母と私と、嵐の夜
「私の母は病気です。それも未知の病でした」
イヅナは、落ち着いた声で話し始めた。
「私は子供の頃、東部の港町にいました。母と父と祖父母の5人家族でした。家業は刀鍛冶です。父の技術は一流でカットラス、ナイフ、ロングソード。刃がついている物ならどんなものでも作れました。東部は田舎で、ここみたいにいろんなものはありませんが、流れる時間がゆっくりで、人間として自然な姿勢で生きているように感じました。生活は決して豊かではありませんでしたが幸せでした」
イヅナの眼差しは遠く、彼方に向けられていた。
その眼差しには悲しみと何とも言えぬ、郷愁の色が見えた。
「ある日でした、母が高熱を出して倒れました。数日前から様子がおかしかったのですが、ある日ぱったりと。お医者様に診てもらいましたがただの風邪とのことでした。お薬を飲んで、数日すれば治るだろうと……言われました」
イヅナは、こぶしを握った。
すごく辛そうだった。
「その後はお医者様のいいつけ通り過ごしました。ですが、母の容体は一向に良くなりませんでした。何日経とうと……全く、全然。お医者様にも何度も診てもらいましたが手のうちようがありませんでした」
イヅナは大きく息を吸った。
「正直言うと、もうだめだと思いました」
イヅナは再び堪えるような話し方をした。
「お母さんとはもう、お別れだと。もうだめなんだと……ですが、ある日不思議なことが起きました」
イヅナは顔をあげた。
「ある夜、母が消えたのです。ベッドから忽然といなくなってました。その夜はものすごく風が強い夜で、まるで嵐のさなかの様でした。そんな夜に、お母さんが消えるなんて……。私はもう二度とお母さんには会えないのだと思いました。しかし夜が明けてみると……母がキッチンに立っていたのです」
「私も父も驚きました。私たちは喜びましたが、母は頑なに昨夜どこに行ってたのか?何をしていたのかは話しませんでした。私たちは不思議に思いましたが、母の健康な姿以外に望むものなんてありませんでした。なので、そのことを追求することは……しませんでした」
俺は黙って、イヅナの話を聞いている。
他の2人もそうだった。
「その朝から家族の日常が返ってきました。私は母とずっといろんなお話をしました。夜も一緒に寝て、食事は必ず母の隣で……幸せでした。何の変哲もない日常でしたが、特別なことだったんだって……思えました」
イヅナの話は続く。
音が世界から消えたようだった。
「しかし、そんな日常も長くは続きませんでした。再び母が体調を崩し、寝込んでしまったのです。そこからは以前と同じでした。熱はずっと続き一向に収まりません。そして……ある夜に再び忽然と母が消えたのです」
俺はある事に気がついた。
他の2人の反応から見るに恐らく彼女らも、話を初めて聞いたようだった。
「その夜は雷が一晩中、降りしきりました。私たちは不安でした。初めの夜は母の命の心配をしました。しかし今回は……それとは別種のまた違った……不安でした」
2人が息をのんだ。
「次の朝。母はキッチンに立っていました。何にもなかったかのように平然とそこに立っていました。それを見つけた私と父は……母に声を掛けれませんでした。何を言えばいいか……わからなかったのです。なんというか、その、私は、母が、こわ……かったです」
イヅナは苦しそうだった。
そう思ってしまったのがすごく後ろめたいことのように話した。
「しばらくすると、父は母におはようを言いました。そしてそのまま席に着きました。私は……私もそうしました。このまま口をつぐんでいれば幸せな生活が続く。何も変なことも不幸も起きない。そう思っていました。その時までは」
「口にふたをしても心にふたはできませんでした。一度生まれた疑念の種は心の中で大きくなっていきました。母がどうなっているのかその疑問は日に日に増していきました。その疑念のせいかもしれませんが、私は今まで通りの日常を今まで通りに過ごせなくなっていました。母を疑ったまま過ごす日常は何だか偽物みたいでした。いつもの食卓でも、何も知らないみたいに笑顔で食べている事にすごく違和感がありました。そんな日々の中、私の不安は現実になりました。母がまた……熱を出したのです」
「家族はいつも通りに母に接しました。もう、お医者様を呼ぶこともありませんでした。父は、母の部屋に行かずゆっくりさせてあげようと言いました。私もその言葉に頷きました。しかし、ある夜、私はいいつけを破り高熱で寝込む母の部屋へ行きました。母は……私の顔を見て優しく笑ってくれました。いつもの大好きな母の笑顔でした。でも、少し悲しそうにも見えました。それは……私の目に宿る恐怖と不安を……感じ取っていたからだと思います」
「私は母の元に行きました。母の手を握るとすごく熱くて、燃えているようでした。私はお母さんに聞きました。何が起こっているのか?どうして夜にいなくなるのか?その夜に天候が荒れるのは関係があるのか?全部聞きました」
