはできず、呉軍の被害は甚大、遠征は大失敗に終わります。しかし諸葛恪は自らの失敗を認めることができず、ますます横暴になりました。諸葛恪が人心を失い孤立していくのを見た幼君・孫亮の後見人の一人である孫峻(そんしゅん)は、諸葛恪を排除し権力を独占しようと陰謀をたくらみます。こうして諸葛恪は偽の詔書(しょうしょ)でおびきよせられ、孫峻に暗殺されました。殺されたのは諸葛恪だけでなく、その一族、さらには諸葛恪の外甥(諸葛恪の姉妹の子)・張震(ちょうしん)(作中で賓をつとめた張承の子)および朱恩(しゅおん)の一族も根絶やしにされました。諸葛謹、そして張承の予言は、こうして的中することになります。


 名前と正反対の自身の性質を貫いた、個性的な人物。それが筆者の諸葛恪に対するイメージです。本作で諸葛恪の強烈な人となりが伝わっていればうれしく思います。

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