聖女という存在
差し出された掌に指先を重ねてステップを登る。
段差の分だけ近くなった視線。それでも視線は彼の方が僅かに高い。まじまじと見上げれば「如何しました?」とジルベルトが首を傾げた。
「別に。ただこの視線の高さが新鮮でしたの。いつもはもっと見上げなければ旦那さまのお顔が拝見出来ませんもの」
ふふっと取られていない方の手を口元に当てて微笑んでから腰を下ろした。対面に彼も座れば視線の高さはいつもの距離に逆戻り。馬車の車内では彼の長い足と膝が僅かに触れ合った。侍女と二人の時には触れ合うことのなかったそれに男女の身体の大きさに改めて気づく。いつもは対面に座るマリーは、今日はクローディアの隣だ。
「一緒に帰宅出来るのは初めてですわね。少しはお仕事に余裕が出来たと思って宜しいのかしら?」
「少し、ではなく大幅に。まさかあれ程仕事が早いとは思いませんでした。魔術師団の中でも貴女程優秀な方は他にいません。団長に仕事をさせて下さった事も含めて貴女の事を女神と崇めている団員もいますよ」
そういえば廊下を歩いている時に此方を拝んでる人が居た気がする。どれだけ周囲に迷惑をかけていたんだと先ほどまで話していた男を思い出した。
「部下にしたいくらい?」
悪戯っぽく眼を細めて覗きこめば「上司にしたいくらいです」と笑い返された。
それから他愛のない話題を重ね、屋敷までもう少しというところで馬が嘶き馬車が揺れた。「きゃっ」急な衝撃にマリーの小さな悲鳴が聞こえた。
唐突に暗くなった視界。黒の中にある銀糸の模様。一瞬遅れて、自分がジルベルトに抱き留められていることを知る。暗い視界は、彼の漆黒の衣装の色。外の様子窺っているのか、ジルベルトは座席から滑り落ちそうになったクローディアを腕の中に閉じ込めたまま動かない。トクトクと一定のリズムで押し付けられた彼の胸から鼓動が響く。
暫くして衝撃と喧騒が収まりジルベルトがクローディアとマリーに無事を確認した。漸く上げられた顔でジルベルトへ庇ってくれた礼を告げる。
どうやら馬車の前に人が飛び出してきて接触しそうになったらしい。
「吃驚しましたわ」
再び動き出した馬車の中、胸に手を当ててそう呟く。一定のリズムで刻まれる鼓動は、ジルベルトのそれとは違うリズムを奏でていた。
「先程の質問」
紺碧の瞳を見つめる。ポツリと放たれた言葉の意味が分からず、怪訝そうなジルベルトに言葉を重ねた。
「わたくしが王妃候補であったこと。別に聖女としての期待だけではありませんのよ」
「どういう事ですか?」
「一目惚れ」
続けた言葉はまたしても意味が届かなかったのだろう。再度ジルベルトが怪訝そうな瞳を浮かべた。
「髪色の変化が露わになったわたくしをあの国が見つけて、レオン殿下が一目惚れなさったそうですわ。勿論、わたくしなんかが仮にも殿下の婚約者として認められたのは、わたくしが聖女だったからですけれども」
「しかし・・・・レオン殿下は・・」
言いづらそうな彼の言いたいことはわかった。
何せ、彼は見ているのだ。レオンがクローディアへ向けたあの冷たい蒼い瞳を。怒りと、蔑みを含んだ蒼い瞳がクローディアを見下した姿を。
クローディアの首へ剣を突きつける姿を______。
あの日、クローディアが断罪され、婚約破棄を言い渡された場に彼も居たのだ。
信じれるわけがないのだろう。
「心は変わるものですから」
何と言えばよいかわからなさそうなジルベルトへにっこりと笑いかける。
「それに、その心変わりのお蔭で旦那さまと今こうして居られる訳ですから。心変わり様様ですわ」
見染めた少女を婚約者にする。
