327 満月の夜に
まずは、ありがとうだ。回復薬を使ってくれた犬のお爺さんに向けて、俺は感謝の言葉を口にする。そうしてから、自由に出歩いている事へ素直に疑問をぶつけた。
「なんで……か」
状況を一言で説明するのは難しいのだろう。お爺さんは、よっこらせと床に尻をつき、牢屋の中の暗く湿った天井を眺める。床に転がり悶えていた俺だが、怪我が治った事もあり。やや背筋を正しながら話を聞く姿勢を取った。
「今はもう隠居の身だが、昔はこれでも鬣犬族の長でな」
「えっ、お爺さん犬じゃなかったんだ!?」
(んん。族長の女に手を出したって事は、コイツ、息子か孫の嫁に手を出した事にならんか?)
輪を掛けて酷い真実である。そりゃ檻の中の方が安全と言い切るくらいに家族も怒るだろう。そんなエロ爺も昔は街を取り仕切り、この大都でも夜の顔と呼ばれるくらいにブイブイ言わせていたそうな。
老い耄れの言う事だけにどこまで本当か分からないのだけれど、檻の中で自由に振舞えるくらいに便宜を図って貰えるのだから権力はあったのだろう。思えば初日から檻を出たくないと無茶を通しているんだよね。
「もう、十数年もみゃーの話か。俺はこの大都で一人の女性に出会った」
自由な理由は分かった。なので一体何の話が始まったのだろうと思いながら、俺はふぅんと適当に相槌を打つ。お爺さんは気を良くしたのか、やや饒舌に。いや、まるでずっと誰かに話したかった事の様に独白を続ける。
「美しかったよ。俺がもう少し若ければと本気で思った。いや、それでもこちらに振り向く事は無かっただろうな。何せ彼女の隣には幼馴染の男がおったのだ」
田舎から獣闘士を夢みて上京したという二人。女性も強かったそうだが、闘いの中で幼馴染の男はメキメキと頭角を現したそうだ。それもそのはずで、男の名はヴォルフガングというそうだった。
「彼はいまや最強だった獅子族を降し、獣闘士の頂点に君臨している」
女性は途中から舞台を降りて、狼男を支える事に専念したらしい。というよりも子供が出来て戦えなくなったのだとか。けれど念願の子に喜び、ヴォルフガングは一層の活躍を見せた。
「悲劇の始まりは、やはり子供が生まれた事なのだろう」
「……」
俺は何処かで聞いた話だと思った。同時に一人の少女の顔が思い浮かび、やるせない気持ちになりながら話の続きを待つ。続くのは、やはりこうだ。外見が人の子だった。耳や尻尾はおろか、毛すらも生えぬ姿は、とても獣の姿では無かったのだと。
言葉は石の壁に反響し、まるで声さえもが囚われている様に感じた。
疑われる母親の不貞。父親の嘆き。望まれたはずの子供は、両者の絆に深い溝を刻み込む。
「それだけならば、別に良かった。こう言ってはなんだが、男と女のありふれた物語だ」
お爺さんはなお恐ろしい真実があるとばかりに目を覆う。逆上するヴォルフガングから庇う為に、リュカのお母さんを匿った事があるらしい。下心だったと素直に吐き出すが、その時に女性には隠し名がある事を知らされたそうだ。今度こそ俺は何の事だろうと首を捻った。
「リオンという隠し姓の意味を一度だけ聞かれた。俺は二度と口にするなと伝え、彼女の身を大都から離れた猫族に預けた。だというのに、あの馬鹿猫は」
「リオン?」
(当時の人狼の名だ。そうか。やつの血は生きておったのだな)
「いや、待て待て待て」
この爺はサラリと爆弾発言をした。リュカという狼少女は、狼族の英雄ヴォルフガングの子にして、伝説の人狼の血まで継いでいると。突っ込みたい事は多々あるのだけど、俺に関係する事はと言えば、取り合えず一つ。
「俺に何をさせる気なの」
「察しがよくて助かるよ。悪いのだがリュカのためだ。そのまま人狼の疑惑を抱えて死んでくれ」
そう来たかと思った。今死んで貰っては困ると回復させられた時に、俺に役目を求めての事だとは思ったけれど。まさか死ぬタイミングの問題だったと誰が思おう。
けれど、お爺さんの言い分を少しだけ理解出来る自分も居て、何が正しいのだろうと頭の中がぐちゃぐちゃになる。
お爺さんは、皆が忘れ始めていた伝説を、もう一度眠らせてしまいたいのだった。
疑いだけで俺は死刑に掛けられた。もしリュカが人狼の血を継いでいる事が明るみに出れば、この国は必ずや少女の命を奪うのであろう。ならば先に、俺が人狼の罪を被り死ねと言うわけだ。
「それでリュカは幸せになれるの?」
「あの子の存在はヴォルフガングにとって明確な恥だ。まして人狼の血を引いていてはな」
