430 世界を憂い、無を望む
数日前。『キャンサー帝国』から逃れたスノーの前に現れたのは、細長い布袋を持った『シークレット・ディッパーズ』の穂鷹紬だった。最初は警戒していたものの、神妙な面持ちの彼女に圧されてとりあえず話を聞く事にしたのが始まりだった。
そして聞かされた。『ノアシリーズ』という集団の事。何もしなければ数日後には世界が崩壊するという事。そして自分がアイネと同じように別の『ユニバース』出身で、人間ではなく吸血種だという事。穂鷹紬としての立場以外に、アリア=N=イラストリアスという『ノアシリーズ』の顔も持つという事。そして首魁であるヴェールヌイ=N=デカブリストの暗殺を考えており、その為に常人離れした膂力を持つ獣人である自分の力を借りたいという事。
話の間一度も嘘の気配は感じなかった。他の獣人達がいる世界を守るという理由。そして自分と同じ人間とは違う種族という共通点に思う所があり、彼女に協力する事を決めた。
スノーの役割はトドメの一撃だった。
その為に渡された妖刀『紅桜』は、刀を抜いている間あらゆる『力』の使用を禁じる代わりに、持ち主の膂力を何倍にも引き上げ、その膂力に応じた威力を発揮するという獣人のスノーにピッタリの刀だった。ずっと昔から獣人の事は聞いていたからという話に関しては理解できなかったが、彼女達の策は良いと判断して決行した。
キャラルが同調を妨害し、アリアとイリスとジュディが『無間』を削り、急遽加入したメアが体を拘束し、スノーがトドメの一撃を繰り出す。
全てはこの一刀の為に。
順調過ぎるほど順調だった。桜色の妖刀がヴェールヌイの喉元に迫り、確実に振り抜いた。
しかし手元に返って来たのは人体を斬り裂く感触ではなく、まるで空を斬ったような抵抗感の無さだった。単に切れ味が鋭すぎたというだけでは説明ができない手応えの無い感触。答えはヴェールヌイの首元にあった。
スノーが振るった刀の軌跡に虚空に繋がる『次元門』が細長く展開されていたのだ。つまりスノーが振り抜いたのはヴェールヌイの首筋ではなく、その虚空だ。
「―――素直に称賛しましょう。お前達の研鑽は、確かに私の首元に迫った」
作戦失敗。
その四文字がアリアとその協力者である六人の脳裏に過った瞬間、全員が動いていた。
「閃ノ型、七連―――『天桜烈華』!!」
アリアが一瞬で七つの斬撃を叩き込んでいる隙にイリスとジュディとスノーはヴェールヌイから離れ、メアは『集束魔力供給弾』を使ってワイヤーに熱を与えていく。
「『紅蓮界断―――ッ」
「無駄です―――『天散』」
言うなればそれは彼女の体を中心とした全方位への『天弾』。彼女を拘束していたワイヤーとアリア、さらにキャラルの体が不可視の力に吹き飛ばされる。
圧倒的なまでの戦力。しかも彼女には慢心が無い。上空から突然降り注いだ複数のエネルギー弾も難なく『無間』で防いでみせる。
「当然、お前もそちら側なのは看破していますよ、ソーマ=N=ベレロフォン」
「げっ……やっぱバレてる」
少し離れた位置にいるブロンドの髪に洋紅色の瞳を持つ青年は、掌にエネルギーのキューブを構えて苦笑いを浮かべていた。
「反乱の動きを悟らせていないという時点で結界を使えるお前の関与を疑わない理由はありません。ただ意外ではありました。お前は少なくとも、この世界の人間を良くは思っていないと思っていましたから」
「……まあ、嫌いってのは間違いじゃない。お前も知っての通り、俺は異邦人タイプの『ノアシリーズ』で、別の『ユニバース』からも集められて少なからず仲良くなったヤツや、袖振り合った程度のヤツも、色んなヤツらが勝手な理由で殺されたのを覚えてる。だからお前と同じようにこの世界を嫌ってる」
「なるほど。でしたら何故?」
