448 それぞれの前夜 -安らげる場所-
ラプラスと別れたアーサーは、その足で紬の部屋の前に来ていた。今度はノックをして許可を待ってから中に入る。目を閉じてベッドに座っていた紬は、アーサーの方を見て立ち上がった。
「……来ると思ってた」
「まだ話し足りないからな」
戦っている時は色々話していたが、あの後はすぐにヴェールヌイの所に戻り、その後もバタバタしていたので結局あまり話せていない。だがいざ面と向かうと、何から話せば良いか分からなくなった。
「えっと……とりあえず一つ確認したいんだけど良い?」
窺うような問い掛けにアーサーは頷くと、視線を泳がせて挙動不審になりながら紬は尋ねる。
「その……あたし達って恋人になったって事で良いんだよね?」
「そっ……れは……そうだ。恋人だ」
どう答えれば良いか一瞬だけ迷ったが、期待に満ちた紬の表情を見て違うとは言えなかった。それにアーサーも紬とそういう関係になりたくない訳じゃない。ラプラスもこの状況を望んでいたようだし、『担ぎし者』同士の紬が相手なら呪いについてあまり考える必要が無い。なにより同じ意志を継いだ彼女とならどんな運命も一緒に破って行けると信じられる。
「そっか……えへへ。なんか頬が緩んじゃうね」
アーサーの返答に安心したのか、ふにゃふにゃとだらしないくらいの笑みを浮かべる紬はとても幸せそうで、自分の返答に間違いは無かったのだと自信が持てた。
そして一度会話が始まると、最初の硬さはどこかに消えていた。
「そういえば一つだけ解けない謎があったんだ。『回路』をどうやって解いたんだ?」
「あー……それはね、向こうでアーサーくんと別れた後、魔力を空になるまで使った事があって。その時に切れたの」
「そうか……『魔力掌握』で掌握するのは魔力だけだから、使い切れば解けるのか……知らなかった」
「うん。みんなに隠れてすっごい泣いた記憶があるよ。あの繋がりがアーサーくんとの間に残された絆だと思ってたから。……あたしにとっての三年前、アーサーくんと別れて意図的に『回路』を切った時もちょっと泣いた。これでもう二度と、アーサーくんと会えないと思ってたから……」
「紬……」
それはほとんど衝動的な行動だった。
アーサーは紬の前まで移動すると、すぐに彼女の体を抱き寄せた。
「えっ、ちょ……なに!?」
「辛い時は抱き締めて欲しいって言ってただろ? その時は傍にいられなかったけど、今ならいつでも出来るから」
「ぁ……」
アーサーの体感では一ヶ月前くらいだが、紬にとっては一〇〇年前の約束。
でも彼女は覚えていた。たとえどれだけ時間が経とうと、彼女はあの一ヶ月の事だけは決して忘れていなかった。カケルやアーサーの言動を全て覚えていた。
「アーサーくん……」
最初はビックリしていた紬も、すぐに体を力を抜いてアーサーの背中に手を回した。
例え辛くなくても、ただそうしたいと思うだけで抱き合える。今の二人の関係はもう、そういうものになっていた。
「あたし……あたしね? ずっと今のアーサーくんに会ったら言いたい事があったんだ。聞いてくれる……?」
「ああ」
腕の中で顔を上げた紬と視線がぶつかる。潤んだ瞳の奥まで見え、息づかいもハッキリと聞こえて来る。どちらのものか分からない早鐘を打つような鼓動だけが確かに感じられた。
その不思議と温かい空気の中で紬は救い唇をゆっくりと開いて、
「あたしはあなたが好き。ずっとずっと大好きだった。この無限に広がる『多元宇宙』の中で、あなたの事を一番愛してる……っ」
「ありがとう……すっごい嬉しい。俺も、紬の事が好きだよ」
そしてどちらからともなく顔を近づけて唇を重ねた。
優しく触れ合わせる軽いキスで、心に言葉に出来ない幸福感が満ちていく。
「……一つだけお願いがあるんだけど良い?」
「ああ、勿論」
