471 ユキノ・トリガーの休暇
ユキノ・トリガーの休日は、まず朝は起きてすぐにランニング等の運動から始まり、帰宅後にお風呂に入ってから朝食。その後、掃除を行ってニュースやネットで世間の情報を集めて昼頃になると外出。昼食は外で済まし、それからショッピングだ。
特に買いたい物がある訳でもなく、なんとなく大型ショッピングモールの中を歩く。そこで屈託のない笑顔を浮かべている子供達や、その家族を見る事で自分達が何の為に戦っているのかを再確認する。
血の繋がった家族がいない身としては複雑な気分になる事もあるが、だからこそその重要さが分かっている。今はミリアムとリリアナと順番に休暇を取っているが、この穏やかな時間は長続きしないだろう。
闘争に明け暮れる日々だからこそ、こうした何てことない平凡な日々を大切にしていきたいと思う。それくらいの事をしないと、過去の罪を償う事など出来ないから。
そして日が暮れた頃、消耗品や食材などを買って家に戻って来たユキノ。しかしドアに手をかけた所で動きを止めた。長年、暗殺者として培って来た経験則が部屋の中に気配を感じ取ったのだ。
すぐにドアから離れ、『代理演算装置』が搭載された左目の義眼を使ってサーモグラフィを起動させる。すると部屋の中で座る人影を捉えた。そこでユキノは通路の窓から壁際の非常階段に移動し、壁を伝って自分の部屋のキッチン脇の窓を音を立てないようにゆっくりと開けて中に入る。そして隠してあった拳銃を取り出すと慎重にリビングに向かう。そして物陰からチラリと相手を窺うと、ユキノは驚きに目を見開いた。
「長官……!?」
「悪いね。邪魔してる」
見知った相手にユキノは警戒を解き、すぐに部屋の灯りをつけた。しかし直後、ヘルトはつけた灯りをどういう訳か消してしまった。理由を問おうとしたがヘルトは人差し指を立てて静かにするようにジェスチャーをし、それから端末を弄り始めた。
「家で料理をしてたら軽いボヤを起こして追い出されたんだ。他に行くアテが無くてね」
「……意外です。料理なんてするんですね」
「まあ、数少ない趣味の一つだ」
この一週間の事など、聞きたい事は沢山ある。しかしあえて当たり障りのない返事を返してみると間違ってはいなかったようで、ヘルトが向けて来た端末にはこう書いてあった。
『盗聴されてる。合わせてくれ。「ポラリス王国」がヤバい。危機が迫ってる』
一瞬、息を呑んだ。
けれど態度には出さずに頷いて、意図ばかりを含ませた話を続ける。
「……長官が料理できるって他にも知ってる人はいるんですか?」
「きみだけだ。それにちょっと難しい料理に挑戦中でなかなか進んでなくてね。できればきみにも手伝って貰えるとありがたいんだけど」
今の会話の真の内容はこうだ。
―――他にもこの件を知ってる人はいますか?
―――きみとぼくしか知らないし、状況も芳しくない。手伝ってくれるとありがたい。
事件を料理に置き換えて、あとは何となくの流れで話を進める。やはりこの一週間、無駄に姿を消していた訳ではないらしい。
「ええ、私に出来ることなら」
「助かるよ」
そしてヘルトは左手を前に出すとUSBを再構築してユキノに手渡した。
「レシピを渡す。みんなには秘密にしておいてくれよ?」
―――情報を渡す。誰にも気付かれないようにしてくれ。
その意図を察し、ユキノはすぐにそれを仕舞った。
「それで長官。まずは何から……」
今後の方針をさらに聞こうとすると、それは襲って来た。
ヘルトが立っていた後ろの壁を突き抜けた弾丸が彼の体を貫いたのだ。
(なっ……対物ライフル!?)
