73 決戦前夜の秘め事
シルフィーが結祈とサラと一緒の寝室に戻った後、アーサーはまだ机に向かっていた。シルフィーに言われた事について考えながら、しかしまだ睡魔は襲って来なかった。
今日はもう眠れないな、と半ば諦めていた時、部屋のドアがノックされた。
(またシルフィーか?)
そう思いながらドアに近付くと、その向こう側から声が響いた。
「アーサー、起きてる?」
「ん? 今度は結祈か」
声の主が分かり、安心してドアを開ける。
そこにはなぜか、シルフィーのように外着ではなく、真っ白で秘部以外が半透明なネグリジェ姿の結祈が立っていた。いつも黒い服ばかり好んで着ている結祈が白い服を着ている事に違和感を覚えるが、そのネグリジェは結祈の白い柔肌と合っており、引き込まれるような魅力があった。
「って、なんて格好してるんだよ!」
しばらく見惚れていたアーサーは正気に戻ると、コマのように体を回してすぐに背中を向ける。
「これはこの間城下町に行った時に買って来たんだよ。アーサーにもいくつか買って来たでしょ?」
「……ああ、俺とアレックスがドタバタしてたあの日か。……ってそんな事じゃなくて、何でその恰好で俺の所に来たんだ!? 俺はそういうのに疎いけど、そういう服って異性に見られたら恥ずかしいものじゃないのか!?」
「アーサーなら平気だよ? むしろ見せつけに来たくらい」
「なぜに!? お前はもっと自分を大切にしろ!」
「むぅー……。感想とか聞きたかったんだけどなあ」
不満げに呟きながら結祈はアーサーの脇からするりと抜けて部屋の中に侵入し、すぐにベッドへとダイブする。ゴロゴロと数回転がってからアーサーの方を見て、
「アーサーも一緒に寝ない?」
「……お前、結局何しに来たんだ?」
「端的に言うとアーサーが眠れるように来たんだよ。寝てる人限定で疲れを取れる忍術があるから、それをアーサーに使おうと思って」
「おかしいなー! その割にさっきから俺を興奮させて眠りから遠ざけてるんだけどなあ!!」
いつものアレックスと同じような状態になりながら、結局ドアを閉めて結祈の入室は認めた。どうせ眠れないし、結祈と話をするもの良いかと思ったのだ。
「……それで、どうやったら俺は眠れるんだ?」
「とりあえず入って」
結祈はベッドに寝転がったまま、自身の隣を叩いてそんな事を言う。
色々言いたい事はあったが、とりあえずアーサーは大人しく言う事を聞く。さらっと結祈と同衾する形になったが、アーサーはここ数日まともに寝ていない。いい加減、判断能力が鈍っているのかもしれない。
「電気を消してー……うん、じゃあ寝よっか」
結祈が机の電気を消すと、部屋の中を照らすのは窓から差し込む月明かりだけになった。
アーサーは極力結祈の方を見ないように背を向けて眠る。ドアの前ですら見惚れたのに、同じ布団の中で横になる結祈の姿を見たら、さすがに理性のタガが外れそうな気がしたからだ。
「じゃあ眠くなれるように少し話をしよっか」
そんなアーサーの気も知らず、結祈は明るい声で言う。姿が見えない事で逆に先程の結祈の恰好が脳裏に浮かぶが、アーサーはそれに押し殺して平静を保ちつつ訊き返す。
「話?」
「うん、眠くなるような話。例えばシルフィーとはどんな話をしたの?」
「……別に大した事じゃないよ。明日の事と、不眠症になった原因について話しただけ」
「……っ、……そっか」
「?」
結祈の返答が少し遅れた事に違和感を覚えたが、振り向く事はしなかった。
「あはは……やっぱりダメだね。勢いでここまで来たけど、最初から振る話を間違えちゃった。対人関係を築こうとして来なかったツケかな」
「結祈?」
なんの脈絡もなく急に落ち込み始めた結祈の様子が気になり、振り向くかどうか真剣に悩んでいると急に結祈が背中に抱き着いて来た。
「結祈!? お前何を……っ」
「お願い、少しこのままでいさせて」
ピシャリと抑えつけるように言う結祈に、アーサーは押し黙ってしまった。そのまま結祈の温もりが背中に広がっていくのを感じていると、背中で動きがあった。
「……ごめんね、アーサー」
先程までの明るさが嘘のように弱々しい声で結祈が呟いた。
何を、と訊き返す前に結祈がその訳を話し始める。
「知ってたんだよ。フェルトさんに作戦を立案して、流されるように戦争の件を任されてこの六日間を何てこと無いように振舞ってたけど、本当はとてつもない重圧が掛かってるって。……当然だよね、急にエルフの命運を預けられたらそうならない方が不思議だよ」
「それは……」
「違うの?」
何か言い訳をしようとしたが、先に結祈に潰されてしまった。
アーサーは少しだけ逡巡し、それから観念したようにゆっくりとした口調で話す。
「……俺は、どこまでいっても、どこにでもいるごく普通の少年だよ。そんな俺にシルフィーもフェルトさんも期待してくれてる。……情けない話、本当は怖いんだよ。シルフィーにはいつもより準備期間が長くて余裕があるって言ったけど、全然そんな事ない。俺の考えた策で誰かが死んだら、そう思うと底が無くて、この六日間はずっと心臓を掴まれてるような気分だったんだ。でも、それでも俺を信じてくれる人がいる。だからそれに応えないといけないんだ」
それはこの国に来て、アーサーが初めて漏らした弱音だった。
アレックスとは古い付き合いからくる弱い所は極力見せたくないという変なプライドがあるし、サラに対してはいつも自分を信じて協力してくれるので、こちらにも弱い所は見せたくないという妙なプライドがある。そしてシルフィーは今回の件で一番心労を重ねているので、こっちが弱音を吐くなんてのは論外だ。
