黒い衛生局員
ドーム状の積層構造を持つその建造物は一階。天井は遥かに高く、密閉された空間に外日は射さない。等間隔に吊るされた明色蛍光の灯が、くすんだオレンジの光を当階全体に僅かながら与えている。
がらんどうのような空間。広大だが何もなく、寒々しい。元は何の為の施設だったのか、今の状態からは判別出来ないほど。天蓋や壁と同じ鋼質な素材で設えられた床には、長い時間をかけて堆積した埃が、薄汚れた絨毯のように敷かれている。
外界から隔絶された空虚な世界、時間も何も存在しないような其処に、二つの不似合いなモノが在った。一つは空間の北側に設置されている昇降機。手入れのされていない鈍色の柵に囲まれた、階下へと通じる唯一の通用路だ。
普段ならば周辺の床と同じに定点へ嵌め込まれている移動床部が、今は存在しない。大人でも四、五人は余裕を持って乗れるだろうスペースの床が、柵に囲まれた一部分だけ消失している。本来床の在るべき其処には穴が開き、漆黒の口が覗いていた。
その穴の下方から微かに聞こえるモーターの駆動音が、死に満ちたが如く静然とする空間に、生の気配を感じさせるが故に異質。
もう一つは、稼働中の昇降機より数m離れた位置から、在るか無いかというワイヤーの巻き取り音へ耳を澄ませ、昇降機自体を見詰める者の存在。首から爪先までをメタリックブルーのライダースーツで覆い、頭部にはフルフェイスヘルメットを被っている。
肌の露出は一切見受けられない。顔すらも判然としない。身長は166cm程だが、それだけでは男なのか女なのかも定かでない。二本足で立つ姿から、人間でだろう事だけが理解出来る。
その者の傍にはバイクがあった。蒼と黒のカラーリングをした、かなり大型のバイクだ。装甲じみた分厚いフレームに囲まれ、電磁加速性コイルによって作られたタイヤを持つ。外観から既に規格外のチューンが施された、凡そ市販品では在り得ない機体。
そんなバイクを傍らに、ライダースーツの者が見遣る昇降機へ変化が訪れる。隙間風のように微かだった駆動音が低く唸る様な鳴動に変わり、程無くして無音に達す。音の消失は装置の停止を知らせ、その結果がそれを見る者のヘルメットバイザーへ映っていた。
漆黒の穴蔵は今や閉じ、その蓋として階下から昇ってきた移動床部には、四つの人影が乗っている。前方に三つ、その後へ隠れるようにして一つ。
三つの影は時折明滅する頭上からの光を受け、薄暗い闇から全容を露にした。三者三様ながら、等しい中背で細身の男達。着衣はボロ雑巾の如く破れるや汚れ果て、衣服としての機能を殆ど失っている。
しかし彼等にそれを気にする風はない。それどころか、他の事を考えている様子すら皆無である。三人ともに共通して眼は虹彩を失い、死魚のそれと同じに濁り淀んでいた。全身の皮膚は随所が水泡の如く膨れ、或いは腐敗し、正気を失い兼ねない程の臭気を放っている。どう贔屓目に見ても異常、真っ当な人間の姿ではない。
三つの人型はだらしなく口を開き、呻く様な音を零しながら、赤ん坊が始めて歩いた時のようにたどたどしい足取りで、ゆっくりと前進を始めた。両肩を揺らしながらバランス悪く歩く様は、酷く不恰好であり、異様で気味が悪い。
ライダースーツの者は、バイザーに出来の悪い傀儡人形を思わせる三体の姿を映したまま、黙して佇んでいる。が、不意に右手を動かし、ベルトに付与されているホルスターへと五指を滑り込ませた。
一瞬とて無駄のない迅速で、且つ的確な動き。右手は正確に最短距離を下り、最初に人差し指がトリガーへ、次いで中指・薬指がグリップに届く。手に質感を得るや否や、ライダースーツの者はそれを素早く引き抜いた。極自然な動作で、それが当たり前であるかのように、独特の形状をした一個の物体は、持ち主の目線の高さへと移動を果たす。
