デートと二匹の仔猫
「完璧です」
告げられた言葉は達成感に満ちていた。
鏡越しに深く頷くクレアの表情は酷く満足気だった。感情をあまり表に出さない彼女にしては珍しい。
紅筆を鏡台の前に置く彼女の手をなんとなく眼で追った後で、立ち上がり改めて鏡の中の己と向き合う。
ドレスの胸元は淡いブルー。細いウエストを引き立てるようにフリルが泳ぎ、スカート部分はグラデーションを帯びながら下へいく程深い蒼へ。繊細な銀糸の刺繍と縫い付けられたパールが光の加減によって輝く様は揺れる水面のようで。
首元には二連のパールネックレス。中央に輝くサファイアは海を閉じ込めたようなロイヤルブルーカラー。
長い黒髪はクレアが複雑に編み込んだハーフアップで、ジルベルトの髪色と同じ紫紺のリボンがひらりと揺れる。
丁寧に施された化粧と、紅みの強い唇にはピンクの口紅とグロスを重ねて淡い印象に。
「クローディア様の美貌を生かしつつ、デートらしく清楚に仕上げてみました」
輝く瞳で「如何でしょう?」と問われ「とても素敵」と答えてくるりと小さく回ってみせた。ふわりと揺れる裾に合わせて深い蒼が儚く煌めきながら揺蕩う。
鏡の中の自分に向って、にっこりとひとつ微笑んだ。
発端は三日前。
帰宅の早かったジルベルトと夕食を共にしている時の事だった。
「欲しいもの、ですか?」
談笑をしていたジルベルトから「何か欲しいものはありますか」と問われナイフを動かしていた手を止めた。
「クローディアのお蔭で仕事も大分余裕が出来ました。仕事を手伝って下さっているお礼も込めて貴女に何かお贈りしたいのですが」
パクリと白身魚のソテーを口にし、暫し考える。
「・・・物でなくても構いませんか」
やがてして導き出した答えに小さく苦笑いが浮かんだ。ジルベルトが視線で問いかける。
「デートがしたいですわ」
「デート」
意外そうな彼に悪戯っぽく笑いかける。
「そう、デートです。行く場所も、する事も全て旦那さまが考えてわたくしをエスコートして下さいませ。お姫様のように扱って、一日わたくしの事だけを考えて」
クローディアが胸を張ってそう告げれば、ジルベルトは笑いながら胸に手を当て「仰せのままに、我が姫」と首を垂れてみせた。
そして食事を終えて部屋へと戻れば、給仕をしながらクローディアとジルベルトの遣り取りを見ていたクレアが燃えていた。マリーの眼も輝いていた。
「デートの装いは私達にお任せ下さい。必ずやご期待に沿って見せます」
髪と同色のアイスブルーの瞳にまるで決戦に赴くような強い決意を露わにして寄越された言葉にあっけに取られる。胸の前で握りしめれた拳と瞳の圧にぎこちなく頷く。
「デートの場所は何処かしら?それによってドレスの色も選びたいし」
「ジルベルト様ならあまり冒険はせず、形式に乗っ取った感じのコースを選びそうですよね」
侍女二人がきゃいきゃいと話すのを見守る。完璧に当事者よりも盛り上がっていた。
もしかして、と思うことはあったのだけれどいつも冷静沈着なクレアは恋愛事が好きらしい。マリーは見るからに好きそうだけど。
時々意見を聞かれつつ、二人がドレスや宝石を検めだして出してああでもない、こうでもないと話し合うのをクローディアはただ見守った。
「お待たせ致しました」
支度を終えてホールへ向かうと既にジルベルトが待っていた。
彼が纏うのは相変わらず夜を思わせる黒。しかし仕事着である団服よりも華やかさのある装飾は全体の雰囲気を和らげる。クラヴァットを留めるブローチはクローディアの瞳と同じアメジストで、袖口のカフスはロイヤルブルーカラー。項の辺りで括られた紫紺の髪を束ねるリボンは何時もの漆黒ではなく光沢のある藤色。
穏やかに微笑む姿に一瞬瞳を奪われて足が止まりかける。
何とか気を取り直し彼のもとへ歩み寄った。一瞬の動揺は気づかれずにすんだだろうか。
