391 分からない事だらけの世界
骨の棒に貫かれたアイネを追って閉じかけのポータルを抜けたユリとアリウムが見たのは、まさに地獄のような光景だった。
先に避難していた獣人達の頭上は数え切れない量の回転する骨の棒で埋め尽くされており、幸いなのは障壁で落ちて来るのを防がれている事くらいか。
とにかくユリは今も引っ張られているアイネを追い、アリウムもその後を走って付いて行く。その方向にいるのは四つん這いの姿勢で背中から大量の骨を吐き出している異形の化物だ。その姿形もそうだが、心に直接訴えかけて来る別の恐怖がある。生物として敵わないと本能が告げているのだ。
唇を噛み切って理性を保ち、全身から青い稲妻をスパークさせながら駆ける。
引き寄せられながら肩口から骨の棒を抜かれたアイネは、ゴロゴロと地面を転がってクピディタースの前で止まった。彼女は傷口を手で押さえながら顔を上げると、彼の変わり果てた姿に戦慄としていた。
「アイネ・ブライト……純血のお前を取り込めば、俺はより一層高みへ上がれそうだ」
「これが私の選んだ結果か……私達、どこで道を踏み外したんだろうね」
「いいや、これが正しい道だ」
そう言って右手だけ地面から離したクピディタースは、アイネを取り込むべく胸の中心に向かって突き出した。
決定的に命を奪い取る攻撃を前に、アイネが取った行動は誰にも理解できないものだった。恐怖に体を縮ませる訳でもなく、逃げる為に体を動かすのでもなく、それを受け入れるように両手を開いたのだ。
結局、その攻撃を防いだのはユリだった。全力で稲妻を放ってクピディタースの腕を弾くと、アイネの前に飛び出て大きく口を開く。そして耳をつんざくような声を上げると『音』の衝撃波がクピディタースを吹き飛ばした。
「……ふざけんじゃ、ないわよ……ッ」
振り返ったユリは、今し方自分が助けたアイネに対して怒りの形相を向けると胸倉を掴んで叫ぶ。
「勝手に人を生み出しておいて、勝手に死のうとしてんじゃないわよ!! 生きて義務を果たしなさい! こんな所で命を捨てるなんて私が許さないッ!!」
「ユリ……ごめん」
「……謝罪なんていらないわ。ほら、さっさと逃げるわよ」
ユリと一緒に付いて来たアリウムは両手をアイネの肩にかざす。すると魔力の光が傷口を癒していく。この場で完治するまでじっとしている訳にもいかないので、治療と移動を同時並行で行う為にユリはクピディタースを警戒し、アイネとアリウムが後ろに下がって行く。
そう、ユリは間違いなく警戒していた。獣人の感覚の全てを用いて、どんな攻撃が来ても必ず対処できるように。
だというのに、体を一ミリも動かせなかった。無数に伸びて来た回転する骨の棒は先程よりも速い速度で飛んで来た。
(あ……マズい、これは死んだ……)
獣人の直感が告げていた。
それは考えるよりも確実な真実だった。
◇◇◇◇◇◇◇
……本音を言うなら、少し憧れていた。
クラークは人間なのに、獣人であるアイリスと互いに想い合っていて、シオンとも互いに信頼し合っていて友人といっても過言ではないだろう。
しかし、自分だけは違った。
『反乱軍』を組織する理由は理解できる。クラークが獣人に肩入れする理由にも納得している。それにみんなをこの牢獄から解放する事に相違は無い。
けれど、ユリは人間が嫌いだ。自分達を勝手な都合で生み出し、道具のように使い捨てる彼らを好きになんてなれない。種族全体の事ではなく、個人の利益を優先する事に重きを置いている人間という種を軽蔑すらしている。
その中でも例外中の例外として、獣人であるアイリスを想い、自身の父親と対立してでも『反乱軍』として活動しているクラークの事は信用している。けれど信頼はしていない。常に裏切るのではないかと疑いながら接している。
そんな接し方で、本当の信頼関係を築ける訳がない。
分かっていたが、どうしても変えられなかった。
何故、アイネを助けたのかも分からない。人間と同じくらい憎んでいるはずなのに、命懸けで割り込んだのは何故なのだろう。
分からない、分からない、分からない。
何も分からない。
(ああ……ほんっと、無駄な人生だったわ……)
望んだものは何も手に入らなかった。知りたい事は何も分からなかった。それを仕方ないと思ってしまうのは境遇のせいなのか。それすらもどうでもよく思ってしまう。
そして直後の死を受け入れて、目を閉じた。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
(……?)
