174 ヘグル山の捕食者
爆煙に紛れ熊が大口を開けて飛び出して来た。
意表を突かれた俺は咄嗟に後退をしようとするも、しかしどうにも足が動かない。
背筋に走る寒気。だがこれは心理的ではなく物理現象だ。
魔女が溶かしたはずの氷が、再びにパキパキと凍り、膝下まで浸かっていた俺の脚を固まらせていた。
こなくそ。頭では回避を考えるも処理が追いつかない。どうするどうする。目の前には既に圧倒的な速さで死が迫る。頭どころか上半身を食いちぎるくらいに顎骨広げ、上から下からいただきますと牙がやって来る。
「ぬおおお」
身体に任せてみたらこんなの出ましたイナバウアー。もう膝から後ろに倒れるくらいの勢いで華麗に上半身を反らせていた。鼻先ではガキンと熊の歯が大きな音を立てて不発を知らせる。うおお、すげえ生きてるよ俺。
(カカカ、10点くれたる!)
「わーい。やったね!」
だが安心するのはまだ早い。咬みつき攻撃を避けた俺は現在熊の腹下に居る。ピンチだがチャンスだ。一瞬の隙を見計らい大活性から闘気へとギアを上げた。
んぎぎと足に力を込めて、右足は己を捉える氷をバキメキと砕く。遂には天へと跳ね上がり、勢いままに熊の腹部へと突き刺さる。
「グオウ」
熊は鳴き声を上げるも、さして効いてはいないのだろう。蹴りの感触にはどうも違和感があった。上から円な瞳が俺を向く。来るかと身構えて、慌てて左足も氷からバキリと引き抜いた。
「あ、にゃろう」
だが熊は俺を飛び越えて真っすぐに駆け出してしまう。後ろに控えるイグニスの元に向かったのだ。先ほどの火炎槍はやはり効いたのだと思う。自身の命を脅かすと直感し野生の勘が最優先に排除しろと訴えるのだろう。
「イグニス、ごめん! そっち行った!」
「分かってる。無事で何よりだ!」
ああ、敵に抜かれるとは前衛が情けない。そう思いすぐさまに熊の後を追う。
熊は速いとは聞いた事があるが、9メートル近い巨体を持ってしても中々に俊敏だった。
というか、一歩がデカいのだろう。距離を考えればイグニスまで20メートル程。駆けっこならば勝ち負けは微妙な所か。
「【小さき火よ集え】【炎へと姿を変えろ】【群れる灯火は闇を焼く】」
けれどゴールは案山子じゃああるまいし、当然の様に反撃をするのだ。あの女がヤバいという勘は別に何一つとして間違いではない。
魔女が放ったのは火球だった。バレーボールくらいの火の球が、激しいスパイクの様に熊を襲う。その数は8つ。
「ガルアアアァア!!」
的が大きいだけに5つは直撃したか。経験から言えば、火球の着弾にさして威力は無い。
あの魔法の恐ろしい所は接触と同時に潰れて飛び散る事である。火の本懐、対象を燃やし尽くさんとばかりに燃え広がるのだ。
火炎槍の一撃を耐えた熊ではあるが、継続的な燃焼は辛いようである。熊は足元の氷にゴロゴロと転がり、必死になって鎮火をしている。俺が追いつくには十分な時間だった。
「しゃあ追いついたぞ」
大活性では薄傷だったが、闘気ならばどうだと、煙を立てる熊に俺は斬りかかった。
近づくなと言わんばかりに振るわれる右腕をピョンと飛び越え回避。寝転ぶ熊の首元を目掛け刃は走る。
「ん?」
やはり不思議な手応えだった。今回は強度を見越してかなり深く踏み込んだつもりなのだが傷は思ったよりも浅い。一撃で首を落とす気だったがそう甘くは無いようね。
何よりも失敗なのが反撃を許した事だ。痛みに反応した熊は、毛を逆立てながら全力で抵抗に来た。爪が乱舞する。体重差を考えれば受ける事も出来ないのでもう必死に避けるとも。
二本の腕が激しく動き、牙で威嚇されては、もう簡単に近づく事は出来ないだろう。
俺は左手で右肩を触る。爪が軽く引っ掛かっただけなのに、肉がごっそりと削げていた。
はっと鼻で笑う。そりゃあ熊だって食べられたくないから必死だ。当然の事ではないか。
「でも、次で決着かな」
(うむ。さくりと決めてしまえ)
