72 人は必ず立ち直れる
各々が準備に駆けまわり、六日は瞬く間に過ぎ去った。
ヴェルトが口だけの宣戦布告を破る事もなく、表面上は平和な六日間だった。
けれどそれはあくまで表面上だけで、実際には違う。決戦前日ともなるとピリピリした空気が国中を覆う。今が一般人の避難の時間なのもその要因の一つだろう。
「……皆さん、不安そうですね」
「まあ、戦争前日だからな。仕方ないだろ。でも明日を凌げばその不安も取り除けるよ」
その誘導にシルフィーとアーサーも参加していた。アレックスは例によって面倒くさがり、サラと結祈は前日まで詰め込みで特訓しているので不参加だ。
ただ誘導といっても特にする事はなく、エルフ達が歩いて行くのを見送るだけだ。手持ち無沙汰なアーサーは傍らにいるシルフィーに話しかける。
「避難場所は『ポラリス王国』方面の森の中だっけ?」
「はい、通行証は渡してありますから、万が一でも『ポラリス王国』に逃げられるので安心です」
「……それは安心だけど、やっぱりシルフィーも避難した方が良かったんじゃないか? 例のアレだって、威力が落ちるっていっても避難場所からなら効果範囲内だろ?」
「考えに変わりはありません。明日はアーサーさん達の遊撃に同行します」
「せめてフェルトさんと宮廷で大人しく……」
「明日はアーサーさん達の遊撃に同行します」
「……シルフィーって変なところで頑固だよなあ」
この場にアレックスがいたらテメェもだろうが、と言われそうな事を言いつつ、避難者の列に目を向ける。すると川のように流れる人の列から見覚えのあるエルフの少女がアーサーとシルフィーの元に駆けてきた。
「お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
その少女は『アリエス王国』に初めて来た日に会った少女、リーズだった。
「リーズ、どうしたんですか? 早く避難しないと……」
「お姉ちゃん……お兄ちゃん……」
走って乱れた息を整えて、リーズは顔を上げると二人の顔を正面から見て、
「約束、まだだからね!? ちゃんと遊んでくれなきゃヤダよ!!」
「リーズ……」
それはあの時、困っていたシルフィーを助けるためにアーサーが言った事だった。
用事が終わったら付き合うと、アーサーは確かにそう約束した。その約束を果たしていないのに死ぬ訳にはいかない。戦争の前日で、また死ねない理由が増えた。
アーサーはリーズと目線を合わせるために膝を折ってから言う。
「ああ、約束だ。全部終わらせて一緒に遊ぼうな」
「うんっ! かくれんぼとかおままごととかプロレスごっことかいっぱいしようね!!」
「……ああ、うん。お手柔らかに頼むよ」
「じゃあこれ、無事に帰って来れるようにお兄ちゃんにあげる」
そう言ってリーズがアーサーに手渡したのは、リーズの小さな掌に収まるほどの大きさの赤い果実だった。
「これは?」
「ナマナの実だよ。ちょっとだけど魔力の回復効果があるんだけど、お兄ちゃんは魔力が少ないからこれで少しでも足しにしてね」
「……そっか、ありがとな」
実際、明日の戦争でアーサーは魔力が枯渇するほどの魔術を使う予定はないのだが、何事にも不測の事態はある。アーサーはありがたくその果実をウエストバッグの中に突っ込む。
リーズはそれに満足したのか、ニコリと笑って避難者の列へと戻っていった。
「あっ、そういえば」
それからアーサーは思い出したように、
「シルフィー。悪いんだけど、今日だけは別の寝室を貸してくれないか? 最悪、倉庫みたいなところでも良いんだけど」
「それは構いませんが、どうしてですか?」
「いや、俺はまだやり残しがあるから夜が遅くなると思うんだよ。だからせめてアレックスの邪魔にならないようにしたいんだ」
「そういう事なら分かりました。ですが、きちんと寝て下さいね?」
「……まあ、善処するよ」
◇◇◇◇◇◇◇
避難も無事に完了し、その日の夜遅く、シルフィーは宮廷の廊下を一人で歩いていた。
昼間にアーサーが言っていた、寝るのを善処する、という言葉が気になったシルフィーは、用意した彼の部屋に向かっていた。
彼の部屋の前に着くとドアが少し開いており、そこから光が漏れていた。シルフィーはそのドアを開けて中の様子を窺う。するとアーサーは机に向かっていて、こちらに背中を向けていた。
「アーサーさん?」
その無防備な背中に声を掛けるとアーサーは思いのほか驚いたようで、一度体をビクッと反応させてから振り向き、シルフィーの姿を確認すると安堵の息を漏らす。
「……なんだシルフィーか。驚かせるなよ」
「こんな時間まで何してるんですか?」
「昼間に言った通り、明日のための準備だよ」
アーサーは紙の束をシルフィーに見せながらそう言う。そのほとんどが戦略についてというよりは『アリエス王国』の森の中の地図だ。土地勘の無いアーサーはその穴を埋めるために、六日前から詰め込んでいるのだ。
「ですが、もう覚えているんじゃないんですか? この六日間、暇さえあれば眺めていましたよね?」
「まあ、どうせ寝ないしな。暇つぶしだよ」
「眠れないんですか?」
「寝ないんだよ。俺は不眠症だから二日に一度、少し眠れれば十分なんだ」
「不眠症……治らないんですか?」
「そうだな……こうなってからもう一〇年になるかな」
アーサーは軽く言ったが、一〇年もの間不眠症という事は、それなりの原因があるのだろう。
シルフィーはその原因について訊こうとして、けれど先にアーサーが質問を飛ばしてきた。
