392 最終形態
アーサー・レンフィールドは笑っていた。ユリに初めて名前を呼ばれて、少しだけでも認められた気持ちになって、それが表情として現れていた。
正直、ヘルトには悪い事をしたと思っている。ユリ達が出てきてすぐに、ヘルトを守っていたアーサーは優先順位を切り替えて持ち場を離れた。裏を返せばヘルトなら何とかするだろうという信頼もあったのだが、結果的に二人でやっていた作業を一人でする事になったヘルトは片手を前に出して獣人達の頭上と自分の正面に魔力障壁を展開していた。おそらく長くはもたないだろう。
「ソラ! 速度と攻撃力を強化!!」
「はいっ! 『移動力上昇』と『攻撃力上昇』を『付与』します!!」
二種の強化魔術によって地面を蹴ったアーサーの速度が爆発的に上がった。迎撃の為に全身から飛ばして来た骨の杭を躱しつつ、虎爪の構えを取った右手に意識を集中させる。クピディタースの懐に飛び込むと、左足を踏み込んでブレーキをかけると同時に体を捻ってエネルギーを全て右手に流していく。それと同時に全身の魔力もインパクトの瞬間に合わせて右手に流す。
「『珂流』―――『象掌底砲』ッ!!」
ドッッッ!!!!!! という衝撃がクピディタースの胸の中心で弾け、内部まで浸透する一撃はその体を吹き飛ばしてく。未だ成功率一〇〇パーセントとはいかないが、一撃の威力を高める『珂流』も成功した。彼の位置がズレた事で獣人達やヘルトを襲っていた骨の棒も彼らから離れて九死に一生を得る。
けれど安堵できたのも一瞬だけだった。最初、クピディタースは攻撃を受けた胸を押さえているのだと思っていた。だがよく見ると腕を交差させているのを見て血の気が引いた。それは地下でも食らった不可視の衝撃波を放つポーズだったからだ。
そして、気付いた時にはもう遅かった。クピディタースが交差させた両腕を開くと同時に、彼を中心として凄まじい威力の衝撃波が全方位に広がって行く。所々に射出された骨の杭が混じっていて殺傷能力は先刻よりも遥かに上がっているのが分かる。
衝撃波は不可視だが、抉れていく地面でどういった広がり方をしているのかは分かる。今から盾を展開する時間は残されていない。出来るのは魔力と呪力で全身を保護する事くらいだ。
「ソラ……!!」
『―――「防御力上昇」!!』
全身に魔力を纏って身を守る『蜜穴熊装甲』。『阿修羅』による全身の強化と保護。そしてソラの魔力による防御力の上昇。
三つの力を重ね、アーサーは広がり続ける衝撃波に開いた両手を押し付けた。掌に灼けるような激痛が広がり、どんなに力を込めても足が後ろに下がって行く。
直後に耳をつんざくような絶叫があった。
それが自分の口から放たれていると遅れて気づいた。
(がっ、ぐッ……お、れが抑え込まないと、この衝撃波がみんなを襲う!! だから耐えろ、耐えろっ、耐えろォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!)
「おおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!」
バアァァァッッッン!!!!!! と。
何かが弾けるような爆音が轟いた。
みんなを守れたのか、守れなかったのか。
自分はまだ動けるか、それとも瀕死なのか。
何も分からない。脳がシェイクされたような感覚で理解が及ばない。
「―――っ」
最初に感覚を取り戻したのは聴覚だった。何かを叫んでいる声が聞こえて来る。
次に痛覚が戻って来た。全身が懇切丁寧に痛みを訴えかけて来る。
「―――きて! 目を開けてっ!!」
「ッ……」
ユリの叫び声に反応して目蓋を上げた。
最初に視界に飛び込んで来たのは、抉られた地面と半壊した建物。そして爆心地の中央に立っているクピディタースだ。
自分の体はユリやアリウム、アイネが支えてくれていた。灼けて皮膚が爛れた両手は『阿修羅』とソラの魔術によって治癒がほとんど終わっている。それだけの時間は気絶していたという事だ。
一番気掛かりな背後を確かめるのが怖かった。それでも勇気を振り絞って恐る恐る振り返ると、そこには最低な光景が広がっていた。
アーサーが受け止めた事で、衝撃波の威力はある程度カットされていた。ヘルトが魔力障壁を張っていたから、甚大な被害は出ていない。
けれど全員は守り切れなかった。衝撃の余波で倒れているだけの者もいれば、運悪く骨の杭が突き刺さっていて瀕死の者もいる。状況を考えれば今すぐ逃げ出す者がいてもおかしくない状況なのに、あまりの悲惨さから誰も動こうとしていなかった。
「ヒーローは大変だな、アーサー・レンフィールド。お前の背後には弱みがいっぱいだ」
それを引き起こした男はくつくつと嗤いながら楽しそうに言った。
彼にとってはその程度。どれだけの命を奪おうと、最終的に自分が笑っていればそれで良いという人間の感性。
それがアーサー達には理解できない。例え自分の命が尽きようと、最終的にみんなが笑っていれば良いと思う人間には。
「……違う。背後にあるのは俺の戦うべき理由だ……っ」
だからこそ回復が済んでいない体を動かし、今一度みんなを庇うように先頭で立ち上がる。
「虚勢はいくら吐こうと自由だ。だが獣人の命は俺のものだ。これ以上、食事の邪魔をするな」
「みんなの命はみんなのものだ! これ以上、一人だってお前に殺させてたまるか!!」
叫ぶと同時に切り札である『最奥の希望をその身に宿して』を発動させたアーサーは、左手で右拳を包み込むように持って腰ダメに構えると姿勢を低くする。そして四肢に纏う『無限』の魔力を注ぎ込んで威力を制限なく引き上げて行く。
「ヘルト! ヤツを一撃で吹き飛ばす、時間を稼いでくれ!!」
「また無理難題を……」
こちらも当然無事だったヘルト。溜め息を溢しつつ、アーサーの要請に応える為に思考を放棄した。
この世界での自分の力だけでは敵わない。だから前の世界の自分のやり方にシフトする。
怒りと平常心の間。
理性と野生の中間。
善と悪の狭間。
自らの全てをコントロールして、その絶妙な空間に落とし込む。絶対零度よりも冷めた頭は視界をクリアに。抑えきれない熱い衝動は限界を超えて体を動かす。
それは脱走術と同じように、ヘルトがただの人間の頃から使えた技。訓練を積んだ訳ではなく、地獄のような環境下で身に着けた心の平静を保つ為の技術。その副産物として反射速度を人間の限界まで引き上げられる。そこへ今の常人を超えた身体能力が合わさる事で、ヘルトの思考と体の動きのラグは限りなくゼロへと近づく。
そして無駄な動きも筋肉の予備動作もない、予測不能の一撃が放たれる。魔力を纏わせた剣を下から斜めに斬り上げると、魔力の斬撃が超高速で飛んで行く。
万物を斬る特性が備わった飛ぶ斬撃。今まで一度もやった事は無いが、出来ると感じた時には動作は終わっていた。技の発動から終わりまで一切無駄の無い動きで放たれたそれは、クピディタースの体を当然のように斬り裂いた。
だが効かない。斜めに斬って二つに分かれたアンソニーの体の断面から大量の血管が飛び出して来たかと思うと、それが絡み合って瞬く間に再生して元通りになる。
しかし今のヘルトには驚くという感情が無かった。張り付いたような無表情のまま、床を蹴ると一瞬で移動してアンソニーの脇腹を斬り裂く。それと並行して大量の魔法陣を展開し、その全てから集束魔力砲を放つ。さらに同時に片手を握る動作をすると、集束魔力の爆発が一瞬で凍り付いた。