首に付けた切り傷が教えてくれた。零れる赤い血は、熊の胸元をナプキンを掛けた様に染め上げるのだが、不思議に根本にまでは色が付いていなかった。
この熊はどうやら冷気を操る事は理解していたのだけど、それだけではない。
青白い体毛で見え辛いがコイツ、氷を纏っているのだ。
ならば俺の斬撃に耐える理屈も、イグニスの炎に耐える理屈も見えてくる。てっきり皮と脂肪が分厚いのだと思ったが、それだけではない。体毛と氷という二重の鎧を着こんでいたのだ。
「イグニス、少しコイツの動き止められる!?」
「やってみよう!」
鉄筋コンクリートという物がある。名前の通りにコンクリートに鉄筋の基礎が埋めてあるものだ。実はこれ、なかなかに凄く、互いの短所を埋めつつ長所を生かしている。熊の鎧は言わばコレ。氷に毛が混じる事で、両方の強度を更に引き上げているのだと思う。
ならば正攻法では勝てまい。
闘気でも傷を付けるのがやっとであれば、今の俺では更に脂肪筋肉骨を切り裂き心臓まで刃が届かせるイメージが出来なかった。
「行くぞツカサ!」
イグニスが足止めにと放った魔法は、二本の火矢だった。
おいおいそんな魔法で大丈夫かと思うのだが、魔女の意図を理解し先回りする。
水をバキバキと凍らせ襲い来る冷凍熊だが、火矢はそんな熊の足元に落ちた。
ジュウと湯気立て出来る二つの水溜まり。そこになんと熊は両手両足を落とし、自らの冷気で水を固まらせてしまう。
その様子を見て、熊の足跡だよと教えてくれた時のイグニスの言葉を思い出す。
熊は歩く時、前足に後ろ足を付ける様に歩くから歩幅の間隔が非常に狭いのだと。ならばこそ、同時に捉える事が可能だったのだ。
流石だ魔女よ。氷の鎖は俺でも脱出出来る程度の拘束であるが、突如に拍子を崩した熊はそのまま転倒してしまい顎を地面に打ち付けて。
「恨みは無いけど、いやあった。よくもテント壊してくれたなこの野郎!」
そもそもこれだけの防御力があれば、この熊はヘグル山最強の捕食者だろう。
そんな魔獣がどうして人間程度を警戒していたのか。答えはその顔面に傷跡として残っていた。
目だ。右目に残る大きな傷。多分生涯で一番痛かった大怪我。毛皮も裂けないちっぽけな人間は、しかし知恵で急所を狙う。
眼球に氷は纏えまい。黒剣は容易くに水晶体を貫き、熊の頭部に深々と突き刺さった。それでも脳を外したのか、即死はさせてあげられ無くて。痛みに吠える熊の断末魔は谷に反響し鼓膜を揺るがす。
「下手でごめんよ」
激しく暴れる熊にはもう俺では近づけず、見かねた魔女が介錯に火炎槍を放つ。
刺さる黒剣から内部が破壊されたのだろう。ズシンと、巨体は今度こそ地に堕ちた。
あの魔法を二度も食らい、なおも原型を留めているあたり、本当に大した頑丈さである。
「ふいー手強かった。まさか魔獣が魔法を使うなんて」
「驚く事でもないさ。魔力属性の強い魔獣はその色を帯びる事はある」
ボコに乗って岩から降りて来たイグニスはそう言った。
俺はへえーと相槌を打ちながら、この熊どうしようかと振ると、解体は後回しにしようとハスキーな声で告げてくる。
「確かに強敵だったけど、白氷熊がここに住んで居たのは僥倖だったかも知れないね」
どういう意味かなと考えて、僥倖という言葉を理解する。てっきり自然がこの環境を作ったのだとばかり思っていたが、あの熊の冷凍能力も環境作りに一役買っていたのだろう。
「もしかしてこの辺はコイツの縄張りだった可能性もあるのかな」
「さて。それは巣でも見つけない事には何ともね」
とりあえずはまずは治療しようと、イグニスが俺の腕を取ってくる。
痛くないのかと尋ねられるが、スッパリ行ったので案外痛みは少ない。このくらいならば活性で治ると思うのだが、獣の爪は雑菌だらけだと窘められて。
「あ、ちょっと待って。その回復魔法熱いやつ、ぎゃー!!」
久しぶりに緑の炎で燃やされた。
まあそんなこんなで俺たちは無事勝利しルコール探しを再開するのだが。
(おお、この色艶見間違うはずもない。昔見た十年物に劣らんぞ)
――見つけた。