瞬動の間に右手へと握られたのは、漆黒の輝き放つ大口径の銃。漆黒の材質で仕上がるそれに特別な意匠はなく、長大で無骨なフォルムは相当な重量感を思わせた。夜闇を溶かし込んだような銃身には『CRV』の英字が刻まれている。
黒々とした光沢を湛える銃は、闇の底より暗い銃口を三体のモノに向けていた。直線的な力の捌け口を目の当たりにしながらも、彼等の様子に変化はない。覚束無い足取りのまま、依然として前進を続けている。
ライダースーツの者は正面からその様を眺めつつ、トリガーに掛けた指を引いた。それと同時に黒々たる銃が咆哮を放つ。衝撃でスライドが腕側へと下がり、漆黒を覗かせる銃口は、闇裂く閃火を噴いて銃弾を吐き出した。
硬質な長方体から外界へと躍り出た一発の弾丸。暗黒も同じ黒一色にして、絶大なる破壊力を内包したそれは、高硬質化チタニウム製特殊炸鋼弾。
弾丸は空気の層を容易く貫き、あらゆる抵抗を破壊して空を駆ける。その軌道に微々たる変異すら許さず、ぎこちない動作で前へ進むモノの一体、最も左側に居るそれの頭部に着弾を果たす。
黒弾は額を易々と貫いて内部へと潜り込み、次の瞬間にはあらゆる筋組織を骨格諸共に食い破って、後頭部を弾けさせた。血と腐った脳漿、筋肉と骨片、頭皮に頭髪、それら全てが入り混じり、砕けた頭部から周囲へと飛び散る。
原形残さず頭部が吹き飛ぶと、そのモノは糸が切れた人形のように床へと倒れ伏した。後には痙攣一つせず、完全に動きを止めて醜悪なオブジェと化す。
隣接していた同胞の終わりにさえ反応を示さない二体。ライダースーツの者は腕を僅かに動かして、狙点を右隣のモノに移した。それと同時に引き金を絞り、即座に再隣りへと狙いを変える。標的の変更と弾丸の発射は半瞬程度の差異によって行われた。
その二体も先者と同様に頭部を撃ち抜かれ、一際盛大に内蔵物を撒き散らせる。一体目から三体目が動かなくなるまでに要した時間は三秒に足らず、ライダースーツの者は己の射撃術が正確さと速度を知らしめた。
三体のかつて人だったろうモノが、首から上を失って床に倒れている。ぐずぐずに崩れた損壊部より染み出る腐臭と死臭。人体の一部だった蛋白質の固まりが、赤い血溜りと共に撒き散らされる床の上へ、二種の異なる臭いは混濁し、名状し難い凄惨な絵図に暗澹たる彩りを加えていた。
薄明かりの下ですらはっきりと判る艶やかならざる骸の倒体、常人なら吐き気を催しても何らおかしくない場面。其処に在りながら、ライダースーツの者は汚れて伏した遺骸に目もくれない。その姿の何処にも動揺や恐怖、負い目といった感傷の類は存在しない。
その者はただ、幽鬼が如し三者の後に立ち、今まで姿が判り得なかったモノを見ていた。脆く薄汚い前立者が一掃され、それまで当初よりの立ち位置を動かなかった最後の一体が、対面のフルフェイスバイザーに容姿を映す。
それは一片の肌さえ覗かせぬ、完璧に封じられたライダースーツに全身を包んでいた。色はメタリックブルー、其処彼処に血や黒ずんだ汚れが見えるが、何処にも損傷した部位はない。但し、正面部には。頭にはフルフェイスヘルメットを被り、顔も表情も、歳も性別も一切が不明。
対面者の姿は、バイクの傍らに立つライダースーツの者と全く同じ出で立ちだった。
明らかになった相手の姿をバイザー越しに見遣り、銃を構えたままライダースーツの者は言葉を吐き出す。
「氷一……」
短い一言の中には、悲しみ、憐れみ、辛さ、悼み、幾つもの感情が込もっていた。