幸せには成れないのかも知れない。そんな言葉が、グルグルと俺の胸の中を巡った。
◆
結局、俺には何が正解なのか分からないまま次の日が来てしまった。普段は昼頃に死闘に参加させられるのだけど、今日は少し予定が違うのか。兵士が俺を迎えに来たのは、夕陽が傾き始めてからの事だった。
処刑場に連れ出され上を見上げれば、秋の空は雲一つ無く晴れ渡っていて。夜にはさぞ美しい月が見れるのだろうと予感をさせる。
「そっか、リュカが満月の夜は特別だとか言ってたっけ」
長丁場を想定しているのだろう。会場は夜に備え、至る所で火が焚かれていた。そしてドンドコと太鼓の音色が鼓膜を刺激する。低い重低音はまるで心音。足下のジャバウォックの胎動が聞こえるかのような、そんな錯覚にすら陥った。
「よくぞ今日まで生き延びたものだな人間」
「……ヴォルフガング」
リュカの父親にして、この闘技場の英雄様だった。上半身を剥き出しに、白い塗料で目元や口元を丁寧に彩っていて、さながら戦化粧の振る舞いである。
貴方が相手なのかと、やや物悲しげな気持ちで問うと、俺の気持ちも知らぬ英雄は後でなと隣を素通りして行く。
「先にお役目を果たさなければならない。生き残れたならば、拳を交わそう」
俺の役目は証人になる事だった。仮にも人狼の疑いがあるのだから、人狼に捧げられる戦いを納めろというのだ。畏れ。畏怖しつつも敬意がある。この国の住人の感情が伝わる様な話だった。
「さぁ、地獄の門を開け! 始獣よ今宵も共に舞おうではないか」
「?」
狼男の合図で大きなクレーンの歯車はガタガタと起動を始めた。しかしワイヤーが弛むばかりで、舞台は一向に地獄に降りて行かないではないか。まさかの故障か。俺だけでなく、ヴォルフガングまでもが首を捻っていた。
だがやがて、ワイヤーに引っ張られる事で浮いていた足場は、ズプズプとまるで泥沼に沈み込む様にゆっくりと落下を始めて。
「なんだ!?」
そうして出来た隙間から、今度は染み出る様にコポコポと赤い黒い液体が湧き出して来る。これはもう明確な異常なのだろう。何が起きているのだとジグルベインに抱き着きたい心地であった。
「これはまさか、アリスなのか!?」
「わーちょっと見ない間に随分大きくなったねぇ……」
まるで親戚の子供を眺める様な気持ちに……成れるはずもなく、ただ呆れながら呟いた。染み出して来た赤い液体は、大きな山椒魚を思わせる格好へと形を変貌させたのである。
「な、なんだコレは! ヴォルフガング、早く仕留めろー!」
「バスガスめ。好き勝手に言ってくれる」
頭上からのブルドックの声に、戦士は肩を竦めながらも行動を開始した。確かに見ているだけでは埒が明かないのだが、俺の胸の内にはどうにも嫌な既視感があり。
「待った。これを攻撃するの、ヤバいかも」
あ、と言う間には英雄は山椒魚の腹部に潜り込み、打撃を終えていた。流石は猛活性。勇者に並ぶ力は伊達で無く、拳の一振りで化物は大きく歪んで弾ける。
ブシュンと噴き上げる赤い液体にバスガスは気を大きくしたか、いいぞもっとやれと声を高くする。しかし悲鳴は観客席と、その英雄の口から漏れ出した。
「ちっ。これは酸か」
(じゃろうな。これたぶん、元はただのスライムじゃ)
「やっぱりかぁ」
見覚えがあるわけである。格好は置いておいて、液体が詰まった粘性物の姿はよく知るそれであった。敵の判別が済めば、魔女でなくとも想像は容易い。
元々地獄の底にはスライムが居たのだろう。この処刑場では死体を地獄に投げ落とすのだから、死肉喰らいが集まらないはずがない。それはジャバウォックが酸を吐いていた事からも確実だと思う。ならば何故ここまで劇的な変化をしてしまったのか。
(それも簡単じゃな。原初の敵を食ったから以外にあり得まい)
「あー! 俺が殺したからか!?」
「……そういう事か」
どうやら狼男も事態を把握したようだ。要するに、俺が殺した隙に蛇馬魚鬼の体を食べて、猛烈に進化をした個体が居たのだろう。何せ始獣は魔獣や魔族の元と言われる存在だ。ある意味は新たな種の誕生に立ち会ったのかも知れない。
「すると、不味いな」
狼の独り言にコクコクと同意する。何せアレがスライムであるのならば、ジャバくんは別に存在しているのだから。
山椒魚が地上に出た事で、舞台装置は正常に稼働をしたか。いつの間にか下がっていた舞台から、呼んだとばかりに鬼面の化物が顔を出す。呼んで無いから地獄の底へお帰り。