「内容も聞かずに即答して大丈夫?」
「紬のお願いなら大丈夫」
信用一〇〇パーセントの返答に紬はふふっと嬉しそうに笑う。
「じゃあ遠慮無く。二人きりの時は『アリス』って呼んで欲しい。あたしの一番最初の名前で、一番初めに大切な人に呼んで貰った名前だから」
それはとても簡単で可愛らしいお願いだった。
今度はアーサーの方が笑みを浮かべて答える。
「ああ。アリス、また会えて良かった」
「うん。あたしも」
新たな約束を交わして、二人はもう一度キスをした。今度は互いの存在をより近くに感じるように、何度も激しく口づけを交わす。
数十秒か、あるいは数分か。肩で息をしながら唇を離すと、恍惚とした表情の紬はアーサーの首に腕を回して抱き着き耳元で囁く。
「……ねえ、アーサーくん。『魔族領』で会った日の夜を覚えてる?」
忘れる訳がない。
思えばあれは紬なりのテストだったのだろう。紬にとっては一〇〇年前、アーサーにとっては少し未来、その時と同じ反応を返すのか。アーサー・レンフィールドという少年が自分が知っているように信頼に足る人物なのか、それを確かめたかったに違いない。
「あの時、アーサーくんは拒んだけど……もしも今、あの時と同じように迫ったら受け入れてくれる?」
「っ……アリス……」
「愛してるよ……アーサーくん」
愛の言葉を囁きながら再びアリスの顔が近づいてきた。
今回はどこにも拒む理由は無かった。むしろアーサーの方からも背中を抱き寄せて、二人の影は一つになり背後のベッドに倒れて行った。
……。
…………。
………………。
……………………。
…………………………。
日の光が差し込まない地下なので体内時計で正確な時間は分からないが、そこは経験則で朝方だろうと判断できる時間帯に紬は目を覚ました。傍らにはピタリとくっ付いた愛しい人の姿がある。彼の寝顔を眺めながら、紬は言葉にできない幸福感を感じていた。
(……『ブラッドプリズン』に囚われてから初めて、心の底から安心して眠れた気がするよ……アーサーくんが一緒だからかな?)
そうに違いない、と自分で断定して少し可笑しくなり、アーサーを起こさないように小さく笑った。
(……やっぱり、アーサーくんは思ってた通りの人だったよ)
『魔族領』でも彼にそう言った。あの時は半分しか言わなかったが、それはローグから聞いていたからではなく、アーサー自身に聞いていたからだ。
嘘で塗り固めた経歴しか話さず、きっとどこかで引っ掛かりを覚えていたはずなのに、彼はそれでも仲間として迎え入れてくれた。未来の彼自身が言っていたように、みんなが支えてくれた。
(あたしはね、きっとそれが『担ぎし者』なんだと思うよ)
自分達が大いなる運命を担ぎ、仲間達がその体を支えてくれる。
この一〇〇年の道のりで彼女はそう答えを得た。そしてアーサーも無意識にその事を自覚して戦っている。
(……だから、アーサーくんは凄いよ)
何度も傷ついて、何度も躓いて、何度も失って。時には立ち止まって、苦しんで、それでも最後には立ち上がって今もここにいる。紬のように心構えをする時間もなく、突然この道に叩き込まれたのに逃げずに立ち向かって来た。
自分達のような人間が、どこか頭のネジが外れているのだろうという自覚はある。だけど同じ道を歩いて来たからこそ、彼の事を凄いと思う。
「……愛してるよ、アーサーくん」
眠っているアーサーの頬に唇を当てて、彼の体に身を寄せて瞳を閉じる。
寝る訳ではないが、もう少しだけこの時間を味わいたいという、少しばかりの我儘だった。
ありがとうございます。
という訳でアーサーと結ばれた二人目のヒロインは紬でした。この一九章には今までの多くの伏線を集約していますが、ようやく一つの区切りを迎えた気分です。
次回は行間を挟み、その後から最終決戦へと入って行きます。
長かった一九章も最終局面です。