518 溢れ出るもの
さながら時が凍ったようであった。
カラスのような悪魔ことウィッキーさんは、殴りかかった姿勢そのままで固まり、羞恥にうち震えている。人間のままであれば、きっと今頃は耳まで真っ赤になっているのではないか。
気持ちは察しよう。ここがクライマックスだとばかりに飛び出したのに、繰り出した攻撃がへなちょこパンチではね。恐らく気分だけはスヴァルさんのような、最強の一撃を放ったつもりのはずだ。
「こ、これはだね……」
とうとうウィッキーさんの口から言い訳が出て、こんな空気の中で俺はプッと笑いが漏れてしまった。
いいんだ。恥ずかしがる事はない。だって、暴力を振るわない人生を歩んできたのであれば、それは素晴らしいことなんだから。
「下級悪魔風情が、この麻呂に触れたでおじゃるな……」
一方では溢れる怒りに染まるニセベイン。伸びる手はウィッキーさんの喉元を掴み、強く圧迫した。鳥男は藻掻けど、腕力には圧倒的な差があるようだ。
まるで鶏が絞められているかのような絵面。どう殺してやろうとばかりに端整な顔を歪ませる麻呂は、注意が完全に疎かで。だから、目の前に迫る俺にもわずか反応が遅れる。
こちらは振るい慣れた暴力だ。固めた拳に乗せるは、光の加速と闇の重さ。金色の瞳が見開き、攻撃に気付くがすでに遅い。メキョリと顔面に拳がめり込むや、悪魔は壁を何枚もぶち破り視界から消えていく。
(あ~ツカサが儂の顔を殴った! それも躊躇い無く!)
「うるせえな、別人だろう」
「ゲホゲホ。ありがとう司くん……」
文句を言う魔王を無視して、俺は咽るウィッキーさんを支えた。まだ戦えますか。そう問えば、鳥頭の悪魔は当然だと力強く答えるのだが。その声は少しばかり震えている。
問答無用に襲い来る死の恐怖。それに立ち向かうべく、男が欲したのは勇気で。
足元で事切れる聖騎士に祈りを捧げた悪魔は、まるで無念を引き継ぐように、ダングス教の白いマントを拝借していた。
「いまの私には似合わないかもな」
「翼みたいで格好いいですよ」
結局のところ、ウィッキーさんは骨の髄まで聖職者なのだろう。
借り受けていた司教の立場を失えど、一人のダングス教徒として戦いたいらしい。
「貴様等……もはや楽に死ねるとは思うなよ!」
「まぁあれくらいじゃ倒せないよね」
ニセベインは貫通した部屋の先で、埃を払いながら立ち上がってくる。その顔はやはり作りものか。さながら陶器のように砕けて、黒く渦巻くおぞましい中身が見て取れた。
「お、おい、ツカサ」
既に喧嘩を売りつけ、やる気満々な俺たち。けれど狼少女の心には、どうにも恐怖が勝っているらしい。背後から奴はヤバいと泣き出しそうな声が聞こえてくるのだ。
獣の本能だろう。その勘は間違っていないと思う。なにせ、ニセベインが戦闘態勢に入り、背に広げたのは二対の翼だった。
天使の翼は魔力の保有量。多いだけで単純に強くなる。浮遊島で戦ったお姉君ですら、あの強さで2翼だというのに、奴はその倍と来た。嫌になっちゃうね。
「いいか、リュカ。お前は教皇様を連れて、マルルさんの所に行くんだ」
リュカは戦士の矜持と恐怖に挟まれ、内面が滲み出るようなぐちゃぐちゃな表情だった。俺はそんな彼女にキツイ言葉で言い聞かせる。いま出来ることをやるのだと。
喋る間にも、目の前で銀糸のような髪がはらりと揺れた。咄嗟に構えた黒剣が功を奏し、室内には硬質な音が響くが。奴は防御の上からでも圧し潰すように力を加えてくる。
無様に床に転がされる俺は見た。ニセベインの右腕が、剣のように変形をしているのだ。
そう言えば、かつて戦った上級悪魔も己の体を武器にしていたと思い出し。その場で腕を振りかぶる姿に、果てしなく嫌な予感を覚えた。
「か、屈めぇ!」
俺は床からカエルのように跳んで、リュカと教皇を押し倒す。ブンと頭上を通過していく鞭のような斬撃。その間合いやどれほどか。建物がズルリと滑り、天井からは僅かに青空が覗いている。気付いた時は流石に嫌な汗が噴き出たよ。