「簡単な話だ。俺は元の世界でも仲良くしてたヤツらがいる。それに俺達に酷い仕打ちをした悪人がいるように、弱者に手を伸ばすような善人だってこの世界にはいた。俺はそういう人達を見限れなかった。だからお前やヒビキには賛同できない。俺はこっち側につく」
「ええ、構いません。むしろここまでの働きを称えましょう。『バアル』が手に入った以上、すでに隠れている段階は終わりました。お前達にも平等な死を与えましょう」
「……あたしがそんな事させない」
ゆっくりと立ち上がったアリアは言葉を吐き出すと、床に転がった『逢魔の剣』の柄を踏んで上に弾くと手に握って構える。
「イリス、ジュディ、メア。まだやれる?」
「当然だ」
「勿論」
「私達は吹き飛ばされてないしね」
「おっけー。スノーとキャラルも大丈夫?」
「……まだやれる」
「うん……まだまだ」
「ちなみになんで俺だけ安全確認無しなんだ? えっ、影ながら支え続けてたせいで存在感無くなってるの!?」
「ソーマは見るからに大丈夫そうだから。それより集中して。作戦が失敗した以上、なんとか押し切るしかない」
構図としては七対一。
しかしヴェールヌイの焦りなどの気配はなく、ただただ当たり前のように小さな溜め息をつくとアリアの方に視線を向けた。
「こんな世界を守って何になると言うんですか? お前も見て来たはず。この世界が内包する残虐性と理不尽の数々を。そして世界というシステムはお前のような他者を思いやれる良い人間は搾取され、自分の事のみを考えて他者から搾取するだけの悪い人間が得をするように出来ているという事を。私にはそれがどうしても許し難いんです」
「だから『無限の世界』全部を道連れに死のうって? そんな無理心中は御免被りたいにゃ」
結局のところ、どうあっても価値観が違うのだ。全く違う人生を歩んできた者達では、世界の見方が違う。
アリアだって世界の『暗部』を嫌というほど見てきた。それでも救う側に立っているのは、ソーマが言っていたように救うべき者達の存在を知っていたからだ。だからもし『彼ら』と会わなければ、きっと自分もヴェールヌイのようになっていたのだろうと思う。少なからず彼女に賛同する者がいるのが良い証拠だ。
だから彼女は決して珍しい部類の人間ではない。ただ全てに恵まれず、この方法しかないと答えを得てしまっただけのありふれた人間の内の一人だ。
「では仕方ありませんね」
はあ、と呆れの色が見える溜め息を吐くと彼女の全身から紫色の妖しいオーラが放たれる。それは人一人が放てる量とは思えず、この世のものとは思えない圧迫感があった。
「僅かとは言え『バアル』と同調した恩恵ですよ―――『天圧』」
瞬間、七人は上から凄まじい圧力によって床に叩きつけられた。指一本動かすのすら難しいほどの力で抑えつけられ、一瞬にして制圧されてしまう。前は人に対して全方位から押し潰すように使っていたが、今回は床の平面全体を中心として定めているのだろう。無茶苦茶な力だが、『バアル』の力の一部を使っているとなると納得だ。
「くっ……『プランD』だ!!」
「ッ……ダメ!!」
重圧に耐えながらソーマが叫ぶと、アリアはすぐに反対した。しかしその制止に構わず『四次元立方体』を発動させると、特殊な効果を付与した弾丸を一番近くにいたキャラルに向かって撃った。
元々、プランDはソーマが提案してアリアが却下した案だ。内容はシンプルで緊急時に味方を『ディッパーズ』への救援に走らせようとする諦めにも似た策。しかしソーマは現状、それしか手は無いと判断して一番近くにいたキャラルに転移の効果を付与した弾丸を撃ったのだ。
すぐにキャラルは消えたが問題は何も変わっていない。アリアは頭を切り替えて左手で『逢魔の剣』の刃を握って手を斬ると、強い力で握って血を噴き出した。そして流れ出た血液自体が増えているとしか思えないほどの勢いで辺りの床一面に広がって行くと、開いた左手を床に叩きつける。すると広がった血が空中へと昇って行き、自分達やヴェールヌイをドーム状に覆って行く。