それは別に珍しい事ではないのだ。何せシュネールクラインは周辺国では珍しい、かつては後宮制度のあった国なのだから。何世代か前に流行り病により国が多大な被害を受けた。王族・王宮の者も幾人も被害にあい、王や王妃の崩御に伴い幼い王子が戴冠した時代があったらしい。受け継がれる前にそれを知る王や重鎮を失い、失われた文化があの国にはある。後宮制度もその一つで、今は実質機能していない。
それでも他の国と同じく王家として側室を娶る事はあるし、突如見出された少女が側室でなく王妃にという事は珍しい。
「レオン殿下はご自身の心に素直な方ですから」
かつての婚約者を思って苦笑いした。
「良くも悪くも、真っすぐな方なのですわ。ご自身の思った事を貫かれようとなさる。それにそもそも、失われた文化と共に聖女の価値など形骸化しつつありますのよ」
実際、聖女の数も質も昔とは比べるべくもない。
今でも聖女は幾人か存在するが、昔はそれこそ数多くの聖女がいた時代があったという。
そうしてその中では正に『奇跡』と呼ぶに相応しい、人智を超える能力を持った救国の聖女も存在した。
「期待はあれど今はもうお伽噺のようなものなのでしょう。実際、新たに殿下が婚約者とされたフローラ様も聖女としての能力はさほど高くありませんもの。それこそ昔は少しでも聖女の資質が見受けられれば、あの国は根こそぎその聖女を手に入れようとしていましたけれど今はそこまで躍起になっておりませんわ」
クローディアやフローラより余程聖女としての役目を果たしている聖女は幾人もいるし、権力を持つ者の眼に止まりやすいというだけで普通に暮らしている聖女だっているのだ。
だからこそ
クローディアがレオン殿下の婚約者だったのはそれこそ殿下の一目惚れが原因で、
だからこそ、要らなくなったから手放された。
眼を伏せたジルベルトが膝の上で手持無沙汰に手を組んだ。
「亡くなった私の義母も、聖女でした」
零された言葉にクローディアは眼を見開く。隣のマリーからも驚く気配がした。
「・・・お義母様が。」
「ええ。能力はさほど強くなく、未来視、と言うのでしょうか。少女であったときは幾度か予知のようなものをする時があったそうですが、結婚をする頃にはもう見る事も無くなっていたそうです。」
「そういう事もあるそうですわね」
「義母も・・・瞳の色が変わりました。幼い頃、ある日急に義母のペリドットの瞳の色が若干淡い色味に変わって驚いた事を覚えています。義母の場合は、元々その色合いだったのがある日変わって、元に戻ったという事だったのですが」
不意に伸ばされた腕に無意識に躰が強張る。
伸ばされた指が黒髪を撫ぜた。髪越しに肌に触れる手の感触にクローディアの肩がピクリと跳ねた。
「貴女の髪はとても美しい。美しい貴女によく似合っています」
柔らかく告げた後で、ジルベルトが小さく笑って「きっと元の髪色の貴女も輝くばかりに美しかったのでしょうが」と続けた。
髪を梳いた長い指が離れていくのを見送る。
「当然ですわ」と軽く返したいのに、タイミングを見失って「ありがとう、ございます。」と返した声はたどたどしかった。
気を、遣ってくれたのだろうか。
若干気まずい思いを抱えていると、隣のマリーが何かを問いかけたそうにしているのを感じた。会話に加わることは躊躇っているのだろう、声は掛けないマリーに此方から問いかけた。
「どうかしたのマリー?」
「あ、あの。お話し中に申し訳ありません。その、先程からお話に出てくる聖女様とは何なのでしょう?」
知らない事が恥ずかしいのか段々と小さくなっていく声。
まぁ、言葉は耳にしたことこそあれ一般的には馴染みのない存在だろう。それこそ先程言ったお伽噺レベルで。
「魔術は魔力によって現象を起こす。魔術ではなく不可思議な現象を起こすのが聖女だ。」
「不可思議、ですか?」