「美しいドレスですね」
「あら、美しいのはドレスだけですの?」
「まさか。貴方が美しいのは自明の事なので、つい。よくお似合いです」
差し出された手。
「美しい姫君、貴女をエスコートする栄誉を私に頂けますか?」
食事の時と同じように、胸に手を当てて首を垂れて見せる彼の手にそっと指を重ねた。
馬車に揺られ、辿り着いた先は劇場だった。
着飾った紳士淑女の群れに紛れ、エスコートされるままに席に着く。席に辿り着くまでに眼にしたポスターの演目に、成程、と自分のドレスを見下ろした。侍女達の予想は見事的中だったというわけだ。ふふっと思わず小さく笑った。
「クレアもマリーも優秀ね」
クローディアが細い指で首元の海の蒼を閉じ込めたような宝石を撫ぜながら眼を細めれば
「見事に読まれていましたね。若い女性に大変人気のある演目だそうですよ」
「とても盛況ね。よくチケットが取れましたわね」
「頑張りました。それなりにコネはあるので」
漣のような喧騒に紛れ、小声で会話を交わしているとやがて開演の音が鳴った。
そうして幕が開かれる____
観劇を終え、うっとりと、あるいは僅かに頬を紅潮させながらにぎやかに囀る女性達。出口へと向かう彼女達の後を追うように、二人も劇場の外に出た。劇場という造られた世界から外の世界に戻ってなお、物語の余韻に浸るかのように彼女達の瞳は甘く緩んだままだ。
「お気に召しませんでしたか?」
劇場から少し、予約されていたカフェの個室での事だった。
用意されたアフタヌーン・ティーに舌鼓をうっていたクローディアは眉を下げたジルベルトに首を傾げる。
甘く可愛らしい雰囲気に統一された丁度品や可憐な花々。
ティースタンドには定番のスコーンやキュウリのサンドイッチ、数種のケーキやタルト。
先程まで眼を輝かせて室内の装飾を見渡していたし、今も作り物のように可愛らしいケーキやタルトのどれから手を付けようかと迷っている姿を眼にしているのに何故、と疑問に思うと「そうではなくて」とジルベルトが軽く首を横に振った。
「観劇はお気に召しませんでしたか?」
パチリと瞬く。そしてクローディアも同じく首を振った。
「とても素敵でしたわ。すごくロマンチックな雰囲気で、衣装もとっても素敵でしたし、何より主演の方の演技と歌声が素晴らしかったですわ。海の上で王子を想って歌う場面など、胸が痛くなる程美しい歌声でした」
真っすぐにジルベルトを見て答えれば、彼の肩がほっとしてように下がった。
それを見て申し訳ない事をしたなと思う。きっと自分が他の女性達のように熱に浮かされていなかったから彼はクローディアが楽しめなかったのかと気にしていたのだろう。
「流石に人気のある劇団ですわね。主役陣以外もレベルが高い方々がそろっていますわ」
「そうですね、前作も人気がありましたし、年々人気と知名度が上がっているようですよ。次回作が始まったらまた是非お連れしますね」
微笑んで、クローディアは小振りな苺のタルトを取った。艶々とした苺がとっても美味しそうだ。ふとジルベルトの空の皿を見る。
「旦那さまは召しあがられませんの?」
「如何しましょう。甘いものはあまり得意でなくて」
「では此方は?チーズケーキでしたら甘さも控えめだと思いますわ。それともスコーンやサンドイッチの方がいいかしら?」
ティースタンドの幾つかを指し示せば、ジルベルトは一口サイズのチーズケーキとスコーンを皿に取る。ふと思いついて細いフォークで艶々とした苺を刺す。刺繍の美しいテーブルクロスの敷かれた机から少しだけ身を乗り出してフォークの先端を彼の口元へ。
「召し上がって下さいませんの?」
きょとんとするジルベルトに小首を傾げて見せれば、ジルベルトの手がクローディアの細い手首を支え赤い果実が彼の口に。
「美味しいでしょう?」
得意げに笑えば彼が「ええ、とても」と微笑む。
