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歴史小説のためのノートブック  作者: 久志木梓
「記憶のなかの肖像画」
12/26

■読書案内――劉琨

☆田中一輝「永嘉の乱の実像」『史学雑誌』125-2(史学会、2016)


https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/125/2/125_39/_article/-char/ja/


劉琨(りゅうこん)が人生の後半で直面した戦乱は永嘉(えいか)(らん)(三〇四~三一六)と呼ばれます。


永嘉(えいか)(らん)漢民族(かんみんぞく)による王朝・西晋(せいしん)を滅亡させた五胡(ごこ)漢民族(かんみんぞく)ではない「異民族」)による反乱、とされています。


その永嘉(えいか)(らん)の経緯を、西晋(せいしん)勢力(劉琨(りゅうこん)東海王(とうかいおう)司馬越(しばえつ)など)と五胡(ごこ)劉淵(りゅうえん)石勒(せきろく)など)の区別なく詳細に追ったのがこの論文です。


永嘉(えいか)(らん)のあとには五胡(ごこ)勢力が華北(かほく)を支配する五胡(ごこ)十六国時代(じゅうろっこくじだい)が到来しますが、永嘉(えいか)(らん)を細かく見ると、最初から五胡(ごこ)勢力が圧倒的に優勢で華北(かほく)をつぎつぎに席巻した、わけでもないことがわかります。


また西晋(せいしん)勢力、五胡(ごこ)勢力ともに一枚岩ではなく、勢力内でさまざまな派閥が存在しました。


さらに、必ずしも西晋(せいしん)漢民族(かんみんぞく)VS五胡(ごこ)=「異民族」(非漢民族(ひかんみんぞく))という単純な対立構造でもありませんでした。


そして「文化的に劣っている五胡(ごこ)に、武力によって負けている・支配されている」、ちがう言い方をすれば「(今は)五胡(ごこ)が武力によって勝っているが、(本来は)漢民族(かんみんぞく)のほうが(文化的に)優れている」という、漢民族(かんみんぞく)五胡(ごこ)を問わず広く内在化された根強い差別意識が、さらなる対立を発生させていました。


永嘉(えいか)(らん)のなかで見られるこの複雑な対立は、つづく五胡十六国時代ごこじゅうろっこくじだい南北朝時代(なんぼくちょうじだい)でも繰り返し繰り返し現れます。


この対立が克服されるには、(ずい)、そして(とう)に至る三〇〇年の年月を必要とします。


五胡十六国時代ごこじゅうろっこくじだい南北朝時代(なんぼくちょうじだい)隋唐時代(ずいとうじだい)、そして広く中国の歴史に興味がある方は、文庫で読めるこの時代の時代史、川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』(講談社、2020)もあわせてどうぞ。




☆後藤秋正「劉琨詩小論 : 「答盧諶」詩を中心として」『漢文學會々報』34(東京教育大学漢文学会、1975)


https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/44366


劉琨(りゅうこん)は人生の前半で賈謐(かひつ)が主宰した文学サークル「二十四友(にじゅうしゆう)」に所属し、多く作品をつくったことがわかっています。


というのも、劉琨(りゅうこん)の時代からだいたい三五〇年後の六五六年、(とう)の時代に完成した(ずい)の歴史書『隋書(ずいしょ)』の一部に、図書目録である「経籍志(けいせきし)」があります。この「経籍志(けいせきし)」には劉琨(りゅうこん)の文集として『劉琨(りゅうこん)集』全九巻と、『劉琨(りゅうこん)別集』全十二巻があると記されているからです。


しかし劉琨(りゅうこん)の死から一七〇〇年、『隋書(ずいしょ)』の完成から一三五〇年が経った現在では、劉琨(りゅうこん)の文章、特に詩は、三作品しか残っていません。


残った三作品はすべて、数では圧倒的に多数だったとおぼしき「二十四友(にじゅうしゆう)」時代に書かれたものではなく、劉琨(りゅうこん)并州刺史(へいしゅうしし)になったあと、凄惨な永嘉(えいか)の乱の渦中で書かれたものです。


その三作品のうちのひとつ、「答盧諶(とうろしん)」詩(盧諶(ろしん)(こた)える詩)が読めるのがこの論文です。


劉琨(りゅうこん)が「答盧諶(とうろしん)」詩を書いたとき、劉琨(りゅうこん)たちは并州(へいしゅう)を守り切れず、五胡(ごこ)の一つ、鮮卑(せんぴ)段匹磾(だんひってい)のもとへ身を寄せたところでした。


