503 レッドアラート
暖炉の前で寛いでいると、隣に座った赤髪の少女は、肩に頭を乗せて、珍しいことにおねだりをして来た。
耳元で甘く囁かれる声。鼓膜を優しく震わせたハスキーボイスは、そのまま脳を蕩けさせるのではないかと思うほどに官能的だ。
上目遣いで「お願い」なんて言われれば、なんでも叶えたい気分になってしまうものの。
要求はあまりにも正気を疑うものだった。城を魔王に襲撃させろと言うのだ。せっかく甘える魔女へ向かい、俺はついこう言ってしまう。
「頭大丈夫?」
「失礼な。君がこういうやり方を好まないのは知っているけれど、今は他に手が無いんだ。フィーネが訴えても、余計に教会との溝が深まるだけさ」
(カカカ。いいではないか。マオウ、行きまーす!)
「うるせえ、ちょっと考えさせろっ!」
狙いはウィッキーさんの救出。イグニスは彼の正体が明るみになり、囚われていると考えるらしい。
だとしたら最悪のタイミングだ。あの自分の身すら削る聖人に、悪魔の手引きをした容疑が掛かるなんてあんまりである。
確かに正攻法で助けるのは難しいだろう。
そこで誰も正体を知らない隠し玉の投入。所属がバレる事は無いし、悪魔の外見がジグに似ているお陰で、上手くやれば罪も丸々擦り付けることが出来ると。
流石は魔女。目的を果たすには最適解とも言えるパーフェクトな作戦ではないか。倫理観を無視すれば、だが。
(何を悩むか。あの枢機卿を救出する為なのだろう?)
「……まぁね」
ジグルベインは久しぶりの暴れる機会にすっかり乗り気である。
一方で俺は視線を床に落として、ふぅと吐息を零してしまう。ウィッキーさんを助けてはあげたいけれど、これならば自分が突っ込めと言われた方がまだ気楽だったかも知れない。
「俺はもう、お前に魔王をして欲しくないんだよ」
(ガビーン。儂のアイデンティティーが奪われる!?)
「そんなもん捨てろ捨てろ!」
混沌の魔王が過去に暴虐の限りを尽くしたのはしょうがないのだろう。
でも、ジグはもう俺の家族だもの。彼女の思い出を追憶したことで、そんな感情が一層に強くなっていた。これ以上、悪を押し付けたくは無いんだ。
「おい、なんの話をしてるんだ?」
「真面目な話だよ。後で構ってあげるから、君は少し外してくれ」
「一人じゃつまんねぇよー」
イグニスが雑にしっしっと手で払うと、リュカは悪戯顔で俺たちの間に割り込んで来た。押し退けられた魔女はムッと眉をしかめ、言うことを聞かない悪ガキを叱ろうとして。ホイと手が差し出され、赤い瞳がパチクリと見開く。
「やるよ。それは迷わずのお守りだ」
「あっ、俺にもくれるんだ」
「むしろツカサに渡したかったんだよ。お前はいつも迷子になるからな」
カラカラと笑った灰褐色の髪の少女は、口元を引き締めて、ちゃんと帰って来てくれよと獣人のお守りを渡してきた。
お手製なのだろう。木製の小さなメダルに荒くも細かい彫刻が施されている。最近静かだったのは、黙々とこれを作っていたのか。気持ちの籠った代物に胸が温かくなるようだ。
「色々考えたんだけどさ。オレはやっぱり、お前らと冒険している時が一番楽しかった。ツカサが故郷に帰る邪魔はしないけど、また一緒に行けたら嬉しいな」
はにかみ告げる狼少女。真面目に言うにはキザな台詞で、美少年にも見える中性的な顔が羞恥によって歪められている。俺がありがとうとお礼を言いながら受け取ると、目頭に涙を浮かべながら。けれど、けして泣かずにウンと頷いた。
「お土産にニーソを買ってくるよ」
「今は、その帰還が怪しいから困っているんだがな……」
リュカはこんな状況にありながら、聖国における事情など一切鑑みず、俺が日本へ帰ることだけを考えていたらしい。
或いはこいつの中ではそれだけの大事件であったということか。これにはイグニスも面を食らったようで。仕方ない奴だと表情を崩しながら、その肩を抱く。
「ツカサ」
赤髪の少女は、俺の名を呼び視線を重ねた。気持ちを無駄にするなというのだろう。
仮面の男が囚われていては、異世界転移の計画自体が頓挫しかねないのだった。
「分かったよ。でも事実確認が出来てからでいいよね」
「ああ。フィーネたちが居ない間に話をしたかっただけだ」
そういう訳だと頭上を見れば、魔王は面白くなってきたと喉を鳴らす。
俺はリュカの素直な感情に引きずられて首を縦に振ってしまった。そうだね。大事な人には、ちゃんと帰って来て欲しいよね。
ここにもそんな感情を抱く少女が一人居て。何も知らない幽霊ギャルは、枢機卿が仕事で忙しいと思いながら、ただ無事の帰宅を祈っている。
頻繁に玄関を覗くアサギリさん。彼女には異世界転移に命が掛かっているという事情もあり。迎えにも行けない幽霊に代わって、連れて帰ってこようと思ったのだ。
「ウィッキーさん。貴方は家に待っている人が居るんだ。働きすぎもほどほどしなきゃ」
(っ! なになに、ウィッキーの話?)