「母は、何にも言いませんでした。ただ、愛してるとそう言われました。私は何も言えませんでした。ただ強く手を握ってまっすぐに母を見つめました。そして、私も愛してるよと言い部屋を出ました」
「次の夜、母が消えました。その日は大雨でした。みんな、その夜は何も言わずに誰が言い出すでもなく、いつもより早めに寝床につきました。私は自室のベッドの中で目をつぶっていました。その夜はとても静かで激しく窓を打つ水の音だけが部屋にこだましていました。その音が私の心を乱しました。心に生まれた不安は波紋を生み、抱えている恐怖がだんだん大きくなっていました。雨の音は激しさが増すばかりでその音が私の頭の中でだんだんだんだん大きく、大きくなっていきました」
「私はたまらずベッドから顔を出し、窓を見ました。そこにあったのは変わらない星空でした。大雨で歪んでいましたがはっきりと輝く月光と星々が見えたのです。おかしい……そう思いました。なんで雲がないの?そう思いました。私の中の漠然とした不安ははっきりとしたものになりました。気がついたら私は大雨の中走り出していました」
「どこに行けばいいのか、私は何故かわかっていました。街のはずれの海岸線、山々に囲まれた美しい砂浜。私はそこに走りました。道は川のように雨がとめどなく流れていました。私は空を見ました。きれいな夜空と私たちの間に、湖ほどの水の塊が雲のように覆いかぶさっていて、そこから……水が滴っていました。その塊の始発点を辿れば……私の向かっている砂浜からへその緒のような細い水の管が見えていて、そこから街中に広がっているのが見えました」
「砂浜につくと、そこには大きな透明な水の球が浮かんでいました。その中心には……お母さんがいました」
「私は母の元に駆け寄りました。母はそれに気がつくと私を止めました。来ないでと言ったのです。私は聞きませんでした。母に拒絶されるよりも、母を孤独にすることの方が恐ろしいことに私は思えたからです」
「母は動揺していました。お願い来ないでとうずくまる母の元に私は行くと水の中に入って行きました。呼吸ができない、苦しい、でも母は私を抱きしめてくれました。どうしてきたの?母の問いかけに私は、手をぎゅっと握ってただまっすぐ母を見つめました」
「瞬間、水球ははじけ飛びました。母は私に笑いかけてくれました。私が知ってる……あのお母さんの笑顔でした。いつも通りの嘘偽りのない笑顔でした。私はその笑顔が見たかったのです。心の底からうれしかった。拒絶され続けた日々はこれで終わって、本物の日常に戻れると思いました」
「次の瞬間……私は水に飲み込まれました。空に浮いていた水の塊が全部落ちてきたのです」
「私は激しい水の流れに翻弄され、溺れました。薄れゆく意識の中、最後に見たのは母の姿でした。激流の中を進み、私に手を伸ばしていました。その手を取ろうと私も手を伸ばしましたが、取ることは叶わず。私の意識はなくなりました」
「意識が戻った時、私は波打ち際に倒れていました。頭はまだはっきりせずくらくらしていましたが体を起こすと、隣には母がいました。私はすぐに母の側に行きました」
「母に触れると、まるで氷のように冷たく、死んでしまっているのではないかと思いました。私はすごく焦りました。せっかく元通りになれたのに。せっかく戻れると思ったのに、お母さんがなくなっちゃう。私は必死に母の体を揺すり、声をかけ続けました。手も声も震えていたと思います」
「私の気持ちが伝わったのか、お母さんは目を開けました。そして私のほほを撫で、笑ってくれました。水平線の向こうから登ってきた朝日がすごく眩しかったのを覚えています。私は泣きました。母も泣いていました。しばらく波打ち際で大声で泣きました。泣き終わった後、お互い大泣きしてぐちゃぐちゃになった顔を見て……大笑いしました」
「笑っていると私がくしゃみしました。風邪ひいたら大変だねと母は言い、二人でおうちに帰りました」
「帰り道に見た街は大騒ぎでした。昨夜の大水のおかげでほとんどの家は床上浸水していました。低い場所の家々にはまだ水が引いていない所もちらほら見えました」
「私たちは急いでお家に戻りました。例にもれず私たちの家も浸水していました。住居のみならよかったのですが父の鍛冶場にも水が行っていたみたいで炉がダメになっていたりしました」
「父は手をつないで帰ってきた私たちを見て安心したような顔をしました。笑みはありませんでしたが安心したような、泥んこになって帰ってきた子供を見るような、そんなやさしい顔でした」
「4、5日は街のみんなが総出で大水の処理にあたりました。私は街のお母さんたちと一緒にいっぱいサンドイッチを作って、泥かきや、家の修繕をする大人たちに配って回りました」
「騒動がひと段落すると、お母さんが家族を集めました。私たちは覚悟していました。でも、もう、母に対する恐怖はありません。何があろうと受け入れようと。母を受け入れて共に生きて行こうと、思っていました。たとえ何があろうと」
「母は真新しい床板の敷かれたテーブルしかない部屋に椅子を置きました。私たちは無言で椅子に座りました。そして母が話を始めました」




