364 赤い部屋
壁がガラガラと崩れて、奥からは殺意と憤怒で煮え滾るイグニスが姿を表した。
着替えた後だけにその恰好はすっかり戦闘フォーム。トレードマークのとんがり帽子と黒い外套を身に纏い、魔女は葬列に並ぶ様に静かに佇んで居る。
「あ、謝る。だから話をしよう!」
「遺言はそれだけか?」
指先が向けられるや右頬が熱を持つ。驚いて手で触れるとベトリと血が付着していた。熱線か。いかん、これガチで殺しに来てるな。
俺は彼女の殺意をなんとか鎮めるべく知恵を回す。問答無用で殺りに来ている今、下手な謝罪は焼け石に水だろう。ならばいっそ話題を逸らすのだ。
怪我の功名というべきか、イグニスの魔法により床が吹き飛び謎の地下空間が見えていた。俺は命乞いをするように「下だ、下を見て!」と必死に叫ぶ。
「……ほう?」
「分かってくれた!?」
(いや、駄目じゃろ)
何故だ。ジグの言葉を疑問に思いながら魔女の視線を追う。赤い瞳は確かに下がったのだけど床を見ていなかった。位置的には、そう。ちょうど俺の股間くらいであろうか。
そうしてハッと自分の恰好を思い出す。服を脱ぎ捨てた直後にイグニスを覗いたので全裸であった。おまけに素晴らしい景色は下半身を大変元気にしていた。
「つまり私の着替えを見て興奮したと。もう言い訳を聞く必要は無いな変態が」
「俺は脚しか見てない。下着も見てないから……」
「嘘を吐くな。脚だけでそ、そんなに大きくするのか君は!」
「本当だって!」
慌てて隠すが後の祭り。赤髪の少女の視線は更に嫌悪と蔑視が増した。しかし裸で辱しめられている状況なのに不思議と気分が衰えないのである。
イグニスも疑問に思ったのだろう。いつまで興奮しているんだとばかり、チラチラと視線が動くので、俺は堪らず願い出た。
「せ、せめてパンツを履く時間をください」
「なんでパンツだけなんだ。着るならちゃんと全部着なさい!」
(カカカ。確かに)
というわけで服を着た。
ふぅ。服とは人類の英知である。冷えていた体が嘘のように熱を蓄えてくれるし、着るのに掛かった時間でイグニスも下半身も落ち着いてくれたようだ。
「さて……」
「ごめんなさい! 許してください! 足を舐めます!」
多少落ち着いたとはいえ元から気性の荒い魔女。ふざけた事してくれたなぁと両手で胸倉を掴んで来た。しかしこれは会話フェースだ。言葉が通じるのであれば俺はプライドをかなぐり捨てて謝罪しよう。
(え、プライドなんてあったのか?)
うるさいですねえ。素で困惑されると少し傷つくよ。
ジグを睨んでいると、こっちを見ろと頭突きを食らう。正面には吐息の掛かる距離で双眼が赤く輝いていた。
「一つ言っておく。私の裸は高いんだ。対価を払わず盗み見しようとするならば、君だろうと本当に殺してやるぞ」
「い、如何ほど?」
「……君の残りの人生全部。後払いは受け付けない」
「なるほど、それは今の俺じゃあ払えないなぁ」
イグニスはそうだろうさと眉尻を下げる。改めて地球に帰りたいなどと言っているうちは、彼女に手が届かないのだと知った。まさに高嶺の花と言うやつか。
しかし俺は勝手なもので。将来イグニスの隣に知らない男が居ると考えると。イグニスを愛する権利を手に入れる男が存在すると考えると、どこか面白くなかった。なので今度は卑怯な事をせず、正面から行かなければなるまいと反省をする。
だから今は振りかぶられた拳を甘んじて受け入れようじゃないか。俺はフッとニヒルな笑みを浮かべて、魔女の制裁を迎える気概を示した。ナイスパンチ。腰の入った良い右ストレートだ。
そう思っていたのだけど、当たる直前に余裕なんてものは吹き飛ぶ。ポゥと拳の先に魔法陣が展開しやがったのだ。慌てて魔力を纏った。
「これは爆陣っ――ボホァ!?」
「ふぅ。今日はこのくらいで勘弁してやろう」