獣人を超えた感覚ですら追いつかない速度。それはただ単に速いだけではなく、次の攻撃への予備動作がほとんど無いのだ。
けれど同時に代償もあった。前の世界で使っていた時は使用後に全身の節々が痛み、疲労と共に凄まじい筋肉痛に苦しむ程度だったが、今は全身の所々が切れて出血していたのだ。上昇した身体能力に合わせて動作をさらに早くした結果、限界を超越した動きになっているのだろう。しかし今のヘルトには痛覚すら遠い。それにダメージが大きくても回復能力も前の世界とは比べ物にならないので、わざわざ考慮する必要がなかったというもの一因になっていた。
(もう時間切れか……久々に使うし長続きしないな)
そして欠点その二。
言ってしまえばアスリートが体感するゾーンの状態に自らの意志で入るようなもので、つまりはリミッターを外したまま戦っていた状況。そんなのが長時間もつ訳がない。普通の状態に戻ると大量の汗が一気に吹き出して息が乱れる。
「っ……まだなのか!?」
「もう少し……限界まで力を溜める時間をくれ!!」
ちらりと確認すると絶大な魔力が彼の右手に集まっているのが分かる。そして同時にまだ足りないと。これで倒せるなら、先程やった前後からの集束魔力砲で倒せていたはずだ。
しかし時間が足りない。集束魔力砲の爆発を凍らせて動きを封じたが、それも長くはもたない。徐々にき裂が走っているのが分かる。
「……仕方ない。プラン変更だ。彼を拘束して動きを止めて時間を稼ぐ。きみの仲間の力を借りるぞ」
そう言ってヘルトは手を前に出すと透夜の魔術を使う。本人以上の数の魔法陣を展開させると大量の鎖でアンソニーの体をグルグル巻きにして拘束した。これだけでも体を刺激して強くしているのは分かっているが、そもそも時間経過でも少しずつ強くなっているし、無闇に攻撃するよりはマシだ。
しかしグルグル巻きにした鎖が次々と千切られていく感触があった。さらに一歩ずつ、彼の足がアーサーの方へと向かっている。攻撃の準備で動けない彼がやられれば全て終わりだ。
ヘルトの表情が歪む中、さらに二つの鎖がアンソニーの後方から伸びて来て拘束に加わる。
「少し遅れたけど、何とか間に合ったみたいだね。……っていうか、僕の魔術を使うなら許可は僕に取るのが筋じゃないか?」
冗談めかした言葉の主は透夜だった。彼の両手首には漆黒の腕輪が巻かれており、そこから一本ずつ鎖が飛び出していた。
それは『獣人血清』を打った事で発現した、音無透夜の新しい魔術。その名は『天鎖繋縛』。無限に伸び、かつ五つの特別な力を備えた鎖の『無』の魔術だ。
「ぐっ……『封力』の力で魔力を封じてるのに、純粋な膂力だけでこれなのか!?」
ヘルトと透夜、常人以上の力を持つ者と獣人以上の力持つ者。その二人が全力で動きを封じようとしても、そんなものに構わずクピディタースはアーサーに向かって前進を続ける。それは透夜がいつもの魔術でヘルトと同じように大量の鎖を投入しても変わらない。
しかし、そんなクピディタースの正面にミサイルのように誰かが突っ込んで今度こそ動きを止めた。
その少年、クラーク・ウォードはアンソニー・ウォード=キャンサーであった何者かと目を合わせる。お互いに人間の身から離れて初めて、おそらく生まれて初めて真正面から。
「クラーク……っ! 貴様、どこまでも邪魔を……ッ!!」
「僕はあんたを殺してでも止める!! 謝るつもりも、悪びれるつもりも無い! ただ獣人達をっ、僕自身の家族を護る為にッ!!」
鎖による二重の拘束、魔力を封じる力、そして人間を超えたクラークの押し込み。そこまでやってようやくクピディタースの行進が止まる。
「早くしろ、アーサー・レンフィールド!!」
「それで決めろ!!」
「頼む、クソ親父を止めてくれ!!」
三人からの言葉に返答する余裕が今のアーサーには無かった。
レミニアと繋がった回路から『無限』の無尽蔵の魔力を引き出し続け、かつその全てを右の拳の一点に集束させている現状で、少しでも意識を逸らしたら即座に暴発する予感があったからだ。
その限界のラインを見極めて、アーサーは拘束されたアンソニーに向かって走った。その瞬間、何より危険を感じた三人はアンソニーから離れた。それをしっかりと確認してから、アーサーは『珂流』も相まって尋常じゃない魔力を放つ拳を突き出す。
「―――『古代熊王天衝拳・極限砲火』ッッッ!!!!!!」
