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169 ヘグル山



「見てなさい。ほっ……どうだ!」


 沼に浮かぶ蓮の葉に魔女がヒョイと乗り移って見せた。

 バーンと両手を大きく広げて声を上げる赤髪の少女。表情はいかにも勝ち誇り、思わず落ちろと言いたくなる。


 ううむ負けていられまい。どうやら俺の失敗は飛び乗ったこと。そして体重を一か所に掛けすぎた事らしかった。


 アレ乗れるよと言って実践して見せたイグニスに倣い、今度はゆっくりと、そしてやや足を開いて立ち、なんとか俺も水に浮かぶ植物に乗る事が出来る。


「お、おお!! 乗れた!」


 薄っぺらで何とも頼りない足場である。けれども浮力や丈夫さが足りないというよりは、バランスが不安定な為に感じる心許なさか。ともあれ少しの間、足裏から葉一枚を通して水の感触を楽しむ事が出来た。


「いっそボコで向こう岸まで蓮の上を駆けられないかな」


「無茶言わないの。沼に落ちるのは君だけで十分だよ」


「反省はしてるんだよ」


「どうだか」


 まぁ既に濡れた俺はともかく、駝鳥の背には荷物が積んである。これを濡らしたら着替えも食料も全部パーだ。回り道で済む事に負うリスクではあるまい。


「さて、気が済んだのならそろそろ行こう。冗談抜きで日が暮れちゃう」


「それイグニスが……いや、うん。そだね」


 俺の濡れた服はイグニスに魔法で服を乾かして貰った。蓮に乗れるかはその間に話題に持ち上がったのだが、喜々と試したのはイグニス本人だ。俺は楽しかったので口を(つぐ)み、もう足を止める理由も無くなったので、再びに草を薙ぎ始める。


 歩いた感じ、ここへグル湿原はシュトラオスに乗って駆けたならば、そりゃあ大変な事になると想像が付く。広い草原に大量の落とし穴が掘ってあるようなものだ。


 だが、逆を言えばそれだけである。徒歩で足元を注意して歩く分には、多少ぬかるんだ草原と大差無いか。


「手貸そうか?」


「いや、このくらいなら。うーんやっぱりお願い」


 大きな沼を迂回していたつもりが道が途切れてしまった。水路に阻まれたのだ。

 もう少し探せば別の道もあるのかも知れないけれど、目の前には丁度よく飛び移れそうな陸地がある。


 距離は2メートルも無いか。俺はぴょんと軽く飛び越えて、まずは足場の頑丈さを確認する。

 つま先で枯れ草を払えば下にはちゃんと地面があった。問題も無さそうなので、さあと後ろの魔女へと手を伸ばす。


「い、いくぞ」


 とうと思い切りの良い踏み込み。一体どれだけ身体強化をしたのか、小川を楽々と越えて更には俺を飛び越えて行きそうなほどだった。意地でも水に落ちたくないという気迫が伝わってくる。


 俺は苦笑しながらイグニスを宙で受け止めた。

 そしてボコを迎えに行こうともう一度川を越えようと思っていたら、なんとイグニスに続き自分からビョインと付いて来るではないか。


「流石賢いねウチの子は」


(厩舎で見分けつかんかったの誰じゃっけ?)


 忘れましたねそんな古い事は。

 だが、これで進めるなと思った矢先の事。なにやら視線を感じた気がしたので、バッと振り返る。


 視界に入ったのは、もう大分近づいて来たヘグル山だった。目を凝らし木々の間を注視するも、とりわけ異常はなさそうである。


「ジグ、俺の気のせいか?」


(いや、獣だな。儂も感じた。殺気までは無かったので無視してよかろうよ)


「ん。りょーかい。ジグがそう言うなら大丈夫だね」


(カカカ。何が出てもぶった切ってやるわい)


 そりゃもう頼りにしてますよ魔王様。

 足の止まった俺に何かあったのかいと魔女が尋ねて来たので、獣が居たらしいと一応報告だけはしておく事にした。


「そうか。分かった。私も警戒は怠らない様にするよ」


「まあほどほどに」


 油断するわけではないが、別に魔獣なんて珍しくもないのである。

 この湿原にしてもそうだけど、街道を走っていたって出くわす時は出くわすし、ましてや人里離れた場所なんて彼らのホームグラウンドではないか。居ないほうがおかしいと俺は思う。


