573 狼は吠える
マルグリット卿に買われた奴隷は闘技場で殺し合わされる。その情報を聞いて、俺は居ても立っても居られなくなった。
なにせリュカとはイきり雑魚の代名詞。誰にでも噛みつく荒い気性に対し、実力が微妙に足りていないのだ。
威勢のいい啖呵をきり、返り討ちにされる姿が目に浮かぶようではないか。アババババ。このままだとリュカが人狼の剥製にされちゃうよぉ。
「ごめんなさい。少し子供たちを見ていてください」
「ええ、ええ。いいわよ。そうね、あそこに子供を連れていくのはちょっとねー」
奥さんの白兎は言わずとも理解を示してくれる。奴隷同士を戦わせて見世物にするなんて、子供の教育に良くないのだ。
ちょっと行ってくるよ。そう言って俺が椅子を立ち上がると、エルマは幼女と人形遊びをする手をピタリと止めて、酷く不安そうな目でこちらを見て来た。
「どうした?」
「う、ううん。マリーの面倒は僕がちゃんと見ておくから、行ってらっしゃい」
俺は首を捻りながら部屋を後にする。周囲は似たような古い建築が多いから、帰りに迷わないようにしないとね。
そうして人混みを掻き分けて、聞いた方向へとひた走れば。辿り着いたコロシアムは、近づいただけで熱狂の伝わる繁盛ぶりだった。
けれど始獣の檻としても機能をしていたベルモアとは違って、会場は随分と簡素なもの。イメージをしていた施設とは程遠い。
「もとは劇場か何かの流用かな?」
広場には劇か歌か、なにか見世物をやっていたであろう、すり鉢状の観客席があり。
その真ん中に、如何にも急拵えの四角いリングがあった。死闘を区切るのは壁どころかただの柵。まるでボクシングの試合でも観に来たようだと感じる。
ほとんど野外だけに入場料すら取られなかった。その代わり、人々が金を落とすのは賭けらしい。看板には現在のオッズが大きく掲げられていて、その表示に俺はゲッと目を疑う。
「リュカ・リオンって、あいつもう仕合をしているのかよ!?」
オークションはまだ数時間前の出来事だ。余りにも早過ぎると思うのだけど、そこは狼少女。売り言葉に買い言葉で「今すぐやってやらぁ!」と宣言するのを否定は出来ない。
どうやら謳い文句は100万ゴルトで買われた男。
宣伝の甲斐なく倍率は高く、まるで負けを望まれているかのようにも見える。随分と嫌われているようだが、これはリュカ本人というよりも背後にいるマルグリット卿の評価なのだろう。
「いいぞ、押し込めー!」
「そんな女みたいな野郎、さっさと倒せー!」
子供に何を言っているんだよ。野次を飛ばす奴をぶん殴ってやりたかったが、ぐっと堪えるしかあるまい。
中心にあるリングでは、やはり灰褐色の髪の少女が槍を振るっていて。対戦相手は猿の魔族。同じく槍だが、腕のリーチの差で、リュカはどうにも攻めあぐねているようだった。
そして、互いに奴隷というのも本当なのだろう。彼らの背後には、セコンドのように所有者が立ち。先ほど見た、派手なピンクドレスの女が、余裕の表情で殺し合いを眺めている。
「流石は元王者かな」
この状況で慌てないという事は、戦局を良く理解している証拠だ。人猿は体格こそ大きいものの、体捌きが俺でも分かるほどに素人だった。
男が優勢だなんてとんでもない。彼は自分の命を脅かす金属の冷たい輝きに恐怖をしている。一見攻勢のように見えるのは手数だけで、腰が完全に引けているではないか。
可哀そうに。彼はきっと戦士ですらないのだろう。リュカが冷静に喉元を狙い続けるせいで、来ないでくれと必死に距離を稼ぐことしか出来ないのである。
「それにしてもアイツ、いつの間にあんなに強くなったんだ?」
むしろ、俺が目を張るのは狼少女の成長ぶりだ。
素から戦闘センスは抜群だったものの、悲しきかな彼女はまだ魔力に覚醒してから日が浅い。どうにも身体強化の扱いに馴染んでいない印象があったのだが。
目の前で刃が行き交おうと、リュカは距離を図り、最低限の動きでそれを躱す。
