悪魔の空間
「う……」
気付けば、座り込んでいた。軽くめまいを感じたので俺はリュックを床に下ろす。
辺りは暗闇で、何も見えない。状況を確認すべく明かりの魔法を使い、周囲を照らす。
「これは……」
まず、俺は一人になっていた。そしてここは……石造りの部屋の中。真四角で広く、ダンスホールくらいの空間。そこに俺はいた。
「次元の悪魔……その異空間というわけか」
声をこぼしながら、恐怖が押し寄せる。悪魔に捕まってしまった以上、俺に待ち受けるのは脱出か死か……。
ただ荷物ごと転移したので、悪魔を振り切ることができる道具については……いや、俺の荷物はもっぱら傷を癒やす薬草とか、携帯食とかそういうものだ。逃走に役立てる物はほとんどない。
「煙幕を張るくらいか? でも、そんなことをしても――」
いつ何時悪魔に襲われるかわからない状況で、俺は動けない。背後に悪魔が忍び寄り、首を斬られる……そんな想像をして身震いした。
とはいえ、死にたくなければ動くしかない……後方支援であっても戦場に幾度となく飛び込んできた経験が、俺の足を立たせる。まず周囲を見回す。空気はピンと張り詰め、俺の所作による音しか耳に入るものは存在しない。
「悪魔はどこにいるんだ……?」
明かりは部屋全体を照らしてはいるのだが、悪魔の姿が見当たらない。何かに擬態しているのかと考えたが、異空間に小石一つ落ちてはいない。
だが少しして、俺は見つけた。四方囲まれた石壁に、扉が一枚だけある。壁と同質だが奇妙なことにドアノブがあるため気付いた。
異空間である以上、あの先が出口に繋がっているとは思えないのだが……他に道もないため俺はそこへ近寄った。ドアノブに手を掛けゆっくりと回し、扉を……開く。
その奥は暗闇だったが、俺の魔法がすぐに照らした。奥にいたのは、先ほど見た悪魔と同じ存在。次の瞬間、鳥肌が立つほど濃密な魔力が、体に浴びせられた。無数の刃が俺の体へ突き刺さるような――恐怖の塊が津波のごとく押し寄せてくる。感じたことのない絶望。途端、体が震え始めた。
直後、悪魔が俺へと迫ろうとする。力の有り様を見て勝てないと判断した俺は、必死に体を動かして扉を閉めた。
悪魔の姿が見えなくなり、俺は這うようにして扉から大きく後退する。どのみち扉を開けられたら命はない。半ば死を覚悟しながらも、腰の剣を抜いて抵抗しようと身構える――
「……あれ?」
来なかった。そればかりか悪魔の気配さえ消失していた。
理由はわからないが、悪魔はこの部屋に来れない? いや、そもそもこの空間は次元の悪魔が作り出したものだ。にも拘らず、ここに入れないなんてあり得ない。
だが、しばらく経ってもやって来ない……ここで俺は悪魔の特性を思い出す。
魔族の手先である悪魔には色々と特性がある。残虐性などは魔物以上だが、異質なのが契約やルールを遵守することである。
例えば悪魔が人間に力を与える代わりに、生け贄として他の人間を差し出せと契約を迫ったとする。その場合、きちんと人間が契約内容を実行すれば、どれだけ狡猾な悪魔でも絶対に力を与えることになる。無論悪魔が力を得た人間に襲い掛かるのは契約外なので、あっさり殺される可能性が極めて高い。
けれど、例えば力をもらう側の人間が自分を殺さないよう契約内容を交渉した場合はどうなるか。それだったら絶対に悪魔は契約した人間を殺さない。悪魔達の契約は強力な拘束力があり、もしそれを破れば悪魔自身が滅ぶことになる。
で、今回の場合は……次元の悪魔が作り出したこの異空間だが、ここでも悪魔には一定のルールが適用されているようだ。先ほどの強烈な魔力……あれが扉を抜けた先にしか存在していないということは、あの場所で次元の悪魔は圧倒的な力を発揮するし、出口などがあるってことだろう。
悪魔の中には、どう考えても理屈に合わない行動をする個体がいる。俺の現状がまさしくそうであり、わざわざ俺を閉じ込める部屋を用意する必要性はどこにもないはずである。さっさと力でねじ伏せてしまえばいいはずなのだが……この場合、悪魔は俺が恐怖する姿を眺めたいってことなのだろうか。