人型の三者を再起不能に追い遣って尚、無感動な様を維持した者が、今始めて人間らしい側面を覗かせている。ヘルメットに隠れて表情までは判らないが、それでも対峙する同じ格好の存在へ向ける気配には、先と違う気安さや親しみが仄かにでも滲んでいた。
だがそれも一瞬の事。その者は握る銃の射出口を対峙者のヘルメットが眉間部に定め、相手が動くより早く引き金を引いた。
黒洞の底から発射機構の放射力と、それ自体の回転力を備えた硬度な弾丸が飛び出す。黒の弾は視認不可能な高速度で宙空を舞い、一直線に標的へと吸い込まれていった。これを防ぐこと、ましてや避けることは狙われた側に叶わず、撃ち出された一発は誠実に相手のヘルメット中上点に命中する。
だが、直撃した弾丸はそこで粉々に砕け散り、ヘルメットを貫通しなかった。弾丸の破壊力を全て吸収したヘルメット、しかし衝突の衝撃は殺しきれず、被っているモノの頭毎、首を後方へ仰け反らせていく。
正面に向けられていたバイザーが、首の動きに合わせて視界を上向けた。その動きが首間接の限界へと達した時、弾丸の命中点より亀裂が走る。それは瞬く間にヘルメット全体へ広がり、次の瞬間、軋み音を響かせてヘルメットを粉微塵に砕け散らせた。
頭部をすっぽり覆い、これを護る為の保護具は無数の破片に変じて四散する。ヘルメットの破壊によって着弾の衝撃は相殺され、強制力より解放された頭部が、露になった素顔と共に定位置へと起こされた。
それはまだ17、8歳だろう少年の顔。目付きは鋭く、全体的に細面である。だが眼球は先のモノ達と同じく色を持たず濁っており、皮膚は膨れている所もあれば落ち窪み、筋肉の露出している所すらあった。
ライダースーツを着た少年はやはり口を開き低く呻きながら、引き摺るようにして一歩を踏み出す。その瞬間、少年の額に一点の穴が穿たれ、後頭部は見るも無残に弾け飛んだ。頭部の八割方を喪失した少年は、そこで動きを止めて床へと崩れ落ちる。
ライダースーツの者は、撃ち終えた銃を静かに下ろし、流れるような所作でホルスターへ収めた。二度と動かなくなった少年の姿をバイザー越しに眺めながら、銃を手放し自由になった右手と、最初から空の左手を首許へ持って行く。左右の手をヘルメットに宛がい、これを押し上げて、頭部防護用装備を脱ぎ取った。
対強衝撃構造を持つヘルメットの下から現れたのは、海原のような蒼い髪と、炎を思わせる赤い瞳。年齢にして17歳程度だろう少年の顔。
白い肌と整った顔立ちは、どちらかというと可憐・女性的な部類に入り、病床の少女に似た儚げな印象を与える。
赤い双眸に、今し方自身が撃ち抜いた少年の遺骸――ライダースーツの背部は大きく裂けており、その下の皮膚にも深い傷がある――を映し、蒼髪の少年は悲しげに目を瞑った。見知った人間をその手にかけた自責の念から、ではない。彼へ止めを刺した事に対しては、少年に後ろめたさや後悔の類はなかった。ただ当人の無念を汲んだ同情の一念のみが、少年の顔には宿っている。
そんな少年へ、側方より張りのある女性の声が掛かった。
『雨美、生態スキャンの結果だけど、彼はCTVが発症していた。感染源は装甲スーツ背部の裂傷部、その直下人体組織の傷だね』
声の出所、少年の近辺に人の姿はない。あるのはバイクが一台だけ。その声は、このバイクから流れ出ていた。
『CTVが一度発症したらもう終わり、発症体は百害あって一利なしだ。その事は彼だって知っている筈さ。彼の事は確かに残念だけど、君が処理するしかなかったんだ。これはどうしようもない事さ。あまり自分を責めない事だね』
無機物から発せられた気遣わしげな声に、雨美と呼ばれた少年は、閉じていた瞼を開けて寂しげに微笑む。
「心配いらないよ、レニー。僕は別に自分を責めている訳じゃない。ただ、氷一が不憫でならなくてね」