そうして空振った攻撃など格好の隙。柄を叩けば、人猿は自らの槍の長さに振り回されてしまう。
僅かに崩れる均衡。狼少女は、四足獣のように身をぐっと低く屈め。迅足。脚部に魔力を纏い、疾風のような踏み込みを披露した。
「そうか。シェンロウでフィーネちゃんにしごかれていたから!」
俺のベッドに潜り込んで風紀を乱したとか、主に罰としてだけど、勇者から直々に指導されれば強くもなるか。
リュカの突き出した槍の矛先は、人猿の肩を穿つ。
血が派手に飛び散り、手からこぼれ落ちる武器。決着の間際に、会場の盛り上がりはピークを迎え。
「……どうした。早く止めを刺せ!」
「嫌だね。オレは誰かみたいに甘くねえ。敵なら容赦なく殺すけどよ、コイツは戦士でも無えし、なによりお前らの言いなりになるのは御免だぜ!」
「ハハッ」
なんであんなに考えなしなんだろう。狼は敵陣の真ん中で堂々と吠えた。
手を噛まれたご主人様は羞恥に震えるが。どうして観客は沸き上がり、熱いコールが響き渡る。
皮肉だね。溜め込んだ鬱憤を晴らすための賭けに暴力。だけど一番嫌われているのは魔王軍だ。その幹部に正面からノーと反逆するなんて、住民からすればまさに愉快痛快としか言えまい。
「けど目立ってどうすんだ。だから考えなしだっていうんだよ!」
彼女を取り戻す為には、マルグリット卿と交渉をする必要があるわけだが。
ただでさえ高値で買ったのに、人気のあるスタープレイヤーをなぜ手放そうと思うだろう。
交渉とは天秤だ。釣り合いが取れて、やっと取引は成立する。俺は、リュカの対価に何を支払えばいいのか本気で頭を抱えた。
「これが……」
降り注ぐ喝采に面を食らいながらも、眩しそうに会場を見渡す灰褐色の髪の少女。
そうだね。それが君の父親が見ている景色だよ。あの男は今日とて、敵の全てを受けて立ち、より激しい万雷の拍手を浴びているのだろう。
リュカは、ふと俺と目が合い。拳を突き立てながら、ニシシと牙を見せて笑った。勝ってくれた安堵にどっと力が抜けるようだ。
「嬉しそうな顔しやがって。何とかするから、それまで死ぬんじゃねえぞ」
退場をしていく狼少女の背を見送る。会場は下馬評をひっくり返されて悲喜交々。とりわけ畜生と嘆くのは、味方のはずのトカゲ兵士が多かった。
確信をするのは、この町の不安定さ。奴隷を使っての代理戦争なんてものが流行する程度に、魔王軍の秩序は乱れているらしい。
オポンチキの死を発端にした巨人族の合併吸収。人間界に出兵した先発隊の津波での壊滅。恐らく内部の序列は滅茶苦茶で、空いた席を狙って椅子取りゲームが行われているのではないか。
「切り崩すなら、そこからかな……」
しかし不思議に思うのは、剣闘士のレベルの低さだ。あれは真っ当な戦士ではなく、ただの一般人が剣を握らされているだけだった。
まぁ他所から集められた奴隷なのだから、戦いの素人でもおかしくは無いが。
ならば、肝心の戦士たちは何処に行ったのだろう。キトの話だと、この町には鬼族を含めた軍勢軍が捕らわれているはずなのだが。
「てっきり戦わされているのは彼らかと思ったんだけどな」
「馬鹿人間め。奴隷とはいえ、自分より強い相手に武器を渡せる奴は居ないだろ」
「なるほど。強い人間を従わせるのも格に繋がるってわけか」
隣で囁かれて納得をして。少し間を置き、俺は「わっ!」と声を上げる。
聞き覚えのある声だったので自然に受け入れたが、よく考えれば、この場に居るはずの無い子だからだ。
すかさずに口を塞いでくる手には、このクソ暑い気温の中でも肌の色を隠すように手袋がされている。そう。彼女は、目立つからと控えているはずの鬼族。キトの妹、キキであった。
「な、なんでここに居るんだよ!?」
「兄貴は任せろって言ってたけど、あーしはお前なんか信用してないんだからな!」
「つまり、勝手に来ちゃったのね……」