壁を経由しているので多少の威力は削がれているが、それでも本来人に向けて撃つものではないし、撃てば人体を爆散させる威力があるものだ。ヘルトなら問題ないとも思うが、同時にマズいとも思う。
「……なに、してる……追え、ユキノ・トリガー!!」
腹を抑えてうずくまるヘルトは心配だが、彼がそう言うなら問題無いと判断してすぐに必要な物を持って窓から部屋の外に飛び出した。そして手に持ったワイヤーガンを使って隣の建物の屋上に移動した。
すでに左目で射線から射撃位置を演算している。しかしすでに移動しているのか姿はなかった。すぐに現場の状況から逃走ルートを左目で演算すると、建物の屋上を伝って逃げていく人影を見つけた。左の義足の足の裏からジェットを噴射して後を追う。そのおかげでなんとか同じ屋上で追いつく事ができた。そして問答無用で足に向かって発砲する。殺す気は無い足を止める為だけの攻撃だ。
しかしその銃弾は当たらなかった。正確には襲撃者の傍の虚空から現れた獣の腕が弾いたのだ。
そして彼女は足を止めたので、ユキノも距離を開いたまま銃口だけ向けて足を止める。そして月明かりに照らされる彼女の姿を見てユキノは息を呑んだ。
長い金髪に色白い肌。首の下から全身を覆う、スズメバチを思わせる黄色と黒のカラーリングのウェットスーツに似た戦闘用特殊スーツ。彼女の事をユキノはよく知っていた。
「……イリーナ?」
「―――『幻獣』」
名を呼んだ声への返答は、先程よりも遥かに巨大な虚空から現れた獣の腕だった。それが振り下ろされて二人が立っているビルに叩きつけられ、あっという間に倒壊していく。
「っ……待って、イリーナ!!」
崩れていく瓦礫の中で彼女の名を叫ぶが、一度も振り返らずに闇夜に消えて行った。
そしてなんとか無事に着地したユキノだが、すぐにこの場を離れなければいけない。この建物はどこかの会社の研究所のようなので巻き込み事故は無さそうで一安心だがのんびりもしていられない。ヘルトの事もあるが、ここで姿を見られてただでさえ微妙な立場の『ナイトメア』を危うくはできない。それに撃たれたヘルトの事も心配だったのでユキノはすぐに家に戻った。
しかしそこで今日何度目かになる衝撃があった。部屋には血痕と砕け散った携帯端末だけ残されており、ヘルトの姿が無かったのだ。おそらく無事なのだろうが、流石に心配になって来る。
とにかく現状報告の為にユキノはマナフォンに手を伸ばして嘉恋に直接電話する。長官室にかけなかったのは、万が一にも他の誰かが出ないとも限らないからだ。そして今回はその用心さが功を奏した。
『嘉恋だ』
「暗合化して」
『少し待て』
あらかじめそう伝えた時の手順は確認しているのでスムーズだった。三秒程度で反応が返って来る。
『よし、良いぞ』
「外に出てて家に戻ったら長官がいた。そして狙撃された。私は犯人を追ったからその後は見てないけど、長官はまたどこかに消えた」
『ちょっと待て。誰に襲われたんだ?』
「……イリーナ・ホワイトファング。血縁は無いけど私の妹。ずっと前に生き別れたのに突然姿を表した。理由は分からないけど長官は危機を知らせてくれた。この国で何かが起きようとしてる」
『……ミリアムも同じ事を言っていた。ユキノはどう思う?』
「多分、『ドールズ』が関わってる。眉唾に聞こえるかもだけど、あの組織は実在してる。消息不明の長官の居所を知ってたし、確実にこっちの動きを読んでる。とにかくすぐにミリアムとリリィをこっちに寄越して。『ドールズ』に関する資料と武装も一式。敵は『暗部』の最奥でプロだよ。早く動かないと痕跡が辿れなくなる」
『……悪いがそれは出来ない』
「なんっ……出来ないってどうして!?」
唐突な否定の言葉につい言葉が荒くなった。
しかし状況はユキノが考えている以上に深刻だった。
『落ち着いて聞いてくれ。「ナイトメア」を含む特務部隊は全て解散になった。私達も軟禁されていて、ミリアムとリリアナとも連絡が取れない』
「……冗談だよね?」
『おそらく「W.A.N.D.」内にも手が伸びている。だから少年は消えたんだろう。力になりたいが時間がいる。すぐには動けないし、全エージェントに一時帰投命令が出された。お前も逆らえば追われる立場になる』
思わずユキノは天を仰いだ。
流石に参りそうな状況に思考が止まりそうになるが、深く呼吸をしてなんとか冷静さを取り戻した。それから数秒で乱れた思考をまとめ、今後の事を考えて通話に意識を向ける。
「……よく分かった。ならこの通話は無かった事にして」
『ユキノ……』
「多少のアクセス権はまだ残ってるよね? なら私は休暇中に事件に巻き込まれて消えたって事にしておいて。生死も不明で。それなら少しは自由に動けるはず」
『……援軍無しで「ドールズ」を止められるか?』
「……やるしか無い、なんとしても。しばらくは情報を集めながらもう一度長官に会えないか色々試してみる。そっちへの連絡もこれを最後にする」
『……ユキノ。これは失敗できない任務だ。必ずやり遂げてくれ』
向こうにも長電話している余裕は無いのか、それだけ言い切ると嘉恋の方から通話を切った。
ユキノもすぐに動いた。急いで準備を整えてから『W.A.N.D.』の追手が来る前に姿をくらます。
そうして再び、短い休暇を終えたユキノ・トリガーは暗殺部隊だった頃と同じように追われる立場に戻る事となった。