ドッッッ!!!!!! と。
拳が衝突した直後、アーサーの正面が魔力の爆発による光で見えなくなった。集束した魔力を放つのとは違い、その攻撃範囲は拳にしかないはずなのに、その余波だけで普通の集束魔力砲の威力を遥かに超えていた。
凄まじい爆音と衝撃が避けたはずの三人にも襲い掛かる。それをまともに食らったアンソニーがどうなるのかなんて、彼らの想像は一つしかなかった。実際アーサーも確かな手応えを感じていて、これで勝負が終わると思っていた。
けれど直後、それが間違いだという事を理解した。
まず気づいたのは一番近くにおり、かつ鋭敏な戦闘勘を持つアーサー。次にヘルトも異変に気付き、『獣人血清』により五感が鋭くなっている透夜とクラークも遅れて気づいた。
「あれが……さっきまでのと同じ、クピディタース?」
ヘルトが驚愕の声を漏らすのは無理もない。彼の姿形が明らかに変わっているのだ。
筋骨隆々で身長は四メートル近くある。服と体毛は無くなり、全身は真っ黒に変色していて骨がまるで鎧のように全身を包み込んでいる。頭部も頭蓋骨が全て露出しているようで、ヤギの角のような折れ曲がっている鋭い骨が伸びており、眼光は鋭く赤い輝きを放っている。まるで黒い全身鎧を纏った騎士のような風貌だ。
もはや彼が普通の人間だとは誰も思わないだろう。そして強力な一撃を食らっての変異で、その戦闘力がどこまで上がったのかは計り知れない。
「……礼を言う」
最初、その声がどこから放たれたのか分からなかった。
地の底のように低く、ドス黒い威圧を覚える声。それは異形の怪物と化したクピディタースの口から放たれたものだった。
四人は呼吸が浅くなっているのを感じていた。空気を吸っているのに肺に降りて行かない感覚。クピディタースが生物として人間や獣人より高位の存在になってしまった事が直感的に分かってしまったのだ。
そして直後、クピディタースの姿が消えた。というよりはアーサー達の傍にまるで瞬間移動したように移動していたのだ。
(体が……動かないっ)
近くにその存在を感じると濃密な死の気配を覚える。
クピディタースが傍を通って行くのに指の一本も動かせない。それはアーサー以外の他の三人も同じようだった。
(馬鹿か俺は!? こんな所で怖気づいてる暇なんか無いだろ! 恐怖を受け入れて、それでも前を向いて戦え!! まだ戦うんだよ、馬鹿野郎ォ!!)
歯が軋むほど食いしばり、目に燃えるような痛みが走る。
そこまでやってようやく小刻みに震えるだけだった体の一部、右手を手刀の形に構えられた。さらに『紅蓮の焔』とありったけの魔力を集めて行く。
(動け……動けッ、動けェェェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!)
「あああああああああああああああああああっっっ!!!!!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫を放ち、ようやくアーサーは体を自由を取り戻した。そしてクピディタースの脇腹に『紅蓮の焔』を纏った手刀『紅蓮刺突剣』を突き刺す。さらにアーサーより僅かに早く自由を取り戻したヘルトも『万物両断』の力を持つ剣で背中に斬りかかった。
その二つの攻撃をクピディタースは何もせずに受け止めた。しかしアーサーの手刀が少しも突き刺さらないどころか、ヘルトの『万物両断』の剣も皮膚一枚切れていなかった。
「もうお前達に用は無い」
腕を交差する素振りもなく不可視の衝撃波を放ったクピディタースによって二人は吹き飛ばされた。そこには彼の体から放たれた殺傷力をより増した骨の剣が無数に混じっていた。
ヘルトの『万物両断』の力が効かなかったのは、遂にクピディタースが強力な魔力障壁を使い始めたからだ。これで必傷だったヘルトの攻撃も通じなくなってしまった。
もしもの話だが、ヘルトよりも先にアーサーが自由を取り戻し、普通の右手で攻撃していれば結果は違ったかもしれない。今のクピディタースの魔力だと確実とは言えない上に致命傷を与えられると断言もできないが、アーサーの右手で障壁を無効化し、ヘルトの剣で斬り裂けたかもしれない。その最後かもしれない機会を逃してしまった。
もうアーサーにも、ヘルトにも、透夜にも、クラークにもどうしようもなかった。今度こそ誰も衝撃波を防げず、さらに威力が増した破壊が撒き散らされる。