しかし、結祈に対してだけはそういったものが無かった。彼女にだけは安心して弱音を吐けた。それはきっと、結祈とはアレックスと違う、深い部分で通じ合える何かがあるからだろう。
「……あのね、アーサー。もしアーサーが辛くなって、何もかも投げ出したくなったら、ワタシに声をかけてね? その時は誰にどんな非難をされても、一緒に逃げるから」
「結祈?」
「……もう、レインさんやビビさんの時みたいな苦労を一人で抱え込む必要はないんだよ?」
そう言った瞬間。
結祈の張り付くアーサーの体がピクリと震えた。
「……お前、どうしてそれを……」
「アレックスから聞いたんだよ」
「あいつめ」
明日会ったら一発殴ろうと静かに誓った。
ずっと隠していた事が実は露見していたのだと知り、アーサーがバツの悪い表情を浮かべていた。
「だからお願い。アーサーは今回の事だけじゃなくて、他にも何か抱えてるでしょ? 『タウロス王国』の後から様子が変なのも分かってるよ。それも教えて」
「……」
しばらく押し黙って結祈が諦めるのを待っていたが、後ろでアーサーの服を掴む手に力が入るのを感じ取った。アーサーが諦めて欲しいと思う以上に、結祈は引き下がるつもりがないのだとその行動が示していた。
その姿勢にアーサーは溜め息を吐いて諦めた。アレックスがよくアーサーに押し切られるように、アーサーもまた結祈には敵わないのだ。
観念したアーサーは、結祈の言っていたように『タウロス王国』を出てからずっと悩んでいた事を語り出す。
「……結祈も知ってると思うけど、ここに来る前、俺は『タウロス王国』でフレッドを殺した。何の躊躇もする事なく、国のみんなと魔族を救うためって理由でドラゴンと一緒に水の中に沈めた。あの時はあれが最善だと信じてた。……でも、今になって思うんだ。あの選択は本当に正しかったのかなって。他にも手があったんじゃないかって」
アーサーは『タウロス王国』でフレッドを殺害した。
ドラゴンの起動時に踏み潰された人達は少なくない。そういった事情を鑑みると、アーサーが取った行動はこれから失われていたであろういくつもの命を救ったのは間違いない。けれどアーサー自身はその結果に納得しきれてないのだ。
その全てを理解したうえで、結祈は静かな声で言った。
「アーサーは後悔してるんだね」
「後悔……?」
「うん。フレッドがどんな人だったのか、直接見てないワタシには分からない。でも悪人だったとしても、アーサーは救いたかったんでしょ? ワタシにはそれができなかった事を後悔してるように見えるよ?」
「……」
それは簡単な事だった。
けれど結祈に改めてそう言われて、アーサーは『タウロス王国』の一件からずっと心の中にあったしこりの正体が明確に分かったような気がした。
アーサーから見て、フレッドは疑うまでもなく悪だった。
ドラゴンが暴れた爪痕は未だに残っているはずだし、復興だってまだ進んでいないだろう。フレッドがやった事は到底許せる事ではない。
けれど、それでももっと話しておけばと良かったと今なら思う。あの時はそんな暇がなかったのだとしても、もっとフレッドという一人の人間を知る努力くらいはしておけば良かったと思う。やろうと思えばアリシアに聞くなりできたというのに、それすらもしなかったのだから。
アーサーから見て、フレッドは疑うまでもなく悪だった。
それでも見方を変えれば、彼は彼なりの方法で『タウロス王国』を護ろうとしていたのだ。そのやり方が最悪に近いものだったとしても、その想いくらいは汲んでも良かったのではないかと思う。
結局、彼を悪党として終わらせてしまったのは、弁明の機会を与える事もせずドラゴンと一緒に水の底に沈めたのはアーサーなのだ。
どちらが本当の悪党だったのか、今となっては分からない。けれどこんな考えは蛇足だと分かっていても、どうしても止められなかった。
それが心の中にずっとあったしこりの正体だったのだ。
「……ありがとな、結祈。俺に気付かせてくれて」
それをようやく自覚できたアーサーの表情は、幾分か晴れたものになっていた。
そこで、ずっと張っていた緊張の糸が切れた。
ずっとあったしこりの正体を知れた事と、隣にいる結祈の温もりのせいだろう。安心したアーサーの意識は深い眠りへと落ちて行った。
…………。
………………。
……………………。
「……アーサー?」
アーサーが眠りについた後に、月明かりに照らされる部屋の中でもぞもぞと動く影があった。
結祈は本来の目的を果たすために、アーサーが眠りにつくのをずっと待っていたのだ。
結祈はアーサーの瞼に触れて眼球運動を確認する。人は睡眠時にレム睡眠とノンレム睡眠を交互に繰り返している。レム睡眠時には眼球運動が行われており、ノンレム睡眠時にはその運動が行われていない。だから寝ている人の瞼に触れれば、眼球運動の有無で眠りの深さがある程度分かるのだ。
結祈はそれでアーサーが深い眠りに入っているのを確認すると、軽く覆いかぶさるように姿勢を変える。
「アーサーは人が良いから普段意識してないかもしれないけど、ワタシは平気で人殺しをするようなロクでなしなんだよ?」
結祈の言っていた『寝てる人限定で疲れを取れる忍術』というのは、寝ている人に直接触れていればできる。だから瞼に触れたままでもその忍術を使う事ができたはずなのに、結祈はわざわざ自身の顔をアーサーの顔に近付けていく。
「だから……」
月明かりに照らされていた結祈の顔は、ほんのり朱色に染まっていた。
そして、そこから先に起きた事は彼女しか知らない。