「うん。今夜は帰って来れたらいいねって」
名前が出るや話題に食いついてくるギャルに俺はほっこりと表情が緩み。そして吐息を殺す覚悟を決めた。
◆
「うーさっぶ。結局こうなっちゃったか」
館から城までは何気に遠い。勇者一行が戻ってからの出発だったので、到着したのは夜になってしまった。しかも徒歩。頑張ったね俺。
まぁ暗いのは都合が良い。どこまで指名手配されているのか分からないし顔は見られないに越したことはないだろう。
結局フィーネちゃん達は、城へ出向いたものの教皇との面会は叶わなかった。
アポも無いのだ。厳戒態勢なら仕方ないとも言えるけれど、ウィッキーさんやスヴァルさんと、中にいるはずの知り合いにも繋いで貰うことが出来なかったらしい。
「何かが起きているのは間違い無いよな」
(カカカ。確かめてみりゃわかるさね)
俺は民家の屋根によじ登り、夜中でも火が落ちない城を見ながら呟く。
ここまで来たら、考えるよりもその方が早いのだろう。魔王の意見を肯定し、全身に魔力を迸らせた。
体内で俺とジグの魔力がピタリと釣り合うや、ツカサ・サガミの存在は反転し、今は亡き魔王が息を吹き返す。
(それじゃあ、出来るだけ穏便に頼む。ウィッキーさんが囚われていたら、その救出が最優先だ)
「うむ、任された。どうせならあの鎧と出会わないかのう」
(三大天と戦おうとするんじゃねえ!)
任せて本当に大丈夫なのかな。まるで初めてのおつかいを見守る気持ちになり、心がハラハラと落ち着かない。
けれど交代をしたが最後。俺には指一つどころか、呼吸すらも行う自由は無かった。
主導はすでにジグルベイン。自分はもう車の助手席に乗ったように、口だけ出して運転を見守るしかないのである。
じゃあ、早速行くかね。そう言うや、魔王は銀髪を月光に透かせながら、建物の屋根から屋根へと飛び移り、城へと近づいて行く。
ちゃんと隠密行動を心掛けているのか正面突破という暴挙は行わないようだ。巡回する警備の目を掻い潜ったジグは、怪盗よろしくそそくさと闇の中を移動した。
「この辺りでよいか。ソラッ!」
そして辿り着く城壁の側面。虚無よりゾルゾルと引き抜いた漆黒の刃が、音も無く堅牢な石壁を刻む。見事な手際に、俺は素直に感心をしてしまう。
(やりますねぇ!)
「以前にお前さんが行ったスニーキングが楽しそうだったで、実はやってみたかったのよな」
(以前?)
今日の儂はジグル三世と歯を見せ親指を立てるバカ。
別に文句は無いのだけど、まさか言っているのは全裸逃走劇のことか。こっちは社会的死が待ち受けているから必死だったのだぞ。
俺の気持ちなんてつゆ知らず、魔王はお邪魔しますと鼻歌交じりに城壁の内側に侵入した。繋がった先は庭園というほど整ってはいないけれど、緑のある場所で。まぁ裏庭という事にでもしておこうか。
「む……?」
(げぇ)
問題があるとすれば、それはもうバッタリと警備兵の前に出たことだ。
ランタンに照らされて目を細めるジグ。男もまさか賊に出くわすとは考えもしなかったようで、幽霊でも見たような顔をしながら、壁とこちらを見比べていて。
「て、敵襲ーーー!!!」
「シッ」
しばし二人は無言に見つめ合い。警備兵が警笛を鳴らすや、ジグルベインはすぐさまに男を殴って昏倒させた。だが響くは静かな夜を破る音。周囲は早くも異常に気づき、繰り返されるレッドアラート。
(穏便にって言ったよねー!?)
「賑やかなになってきたのう。カカカのカ」