「実際、それは成功しているわけだけど……」
おそらくこの部屋にいれば安全、というか襲われることはない。しかし脱出できない以上は、どうしようもない。ここにいてもいずれ食料が尽きて飢え死にするだけだ。
俺は荷物を置いて地面に寝転がった。悪魔はきっとこの部屋を透視とかできるだろう。なら今頃ほくそ笑んでいるに違いない。
天井を見上げ、今までのことを思い返す。勇者に憧れ、剣や魔法を極めたくてここまで突き進んできた。荷物の中に魔法や剣術に関する書物を持ち込んでいたりもするくらい、学び続けた。でも結局強くはなれなかったし、最後に辿り着いたのは悪魔の部屋……悲しい終わりである。
「これが結末か……」
諦めるように言葉を発し、目をつむる。眠っている間にトドメを刺してくれないだろうか……そんな考えと共に、俺の意識は沈み込んだ。
――どのくらい時間が経過しただろうか。目を開けると暗闇が広がっていた。明かりが消えたのだと思いつつ魔法で再度照明を生み出す。
部屋の様相は何一つ変わっていなかった。それどころか悪魔の気配さえない。やはり扉の先に存在し、こちらには来れない様子。
「……はあ」
ため息を吐いた後、上体を起こす。助かる道がないとしたら、おとなしく悪魔に殺されるしかない……と思った時、あることに気付いた。
眠っていた時間がどのくらいはわからないが、一時間や二時間といった居眠り程度ではない。深夜から朝まで眠ったような感覚があった。
しかし、空腹感が一切ない。次元に悪魔に捕らわれる少し前に、簡単な食事を行ったのだが、その状態のままである。
「……どういうことだ?」
ついでに言うとトイレに行きたいなどという生理的な変化も皆無。そこで俺は荷物から資料を取り出した。魔族や悪魔に関する情報を調査してまとめていたものを確認する。次元の悪魔については、奇跡的に脱出を果たした人間の証言から学者が分析していて、俺はその報告書を書き写していた。
『異空間内は時間が停止しており、肉体の成長などもそれに応じて止まる。怪我などをすれば空間内の特殊効果により、異空間に取り込まれる寸前の状態に時間を掛けて復元するようになる。また、食事などの必要性もなくなる』
俺はそれを読むと、自分の体を見据えた。
「飢えや渇きで死ぬことはないのか……」
つまり悪魔を振り切って脱出しなければならない以上、死ぬ手段は悪魔に殺されるかしかない。まあ致命的な傷を負えば死ぬとは思うから、自分の首に刃を突き立てるのも手段としてはあるか。
無残に殺されるしかないのか……と思っていると、俺は写した資料へさらに目を向ける。
『ただし例外も存在する。魔力については時間停止の理から外れており、成長促進などの効果がある。脱出を果たした人物は薬で魔力を強化し、その効果が異空間内で維持できたと説明しているため、間違いない。理論的に異空間内に留まっていれば魔力を鍛えることは可能だが、通常であれば異空間に捕らわれたらすぐさま悪魔や魔族に殺されるため、鍛えるなどという行為は本来不可能である』
魔力だけは……俺は書き写した資料をじっと見ながら考える。
悪魔からすれば、異空間に閉じ込めてしまえばいくらでも料理できる。普通はさっさと始末して人間の魔力を取り込めばいいはずだし、これまではそのようにやってきたはず……だが今回は趣向を変えた。
嗜虐的な思惑により、部屋を一つ作ったのだろう。この悪魔は人間が恐れる姿を鑑賞しようと思ったのだ。異空間内で圧倒的な力を見せつけることによって、絶望を与える。そうやって単に餌とするだけではなく、楽しむ……そんな思惑が感じ取れた。
けど、これは俺にとってチャンスではないか……飢えや渇き、時間経過で死ぬことはなく、魔力についてだけ成長する余地があるのであれば、悪魔を打倒できる強さを得られる可能性はないのか?
「……どうせ死ぬ結末しかない以上、やれるだけやってみるか」
このまま坐して死を待つよりも、遙かに有意義だろう。そんな風に思い、俺は早速行動を開始した。