肆
ある世界で、ある男とある女がお見合いをしていました。
男は女が自分を見ては苦しげな表情をして目をそらすことに苛立っていました。
あの女は無しだな、と男は考えていました。
隣にいた母親に一言断って、手洗いに行った振りをしてお見合い場所であった旅館内の庭園を見に行きました。
ぼーっとそれを見ていると、庭園を掃除していた仲居の女と目が合って、お互いに微笑みながら会釈をしました。
するといつから隣にいたのか、烏羽色の着物を着てこれまた似た色の中折れのハットを被った男性が男に話しかけてきました。
お久しぶりです、と。
男はその男性に見覚えはありませんでしたが、記憶違いもあるかもしれないと話を合わせて、お久しぶりですと返しました。
1つ、昔話をしましょうか。
男性は男に言いました。
ある愚かな男の、愚かな執着のお話を。
ある男が天女を自分の物にするために天から引きずり下ろしました。けれど、それは人間が侵すには過ぎた禁忌でした。男は天女を慕いながらも、禁忌を侵して、これで永遠にずっと一緒にいられるものだと信じていました。愚かなことに、それが騙されていたことに気付かずにね。どんなに愛し合っていてもね、共にいる魂は不定期で変更させられるんです。様々な人間を生み出すことは全ての世界で定められていますからね。まあ、確かに次の世界でも男は女と一緒にいることが出来たし、男は女のことを覚えていた。けれども更に罪を犯した男の記憶は次の世界では覚えていることを許されなかった。代わりに女は覚えていた。そして男を愛していた。なのに、男は女を選ばなかった。どうしてでしょうね?あんなにも愛していたのに。輪廻の輪から外れた魂がどうなるのか女は知っていたけれど、それは天女の領分ではなかった。だから、女は魂を輪廻の輪に戻すことのできる存在と契約を交わした。それこそ、藁にもすがる思いで、ね。ある物を男が女に返せば、男は輪廻の輪に戻ることができる。返せなければ、男の魂は消滅し、2度と巡り会うことすら出来ない。女は男を愛していたから、これからも生きていてほしくて、幸せになってほしくて、男の側にずっといた。対価として、女の寿命を差し出しながら。けれどもある時、過ちを犯しましてね。枷として1つ、女が男と結ばれることがないというものが付いてしまいました。これでずっと女は男にとって他人になってしまいました。これまで以上に難しくなってしまったんです。面白いですよね。条件を自分から厳しくするなんて。面白いと言えば、可笑しい話ですけれども、記憶のない男は決して女が望む言葉を口にしないのです。それこそ、魂に刻まれているんでしょうねえ。執着が。そんな貴方に朗報です。今すぐ貴方の魂を差し出せば━━。
わざとらしい笑みと軽い口調で話していた男性の身体を刃が貫いていました。
男は驚いて思わず後ずさりました。
血だらけになった男性の後ろから現れた返り血を浴びた女は、男が見合いをしていた女でした。
女は無表情にも男性を見下ろすと、血が滴る剣で己の左腕を切り落としました。
死んだと思っていた男性は、剣が貫いた時と同じだった表情をニッと動かし、目だけを動かして女を見ました。
やはり天女の血肉は素晴らしい、と。
そして男性は、死神は、天女の左腕を持ち去って消えました。
女は剣を落とし、男に近付きながら、残った右手で男の頬を撫でました。
お願いします。
どうか、私に心臓を返してください。
女は涙を流していました。
男も、いつの間にか涙を流していました。
男は女のことを覚えていませんでした。
どうしてこんなにも嬉しくて、苦しくて、切なくて、愛しくて、足りなくて、飢えていて、満たされていて、焦がれて病まないのかわかりませんでした。
男は答えました。
愛しています。
ずっとずっとずっと死んでからもずっとずっと永遠に。
この魂がある限り、永久に貴女を想っています。
愛しています。
だから、貴女と共に生きられない世界なんて要らない。
また明日、貴女と同じ世界で逢いたい。
今も何処かで女と男は同じ世界を生きているそうです。