俺は悶絶しながら蹲る。頭はなんとかまだ乗っているようだが、それにしてもダメージが大きい。まるで脳みそが直接爆発したかのような衝撃だった。無茶な攻撃をしやがってからに。
「ジグ、新しい顔をくれ……」
(ふむ。顔はくれてやれんから、いい情報をくれてやろう。今イグニスはえぐいTバック履いておるぞ。黒いレースのやつ)
「なん……だと!?」
覗きという行為はともかく、脚を見た制裁にしては重いと判断したか。魔王はとんでもない事を口走る。ありがとうジグルベイン。その情報だけで元気100倍だよ。
◆
閑話休題。俺たちは気を取り直して件の穴の前に座った。
なんとも迷惑な事に魔女は地下空間の存在に気付きながらも怒りを優先していたらしい。乙女として当然なのだそうだ。
「地下自体は別段珍しくは無い。けれど、この間で見つけると気にはなるよな」
「見つけたのはある意味俺のおかげでは?」
「あん?」
なんでもありませんと口を噤んで穴の中に手を伸ばす俺。もちろん魔剣技を使う為だ。手の平から光属性の魔力を発し、懐中電灯の様にして下を覗き込んで見た。
「ふぅん。下は通路か。おや、奥に部屋がある」
「とりあえず降りても大丈夫そうだね」
どうやら陥没などで出来た自然物ではなく人工の物らしい。二人して地下空間を覗いていると、逆さになったイグニスの頭から帽子がポロリと落ちる。
何をしているのやらと笑うのだが、これで拾うために一度は降りる事が確定した。
通路自体は低そうで、あってせいぜい2メートルくらいか。足元もはっきり確認出来たので、ならばとさくっと飛び降りイグニスの帽子を拾う。
「ああ、すまない」
「いえいえ」
続いて降りてきた魔女の頭にボフンと帽子を乗せる。そしてキョリキョロと改めて周囲を見渡すのだけど、足場は土だ。掘った地面を木材で補強しただけの簡易な物だった。
その為か、右側には部屋があるのだけど、左側が崩落して埋まってしまっている。恐らく樹波の衝撃に耐えきれなかったのだろう。だから天井が歪み、壁の下に隙間が生まれたと。
「奥の部屋は……どうする?」
「ここまで来たんだ。一応見てみよう」
正直、これはただの家探しと変わらない。それでもシシアさんに少しでも裏切りの疑惑があるのならば確認すべきだと魔女は言う。
一理あった。俺たちは里を取り戻す為に、あの千手蜘蛛とまた戦わなければならないのだ。晴れぬモヤモヤを抱えたまま挑むわけにはいくまい。
幸い扉は鍵も掛かることなく開け放たれている。少し見るだけだからと心の中で言い訳をして踏み込んだ。
「うっこれは……」
(……ふむ)
奇妙な空間だった。3メートル四方くらいのそんなに広くは無い部屋なのだが、床も壁も天井も、木材ではなく茶色い黒曜石の様なもので囲われている。魔鉱石。土魔法で作られる魔力の塊だ。
地下だけあり空気は少しヒンヤリとしていて、けれどジトリと纏わりつく不快な湿気があり。一見すると素材以外は普通の物置。けれど長年使われて居なかったのだろう。部屋の中にあるタンスや箱には厚い埃が積もっている。
「血……だよね」
「ああ。もう、こびりついて落ちないのだろうね」
なにより特異なのが、部屋の一番奥の壁にある飛び散ったドス黒い染みだ。
その血痕がある壁には不自然な痕があった。頑丈な魔鉱石が凹むほどの傷が三つあるのだ。ちょうど人が膝を付き、頭と両の拳を叩きつけたならば、あんな痕が出来るだろうか。
どれほどの感情があれば一面が血塗れになるほど壁を叩き続けるのだろう。きっと一日の物ではあるまい。何年も、何十年も自傷に耽たのだと思う。この部屋には蓄積された血
とカビの匂いが満ちていた。
「右の拳の痕が左よりも深いのは途中で片腕を無くしたからか。ならば懺悔の様に壁に縋り続けたのは、まずシシア・ストレーガに違いないのだろうね」
「うん……俺もそう思う」
一体彼に何があったのだろう。思えばジグルベインの縁で頼りにさせて貰っていたけれど、俺たちはあの人の事を何も知らないのであった。