少年は言いながら振り返り、専用バイクのフロント部へ視線を向けた。割り切りと悲しみの混在する顔は、美麗な少年の顔を更に脆く儚く見せている。
「氷一はCTVの殲滅に自分の全てを捧げていた。それなのに志半ばで汚染され、こんな姿に。何よりも憎む存在に自分が侵され時、彼はどんなに悔しかったろう。それを思うと胸が痛いんだ。大切な誰かをCTVに奪われる気持ちは、僕にも良く判るから」
言い終えると少年は小さく息を吐き、再びヘルメットを被った。後にはもう少年の死体には一瞥もくれず、バイクへと跨る。
シートに腰を下ろし、左右の手がそれぞれにハンドルを握ると、バイクは自動的にエンジンを動かし、各システムを順次起動させていった。その作業と並行して、バイク内に組み込まれている高度な人工知能が、現在少年の必要としているだろう情報を述べる。
『スキャン結果では、地下一層・二層共に発症体の存在は検知出来ない。三室氷一以下三名の発症体は、地下三層から来たものと思われる。同層には他の発症体反応は無いけれど、エーリッツの反応があるからね』
「僕等が通信を受け取った時間から逆算すると、氷一は地下一層と二層の処理を完了させて、三層に下りたんだろう。其処でも処理活動を続けていたけれど、感染・発症してしまった。だとすれば其処より先は手付かずの筈だけど」
少年の言葉を受けて、バイクは速度計の映るデジタルディスプレイにスキャンを終えた階下の立体映像を投影した。搭乗者の目がバイザーから見ている前で、地下一層、二層、三層と立体映像は下りていく。それが四層に差し掛かった時、映像は静止し、フロア全体を埋め尽くす膨大な数の赤い光点が少年の目に映った。
これを見る少年の口から、易い驚きの声が漏れる。
「随分な数だな。氷一は同程度の発症体を、三層分も処理していたのか」
その驚嘆にバイクも同意の声を返す。
『彼のバイタリティはCRVでも随一だ。以前にエーリッツとデータ交換をした事があるけど、軽く君の2倍はあったよ』
バイクの言葉を聞きながら、少年は瞼を閉じた。心中で勇猛な同胞へと黙礼を捧げ、その志、彼を蝕んだウィルス撲滅の引き継ぎを静かに誓う。
同士たる故人への追悼を終わらせた少年が目を開けた時、バイクが今後の方針に伺いを立ててきた。
『敵勢体個々の戦闘力は低いけれど数が多いね。一度戻って準備するかい?』
少年はこの質問に緩く首を振り、否定の意を示す。
「いいや、このまま行こう。僕に寄り道している時間はない。可能性があるなら、一秒だって早くこの手に掴む。氷一もそれを望んでいたからこそ、僕に此処を知らせてくれたんだと思う」
少年の言葉に得心したバイクは、内蔵モーターの高速回転でこれに応じた。次いでディスプレイの映像が、最有効な行動経路に変化する。
これを見遣る少年は僅かに口許を緩め、ヘルメット内部に設置されている高感度単音子スピーカーへ囁きかけた。
「レニー、僕の我が侭に付き合せて悪いね」
『その謝罪は的外れ、これはれっきとした仕事さ。それにボクだって彼女を救いたい』
軽やかな笑声を返し、バイクは前・後輪の電磁加速性コイルを回転させる。少年もヘルメット下で表情を引き締め、ハンドルのスロットルを大きく捻った。
「よし、行こう」
少年の一声を合図にバイクは発進し、直進の後に昇降機の上へ乗る。事前に人工知能が潜入回線を使いシステムを起動させていた為、昇降機は重量物の侵入を感知すると同時に降下を始めた。その最中、重心移動をしてバイクの方向を素早く変えた少年は、ハンドルから右手を離し、順繰りに五指を折り曲げていく。
拳を作るとそれを開き、腕の機能を確かめるようにしながら、移動していく人工物の景観を眺めていた。