答盧諶(とうろしん)」詩で劉琨(りゅうこん)は、皇帝から託された并州(へいしゅう)を守り切れず、并州(へいしゅう)にいた両親や家族も守れなかった事実を述べ、このような事態になったのは自分の弱さのせいだと責めます。そして詩を贈る盧諶(ろしん)へ、はかない再起の望みを託しました。


詩を贈られた盧諶(ろしん)劉琨(りゅうこん)の親戚であり劉琨(りゅうこん)に長年仕えた人物で、段匹磾(だんひってい)のもとへ劉琨(りゅうこん)より先に赴き仕えることになります。その送別のさいに盧諶(ろしん)劉琨(りゅうこん)へ贈った詩の返歌がこの「答盧諶(とうろしん)」詩です。


のちに劉琨(りゅうこん)段匹磾(だんひってい)に捕らえられたとき、劉琨(りゅうこん)盧諶(ろしん)に「重贈盧諶(じゅうぞうろしん)」詩((かさ)ねて盧諶(ろしん)(おく)る詩)を贈り決起を呼びかけますが、盧諶(ろしん)は自分に才能も能力もないことを理由に断りました。


劉琨(りゅうこん)の死後、盧諶(ろしん)西晋(せいしん)を継いだ東晋(とうしん)の皇帝へ劉琨(りゅうこん)を弁明する文章を上表し、劉琨(りゅうこん)の名誉挽回のため尽力します。


盧諶(ろしん)東晋(とうしん)に仕えることを望みますが、戦乱のため東晋(とうしん)のあった江南(こうなん)へ行くことはできず、段匹磾(だんひってい)石勒(せきろく)など五胡(ごこ)君主のもとを転々として仕えました。最期は石勒(せきろく)の死後に独立した冉閔(ぜんびん)によって殺されます。


生前、盧諶(ろしん)五胡(ごこ)君主に仕えることを恥じ、葬るときは劉琨(りゅうこん)に仕えていたときの役職だけを肩書きとして埋葬してほしいと言い残していたそうです。




●伊藤正文、一海知義訳『漢・魏・六朝詩集 中国古典文学大系第一六巻』(平凡社、一九七〇)


劉琨(りゅうこん)の「扶風歌(ふふうか)」「答盧諶(とうろしん)」詩の邦訳を、読みやすい日本語で読むことができます。


扶風歌(ふふうか)」は当時の国境近くの扶風(ふふう)(現在の陝西省(せんせいしょう))で劉琨(りゅうこん)が作ったとおぼしき詩です。


都から遠く離れた草深い国境に詰め、家族の安否もわからない孤独感と乏しい物資に悩まされる、自らの姿を書いています。


劉琨(りゅうこん)は、劉琨(りゅうこん)と同じく国境で匈奴(きょうど)と戦い(劉琨(りゅうこん)がおもに戦った劉淵(りゅうえん)匈奴(きょうど)です)捕虜になり、匈奴(きょうど)に寝返ったのではと嫌疑をかけられて家族を処刑され、不名誉をこうむった前漢(ぜんかん)の将軍・李陵(りりょう)に思いを馳せています。のちに劉琨(りゅうこん)に起こったことを考えると、予感であり予言であったようにも思います。


山月記(さんげつき)」で有名な中島敦(なかじまあつし)李陵(りりょう)を題材にした「李陵(りりょう)」という小説を書いています。無料で読める青空文庫のリンクはこちらです。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html




●内田泉之助、網祐次『新釈漢文大系14 文選(詩篇)上』(明治書院、一九六二)


●同『新釈漢文大系15 文選(詩篇)下』(明治書院、一九六四)


上巻には劉琨(りゅうこん)答盧諶(とうろしん)」詩、「重贈盧諶(じゅうぞうろしん)」詩、盧諶(ろしん)の「贈劉琨(ぞうりゅうこん)」詩が、下巻には劉琨(りゅうこん)扶風歌(ふふうか)」が原文(漢文)ふくめて載っています。


劉琨(りゅうこん)答盧諶(とうろしん)」詩、「重贈盧諶(じゅうぞうろしん)」詩、盧諶(ろしん)の「贈劉琨(ぞうりゅうこん)」詩は詩だけでなく詩といっしょに贈られた書簡も掲載されており、劉琨(りゅうこん)盧諶(ろしん)が自身の境遇や心情をより直接的に述べています。


詩とともに読むとより味わい深いです。ぜひご覧ください。

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