それは呪術における二つの奥義の内の一つ。大量の呪力を消費するが、一定の空間を自身の呪力で内外を断絶した結界で覆う技。
「『呪滅結界』―――『蕪穢環流紅血苑地』」
自らの心象風景を具現化する結界術の秘奥。『絶対領域』として結界内の空間の主導権を獲得した事で、圧力から脱却したアリア達は立ち上がる。
ここに至ってもヴェールヌイは余裕そうだった。むしろ六人の方の表情が険しい。
「一対六に、私には不利な結界内。丁度良いハンデですが、確実性に欠けるのは好みません」
ヴェールヌイが話している間もアリアは彼女の足元の血を操って攻撃する。しかしそれも当然のように『無間』で防がれた。
しかもそれだけではない。今度はヴェールヌイの魔力とエネルギーがアリアの結界を浸食するように広がって行く。
「『断開結界』―――『世界を憂い、無を望む』」
目には目を、歯には歯を、結界には結界を。
少しだけ拮抗したが、すぐにヴェールヌイの結界がアリアの結界を浸食し、完全なる闇の空間に変わってしまう。アリアの主観ではただただ暗い空間。前後左右上下の感覚すら忘れる闇。そして特別な点は近くにいた仲間達の気配が消えている事。そして『力』による感知もできないという事。
ヴェールヌイの結界の能力だろう。内にいる者には強制的にそのルールが適応される。おそらく『力』を封じた上で、あらゆる感覚器官が使い物にならなくなっている。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そして野性的な第六感すらだ。
おそらく結界術に関しての練度はほぼ同等。いいや、おそらくアリアの方が勝っていたはずだ。
それなのに打ち負けた理由は三つ。一つは『バアル』の力がプラスされていたという点。もう一つは圧倒的なまでの意志の違いだ。ただ圧力から逃れたい、相手を閉じ込めて戦いたいという思いと、何が何でも目的を完遂するという思い。そして最後に、胸の中心にずっとある、嘘をつき続けた仲間達への罪悪感。
目的を果たす為の圧倒的なまでの飢え。
アリアにもそれが足りなかった。
(……こんなものなの?)
あらゆる感覚を失っているアリアは自分では気付いていないが、その頬には涙が流れていた。
それは、この無の世界が怖くて流れた訳ではない。
一定空間を自身が有利になる絶対領域として心象風景を具現化させた結界を展開する結界術は高度な分、能力の全てを自由に決められる訳ではない。その能力や結界の風景は、使用者の心にも大きく依存する。それは正に心象世界を表に出すと言っても過言ではないからだ。
例えばアーサーの『夢幻の星屑』は、停滞から立ち直ったあの草原の風景が大きく影響している。アリアの『蕪穢環流紅血苑地』は彼女の呪術である血液が大きく関係している。
だから、
(こんな何も無い、何も感じない、他との関係を完全に絶った孤独で無のこれがっ、ヴェールヌイの心象世界だっていうの……!?)
それは意図せず、かつてどこかの上級魔族の結界に閉じ込められたどこかの馬鹿と同じような感想。
心象世界に閉じ込めるということは、言い換えれば心の内を晒すということ。だからそれがあまりにも悲しくて、敵対している相手だというのに感覚を無くしているアリアは涙が出るのを止められなかった。
直後にアリアは意識を失った。ヴェールヌイが攻撃し、痛覚もないアリア達は何にも気づかず昏倒したのだ。
ヴェールヌイだけは相手の位置が見えており『力』も使える。それがこの結界の能力。完全なる孤独と無を欲しているのに、彼女だけがそうはなれない。その皮肉が滅多に使わない理由だ。
彼女が結界を解くと、そこにはボロボロで倒れた六人の体があるだけだった。
「……まったく、敵対者に同情など甘すぎですよ」
だから嫌なのだ、と。
ヴェールヌイの独り言は誰にも届かず宙に溶けて消えて行った。