「おっ兎」


 そう言ったのはイグニスだ。どうやら言っている傍から遭遇したらしい。いや、あるいは警戒の成果なのだろうか。見れば確かに草陰に3頭の亀兎が居た。


 亀兎。一見茶色い普通のウサちゃんだが、特徴としては甲羅の様な固い背骨を持っている。その名の通り身の危険を感じると、すぽっと頭と手を引っ込めるのだけど。


「イグニス、ゆっくり俺の後ろに」


「うん。この距離はちょっとまずいな」


 甲羅に籠り強靭な脚力で飛んでくるのだ。その威力は骨がへし折れたと感じるほどである。何を隠そう俺はこの世界に来たばかりの頃、兎と舐めてボコボコにされた経験があるのだった。


 地球の小動物なら人の気配で逃げるのだろうが、魔獣というのは進化の都合かやたらと好戦的であり。例によって兎さえもが前屈みの姿勢を見せていて。


「ぎゃー来たー!!」


 ポポーンと、二羽の兎が跳ねた。まるで身を砲弾に変えたかのような勢いで飛んでくる。

 魔法を放てる間合いでもないので、イグニスは咄嗟に俺の背へと隠れこんだ。


 盾にされた俺は瞬間的に魔力を大活性まで持っていく。一匹目はヒラリと躱し、奥の草むらへと。二匹目はボコに当たりそうそうだったので、思わず蹴り飛ばした。バシャンと水を音がする。沼にでも落ちただろうか。


 そして残った一匹。先ほどの兎と比べるとかなり大きいので親と思われるのだが。

 なんだあれは。アルマジロの様にクルリと丸くなってしまった。しかも毛を逆立てているのか、その姿はまるで毬栗(いがぐり)である。


「イグニス。あれってまさか」


「そう。そのまさかだ。突っ込んでくるぞ!」


「兎ってなんだー!!」


 もはや巨大なハリネズミだった。いや、厄介なのは兎の脚力と俊敏性をも併せ持っている事か。棘付きボールが宙を舞う。


 逃げろと魔女を先に行かせ、俺は飛んでくる針兎を剣で受け止めた。瞬間、ズキンと脇腹に痛みが襲う。何事だと視線を下げれば、先ほどの子兎が襲って来たのだ。


「……っ」


 俺は親兎を振り払った。そしてイグニスの後を追う様に逃げの一手を打つ。勝てない相手ではないのだけど、子供が居ては心境的に斬り難いではないか。住処の付近に侵入したのはこっちだしね。


 草陰から襲い来る砲弾の様な兎を必死に躱し前進をしていると、「おいこっちだ」とイグニスの声。再びに川を超えたようで、小さな島が連続で続く先に彼女は居た。どうやら事情は察しているようで、掲げる杖の先には魔法陣が展開している。


 こちらも魔女の考えを察した。三匹の兎の相手を止めて、一目散に駆け出す。

 タタタンと小島を子気味よく跳ね渡ると、脇を炎の槍が通過した。兎の親子を狙ったのでは無い。こちらに渡る為の足場を崩したのだ。


「ありがとうイグニスー!」


「いや、助けられたのはこっちだよ」


 ならば相子だねと、対岸でまだこちらを眺める兎を見て笑いあう。流石に水を超えてまでは追ってこないだろう。無駄な殺生はしないに越したことはない。



 予期せぬ逃亡劇はあったものの、前に進むという意味では無駄では無かったようだ。

 最初に変化に気づいたのは足の感覚だった。泥のぬちゃりという感覚が消えたのである。

 やっとに湿地を超えたのかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。


「これは、霜?」


 パリリというかシャリリというか。薄い氷を踏み砕く感触が靴底から伝わって来た。

 そういえば少し冷えてきたかなと思うが、季節はまだ夏のはず。はてどういう事だと、俺は辿り着いたヘグル山を見上げる。


「おいおい。コメロさんの話を聞いて無かったのかい。ルコールは凍らない様に酒精を生成する。つまり、年中凍る様な環境に育つんだよ」


「それは覚えてるけどさ」


 その環境が気になるんだよ。

 雪被る高山でもあるまいに、何故かこの山からは冷気が降り下りて来ているのだった。



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