「やっべ、ウィッキーさんは……ひぇ」
「大丈夫だ。これしきは問題ないよ」
助けそこなったウィッキーさんは巻き添えを食らい、なんと腰から両断されていた。
それでも致命傷にならないのが、魔力生命体である悪魔という種族。傷口が霞に溶けて塞がる中で、背後に歯車のような複雑な魔法陣を展開していく。
だが、なにが可笑しいやら。ニセベインはそんな鳥頭の悪魔を見ながら、甲高く不快な笑い声を響かせる。
「カッカカー。信仰だのなんだと言っていると思えば、よもや悪魔が聖職者を気取るとは。我らは神聖術とはもっとも遠い存在だろうに!」
奴はダングス教の白を身に着けたウィッキーさんを心の底から見下していたのだ。
嘲笑の対象になる彼は、自分が神の寵愛を受けることはないと認めつつ、だからどうしたと肩を竦める。
「やれやれ、その程度の認識で神を名乗る気でいたか。いいかね、宗教とは信じることに価値があるのだ。そこには性別も年齢も、種族さえ問題ではないのだよ」
枢機卿を務めていた男は、悪魔に説法をした。
常に移ろう時代と価値観。暗闇のような人生において、正しきを確信出来ることのなんたる幸せかと。我が神は心に在りてと。
「良くぞ、良くぞ言ってくれた」
その言葉に、おおと深く溜息を零すのは、教皇である。
彼とて聖職者。悪魔に信仰を侮辱され、快いはずがなかった。びしりと言い切るウィッキーさんに、ただただ感服をしているようだ。
「くだらぬ。そんな妄言は、魔王という圧倒的な力に出会った事がないから言えるのよ。ソチが最後まで信仰を貫けるか見ものでごじゃる」
麻呂の前では、何人も信仰を捨てたぞ。ヘドロのような笑みを浮かべる悪魔に、ウィッキーさんも内心穏やかではないらしい。彼の感情に呼応するよう背の歯車は激しく回転して魔法を吐き出した。
それを例えるならば、岩の蛇か。魔法陣から這い出るかのように生成されていく岩石は、しかし意思を持つかの如くにニセベインへと襲いかかる。
「リュカ、今の内に行け!」
戦闘は激化していく一方だ。俺は早く逃げろと狼少女に促す。だが、ノーと言ってきたのはあろうことか教皇様で。
「とんだ誤解をしていた。彼は悪魔ではあるが、立派な聖職者ではないか。それに対し、私はどうだ。せめてこの場で祈らせて欲しい」
俺は彼を無視して、リュカの灰褐色の髪を撫でた。
怖いけど逃げたくない。そんな困ったちゃんに、言い聞かせるように声を掛ける。
「役に立たないのが怖いんだな」
「だ、だって。オレは戦士で、強くなる為に冒険に出たのに……こんな」
「いいんだよ。一番困るのは、出来ないことを出来るっていう奴だ。リュカがアイツに勝てないと思うなら、他のことで頑張ってくれ」
この人を守れるね。そう問いかけると、強く頷くもので。じゃあ任せたよ。そう言うと少女は、渋々に教皇の尻を蹴り部屋を出て行った。
(カカカ。ガキの扱いが上手くなったもんよな)
魔王は駄犬と笑うが、アイツはまだ本当に子供だからな。
しかし、これで安心して戦えるというもの。魔法に追われるニセベインに先回りをし、脇から飛び蹴りを叩き込む。
岩蛇は、いわば追尾する岩砲の連弾だ。一度当たったが最後、無数の球の的になり、量に押し込まれていく悪魔を見ながら俺は言う。
「お前、さっき聖遺物を座標0とか言ってたな。【深淵】は何が目的で、あれを手に入れようとしてやがる」
「ほう。麻呂の主をご存じか。なるほど、先の攻撃を躱したのも合点が行った。さては我々と戦うのは初めてではないな。ランデレシアでラヴィエイがやられたと聞くが、もしや?」
「俺だ」
(儂じゃよね!?)
流石はウィッキーさんの魔法。今度はへなちょこパンチと違い、面目躍如とばかりに天使の外装を粉々に打ち砕いたらしい。
だが、そこから溢れ出るのは、おぞましい程の力の奔流。リュカでなくとも感じる死の臭い。まるで人々の怨嗟や呪いが煮詰まったような、暗黒の魔力が噴き出していた。
凄くどうでもいい情報
ツカサの闘気混式は、噴き出る白いオーラに黒いスパークが混じっています