しかし、どれだけ待っても痛みがない。それとも即死で痛みが無いだけなのだろうか。
疑問の為に閉じた目を開くと、そこに答えが待っていた。
「……無事か、ユリ?」
「ぇ……」
それは、ユリにとって信じられない光景だった。
それは、最も嫌う人間の後ろ姿だった。
それは、小さな盾を構えた少年だった。
それは、アーサー・レンフィールドという名の人間だった。
「あ、アンタ……どうして……」
「……約束したからな」
「ぁ……」
たったそんな理由で、と訊き返しそうになった。
何故なら彼は『手甲盾剣』の盾で骨の棒を受け止めているものの、防ぎ切れなかった一本が脇腹を貫通していたのだ。しかも貫通した一本も右手で握り締めており、絶対に後ろへは行かせないという狂気じみた覚悟さえ感じた。
確かに、牢屋から出た時にそんな会話はしていた。
『アンタらはもし私が窮地に陥ったら、他の人間相手と同じように私の事を助けるって言うの?』
良い答えなんてこれっぽっちも期待していなかった問いに対して、
『当たり前だろ、そんなの』
アーサーは淀みなくそう答えた。
嘘だと思っていた。
絶対に見捨てると思っていた。
その場限りの戯言だと思っていた。
だけど、違ったのだ。
(本当に守ってくれた……こいつは、アーサーはっ、私を助けてくれた……ッ)
それだけで今までの全てが変わるとは言えない。人間の事は変わらず嫌いだし、信頼に足るとは思えない。
けれど少しだけ解れたのを感じた。約束通り命懸けで自分を助けてくれたアーサー、そして今も大勢の獣人達を死力を尽くして守っているヘルト。彼らの事は、多少なりとも信頼して良いのではないかと。
だけど。
「……でも、だって……私は獣人で、自分達の為なら、アンタ達なんか見捨てるつもりでいたのに……」
そうなって初めて、自分の事を顧みた。
自分の選択を後悔するアイネや、元から心根の優しいアリウム。人間であるクラークに好意を抱くアイリスや、そんな彼らを支えようとするシオン。他にも利用されているだけの獣人達には救いがあるべきだと思う。
でも、自分は違う。
最初の最初の最初から、見捨てるつもりだった。自分達が助かる為に助けに来てくれた人達を使い捨てる事しか考えていなかった。
今更取り繕えない、それが本性。
人間が嫌いで使い捨てようとした。差し伸べられたを素直を握れなかった。そんな自分が、今更彼らに救いを希うなんておこがましい。
「……知ってたよ」
けれどユリの懺悔に、アーサーは背中を向けたまま静かにそう答えた。
「ユリが俺達の事を使い捨てくらいにしか考えてないって事くらい、最初から知ってたよ」
もう訳が分からなかった。
何故自分が使い捨てられるというのが分かっていながら、そこに立っているのか分からない。死にかけても相も変わらず分からない事だらけだが、今回のこれが一番理解できない。
「それが分かってて、どうして私なんかを……」
「どうでも良かったから。ユリが俺達を裏切るなら、それは同族の為だ。その為なら俺は裏切られても良い。それで獣人達が助かるなら、それで良いと思ったんだ。だから俺は迷いなく拳を握れる。お前達に信頼されてなくても、裏切られるとしても、俺はただ戦うだけで良いから。その結末がどんなものであれ、ユリがみんなを助けると信じてるから」
「……、」
ユリは自分が恥ずかしくなって来た。
何となく、アーサーやヘルトは普通の人間とは違うのだろうと思った。それは同じ種族の人間としても生き辛いほどに異質なのだろう。もしかしたら、だからこそ別の種族である者達にも分け隔てなく接する事ができるのかもしれない。
『阿修羅』の自動治癒とソラの治癒魔術で脇腹の傷を治しつつ、アーサーはクピディタースに向かって走った。
「っ……アーサー!!」
彼の足を止めるように声を出したが、その後の言葉が続かない。アイネの事を助けた事といい、人間の名前を叫んだ事といい、やはり自分の感情なのに分からない。
前を走る彼が名前を呼ばれてどんな気持ちなのか、それすらも分からなかった。