「ああ。魔術には魔力と、魔術を行使する為に複雑な術式を用いる。組み立てた理論に基づき、然るべき手順を踏んで現象を組み立てるのが魔術だ。己の魔力量と見合わない魔術は使えないし、術式が僅かでも違えれば魔術は発動しない。魔術は理に基づく」
「はぁ」
「例えば魔術による治癒は復元によるものだ。傷口を治癒を促進する事によって塞ぐ、傷を塞ぐ事が出来ても失われた血液や、欠損、生まれつきの欠陥は治らない。その理に外れた存在が聖女で、彼女達は様々な理に外れた能力を使う。未来を知る者、欠損を治せる者。魔術では出来ない事をなす者や、魔術で同じ現象を起こせる場合でもその発動が全く異なる」
「・・・」
「勿論、何らかの理論に基づいた方が行使できる力の大きさは増えるのだろうが、理論に基づかずとも現象を起こす事が可能だ。魔力が生まれながらに備わっているのに対し、ある日唐突に発現する所も理由は不明なままだ。人の理に外れた能力。故にそれらは“奇跡”あるいは“神の気まぐれ”などと呼ばれる」
淡々と紡がれる説明。
専門分野だからだろうか、ジルベルトがいつになく饒舌だ。途中からマリーの表情が若干泣きそうになっていた。わかったか、とばかりに説明を止めたジルベルトだが、対するマリーは明らかに疑問符を飛ばしている。
「えっと・・・理解が悪くてすみません」
申し訳なさそうに謝るマリーに、ジルベルトが彼女が理解出来るように更に説明を重ねようとすると彼女は両手を振りながら「聖女様と魔術が違うのは何となくわかったんで大丈夫です」と必至で止めようとしている。二人とも大真面目にそんなやり取りをしているのがおかしくて、クローディアは口元に手をやりクスクスと笑った。
「マリーは魔術は使えて?」
問いかければ、返ってきた答えは否で。
「なら余計に難しいかも知れないわね。そうね・・・例えば、料理をイメージしてみて」
「料理ですか?」
「ええ。料理を作るのにレシピがあるでしょう?それが術式で理。手順に基づき、必要な材料を調理する。知らない料理は作れないし、技術が足りない料理は出来ない。次に素材が才能や魔力で、同じ料理でも使う食材によって味は違ってくる、そもそもその食材がない料理は作れないわ。でもセンスがある人はレシピがなくても料理を食べただけで、食材や工程を理解して同じ料理を再現したり出来る。それが旦那さま達みたいな人達ね。」
「ここまではいい?」と聞けばコクコクと頷かれる。
「料理をした事もない子供がある日いきなりフルコースを作る。そんな事が出来るのが聖女。例え誰でも作れる家庭料理だとしても、手順を知る人間が作るのと、その料理の存在すら知らない人間がいきなりそれを作るのでは出来上がる料理は同じでも意味合いが異なるでしょう?すごくざっくりしたイメージだけそんな感じかしら」
「成程。なんとなくイメージ出来ました。聖女様って不思議ですね」
「そうね。そして凄い料理人だと期待されていたのに、スクランブルエッグしか作れなくてガッカリされた、っていうのがわたくしなの」
クスクスと笑いながら続ければ、またもマリーがブンブンと両手を振る。
「いえっ。クローディア様はとても料理がお上手です」
例え話であって、実際の料理の話ではないのに必死にフォローを入れるマリーに「ありがとう」と微笑む。ジルベルトが驚いたように眼を丸くした。
「貴女は料理をなさるのですか?」
「ええ、趣味ですの。先日、差し入れをお持ちしたでしょう」
「貴女が・・・お作りになられたのですか」
「お口に合わなかったかしら?」
「いえ。とても美味しかったです。なのでてっきり料理人が作ったものだとばかり思ってました」
「まぁ嬉しい。先日は食べやすいよう軽食にしましたけど、今度は是非もっと手の込んだものも召し上がってくださいな」
そんな会話を続けている内に、やがて馬車は屋敷へと辿り着いた。