「シルフィーも眠れないのか?」
「あっ……はい。どうしても、明日の事を考えてしまって」
「そっか……まあ、そうだよな」
シルフィーがここに来たもう一つの理由がこれだった。最初はアーサーの部屋に行こうとは考えておらず、ベッドの中に入ったのだ。それなのにいくら経っても睡魔が襲って来ず、こうしてアーサーの部屋に訪れたのだ。
「……明日、大丈夫ですよね」
その不安がそのまま口に出た。
「ああ、練れるだけの策は練った。時間内で出来ることは全部やったはずだ。あと必要なのは明日の気合いかな」
しかしアーサーの方は別段不安に思っている事はないようで、さらっとシルフィーの不安を取り除こうとする言葉を放った。
「……アーサーさんは落ち着いてますね」
「そう? これでも緊張はしてるんだけどね。でも、確かに今までよりは幾分かマシかもな。油断してるつもりは無いけど、『ジェミニ公国』や『タウロス王国』の時はいきなりだったから準備する暇も無かったからな、今回は六日も準備できた訳だし。いつもよりは余裕があるよ」
「変な慣れ方ですね」
苦笑いでそう言ったシルフィーは、壁際にあった椅子をアーサーの隣まで運び、そこに座った。
「戻らないのか?」
「戻ってもどうせ眠れませんし、何かお話に付き合って下さい。眠れそうになったら部屋に戻ります」
「まあ暇だし良いけど。どんな話が良い?」
「では先程訊こうと思ってたんですけど、不眠症はいつからなんですか? 原因はあるんですか?」
「あー……それか」
シルフィーが問うと、アーサーはあからさまに困ったような表情を浮かべた。それを見てシルフィーは自分が突っ込んではいけない部分を訊いたのだと思い、すぐに頭を下げる。
「すっ、すみません、嫌だったら良いんです。単に気になっただけですから……」
「いや、別に嫌って訳じゃないんだけど……すごくつまらない話なんだよ」
そう前置きして、アーサーは一つ浅い呼吸をしてからシルフィーの疑問に答える。
「……昔、村が魔族に襲われて母親と妹を殺されたんだ。眠れなくなったのはそれからかな」
「お母様と妹さんを……」
「理由としてはそんなものだよ。ありふれた話だ、別に家族を殺されたのは俺だけじゃないのにな」
そう言ったアーサーの表情は、別段それについて何かを感じているようではなかった。愛する人達を失った事も、眠れない事も受け入れているのだ。それを受け入れて生きられる位の強さは、アーサーには備わっている。
だが、当の本人が何も感じていなくても、それを聴いたシルフィーの方は違った。それがとても悲しい事に思えたのだ。
「……大丈夫ですよ、アーサーさん」
「? なにが……」
だからだろうか。シルフィーはそんな事を口走った。
アーサーはいきなり放たれた言葉の意味が分からず疑問顔でシルフィーの方を見る。しかしそんな表情を向けてくるアーサーに、シルフィーは優しい笑みを浮かべながら、
「心の傷は、いつか乗り越えられます」
その言葉に、ピクリとアーサーの体が反応した。
心の傷、というのに心当たりがあったからだ。託された遺志と共にある、癒えない傷は自覚できていた。だからアーサーは未だに不眠症を患っているのだから。
シルフィーはアーサーの感情の機微を読み取りながら、その根拠となるかつて言われた大切な言葉を口にする。
「お母様が亡くなった時、まだ小さかった泣きじゃくる私にフェルト兄様は言いました。私達は悲しみを乗り越えられる生き物だ、と。時間はかかっても必ず立ち直れる生き物だ、と。私はその言葉に救われました。だからアーサーさんもいつかきっと……」
「…………シルフィーは」
少し長めの沈黙の後に呟いたアーサーの姿が、シルフィーには何かにすがっているように見えた。そして、そう見えたのはきっと間違いではない。
アーサーはデパートで母親とはぐれた子供のような悲哀に満ちた表情で、僅かな希望にすがりつくように訊く。
「シルフィーは立ち直れたのか? 乗り越え……られたのか?」
アーサーが自分の言葉に傷を癒せる何かがあると期待しているのが感じられた。けれどその期待とは裏腹に、明確な答えを持っていないシルフィーは曖昧に笑って、
「どうでしょう。私は今でも母様の事を思い出すと悲しくなります。そういった意味ではきっと、まだ悲しみを乗り越えられた訳ではないのでしょう。ですが、こうやって胸に手を当ててみると思い出すんです。本を読み聞かせてくれた綺麗な声、頭を撫でてくれた柔らかい手、いつも私を見守ってくれた優しい目。そんな沢山の思い出が、私に一人じゃないって教えてくれるんです。だから悲しみと同じくらい、心が温かくなります」
それを聞いたアーサーは自身の胸に手を当ててみる。その表情が曇ったのをシルフィーは見逃さなかった。アーサーの傷は明確にアーサーの中に根付いている。取り除くにはもっと時間が必要なのだろう。
シルフィーはそんな傷を少しでも癒せるように優しい声音で、
「アーサーさんの抱えている苦しみや葛藤を理解する事は、私にはできません。ですがその重みを少しくらいなら和らげる事はできます。他にもアレックスさん、結祈さん、サラさんもいます。アーサーさんは一人ではありません」
「……そっか。……そう、だよな」
シルフィーの言葉で、全てが納得できた訳ではない。
けれどその言葉に自分の求めていた答えの片鱗のようなものを見つけ、アーサーは満足気に頷いた。
アーサーは最後にそんな言葉をくれた友達に向き直り、
「俺も少し考えてみるよ。ありがとう、シルフィー」