フォークの先で切り取ったタルトを苺ごと口に運べば、甘酸っぱい果実とさくさくとしたタルトと濃厚なカスタードの織りなすハーモニーに思わず頬が緩んだ。
アフタヌーン・ティーの後、季節の花々が眼を楽しませる庭園をゆっくりと散策して、様々な店が立ち並ぶ通りを連れ立って歩いていた時のこと。不意に眼があって視線が止まる。一瞬のそれに気づいた傍らのジルベルトが足を止めた。
「入りましょうか」
「いいえ。大丈夫ですわ」
促す彼に首を振ったけれど、僅かな未練が漏れていたのかも知れない。ジルベルトがクローディアの手を取って「入りましょう。私もこのような店には入ることがなくて新鮮ですし」と笑って店の扉を開けた。
オルゴールの落ち着いた音色。
可愛らしい柄のティーセットやペンに小物。日常使いの小振りなアクセサリー。
店内の客は十代半ばの少女が多く、可愛らしい空間に若干尻込みするクローディアの背をジルベルトが促す。幾人かの少女達が淡く頬を染めながらちらちらとジルベルトとクローディアの方を盗み見ていた。
可愛らしい空間が自分達には不釣り合いな気がして、先程のカフェとは違い人目に晒されているのがなんとなく落ち着かないながらも店内の商品を見て回る。
そしてある棚の前で足を止めた。
何匹もの子猫がちょこんと座る。澄ましたように前足を揃えて佇む色違いの仔猫のぬいぐるみ。
そっと手を伸ばしてその内の一匹を抱き上げた。ふわふわと毛並みのいい仔猫の紫の円らな瞳がきらりと光る。先程ガラス越しに眼があった仔だ。円らな瞳は本物のアメジストを嵌め込まれて作られているらしく、他の子猫たちもそれぞれ色とりどりの宝石があしらわれていた。
ピンク色の鼻先をちょこんと突いて、それを元に戻そうとすればその前にジルベルトの手がそれを受け取った。
「可愛らしいですね。貴方に似ている」
大きな手に黒猫のぬいぐるみを抱える彼を見上げた。
「プレゼントさせて下さい。他に何か気に入ったものはありますか?」
尋ねる彼に首を振る。するとジルベルトは後者の質問に対しての答えと受け取ったらしく、店員のもとへと向かおうとした。その袖口を掴んで止める。
「あの・・・大丈夫です。その仔もただ見ていただけなので」
「ですが気に入ったのでしょう」
その言葉に一瞬止まり、だけど、とぬいぐるみを取り戻そうとしたけれど躱されてしまった。不思議そうにこちらを見るジルベルトに俯いて、スカートを軽く握る。
「わたくしには・・似合わないですし。それに、一人にしては可哀想ですわ」
クローディアの言葉にジルベルトは並べられた色違いの仔猫達へと視線を向けた。一匹一匹に視線を沿わせ、やがて伸ばされた腕が仔猫を抱え上げ、クローディアの顔の横に並べた。
「この仔も貴女に似合いそうですね」
選び取られたのは雪のような真っ白な毛並みに黒猫と同じくアメジストの瞳をした白猫。
「これなら寂しくないでしょう?」
右手に黒猫を、左手に白猫を抱えたジルベルトが踵を返して店員に会計を頼む姿をクローディアは言葉もなく見送った。
小さな籠にちょこんと収まった黒猫と白猫。
二匹のしっぽの先がピンク色のリボンで結ばれている。
眼の前に掲げられた籠から二対の円らな瞳が此方を見つめる。
呆然と彼からそれを受け取って、胸の前でぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうごじます」
見上げて礼を述べれば、ジルベルトが柔らかく微笑んだ。ついで歩くのには邪魔だろうと一度それを受け取ろうとしてくれたジルベルトに首を振る。左手に仔猫を入れた籠を掛け、少しだけ躊躇った後で右手で彼の左腕を掴んだ。
「すごく、嬉しいです。本当に有難う御座います」
「こちらこそ。姫君のお気に召したなら幸いです」
歩調に合わせて、ピンクのリボンで結ばれたしっぽがゆらりと揺れた。