390 命を救う為に
ラプラスの救出に向かったアーサーと別れたヘルトは座り込んだまま剣の切っ先を大地に突き刺し、柄に額を押し付ける形で移動せずじっと待っていた。
「……来たか」
僅かな振動が剣を通してヘルトに伝わる。それが敵の襲来の合図だと察したヘルトは顔を上げた。想定以上に待つ事になったが、集中力は全く衰えていない。
壁を蹴るような音を鳴らしながら『奈落』の穴から飛び出して来たのは、クピディタース=キャンサー。やはりあの程度の崩落では死んでいなかった。ヘルトは剣を大地から引き抜いて構える。
「一人か?」
「一人で十分だからね。彼は多忙だ」
「……なるほど、『魔神石』の回収に動いたか。それで? 魔力も使えない状況でお前はどう戦う?」
「五体満足なのが見えないのか? あとはまあ、気合とか根性とか正義の心とか」
「下らん戯言を。そんな些末な感情の違いが命の取り合いを左右すると本気で思っているのか?」
もはや見た目まで人外の男と平然と話している自分の事、そして彼の言い分。その二つに対してヘルトはわざとらしく笑い声を上げて答える。
「勿論―――思ってる訳がないだろう?」
これから殺す相手だから正直に答えられたのかもしれない。
だからこそ容赦はしない。唐突に何の前触れもなく、クピディタースの足元から『黒無想』による無数の黒布が突き出して来たかと思うと、『万物両断』の力で全身を切り刻んだ。それにより左腕と右足が完全に切断される。
「さっきのお返しだ」
もはや隠す必要もないので、ヘルトは黒い呪力の外套をまとう。そして間を置かずに外套から無数の黒布を包帯のような形状で真っ直ぐクピディタースに向けて伸ばす。
魔力以外の超常の攻撃に驚いていたクピディタースだが、すぐに問題を目の前の状況へと移していた。右足を瞬時に再生させると地面を蹴って黒布を躱す。だがヘルトは躱されてすぐに黒布を直角に曲げてクピディタースの後を追い、今度は両足を切断して動きを完全に止めた。さらに好機を逃さず倒れたクピディタースの体を上から突き刺して身動きを完全に封じた。
後は黒布で全身をミイラのようにグルグル巻にすれば完全な拘束。それ以上の進化も動きも封じる事ができる。
「……?」
勝利を確信したその時、視界の端で何かが動いた。
それはヘルト自身が切り落としたクピディタースの手足だった。
その数は手足を合わせて四つ。それら全てが蠢くと、背中に珊瑚のように骨のクレストを生やした二足歩行のトカゲのような不格好な生物になった。
(進化したのか……それも切れ端から生物の精製だって!? 多細胞生物でありながら単細胞生物のような無性生殖で個体数を増やしていくのか!?)
「また俺を強くしてくれたな。こいつらは『パルウム』とでも名付けよう」
ギャアアアアアア!! という甲高い声を上げた四匹の『パルウム』はクピディタースの従属下にあるのか、ヘルトのみを敵と認識して襲い掛かって来る。
舌打ちしながらヘルトは黒布を操って『パルウム』達を両断する。が、想定していた通り体を切断されても『パルウム』は絶命せず、上半身からは下半身、下半身からは上半身が再生する。
(『前の世界』のプラナリアみたいなものだな。それにやっぱり報告にあったヨグ=ソトースと同じか……増殖する能力。生まれた個体は本体を殺せば機能を止めたらしいけど、果たしてこれにも通用するのか……)
考え事をしているとクピディタースの方にも変化があった。彼は『万物両断』の力を持つ黒布を使って積極的に体を傷つけていたのだ。
咄嗟に黒布を引き抜いたが少し遅かった。新たに切り離されたクピディタースの肉片から『パルウム』が生まれ、さらに本人も拘束から逃れる形になった。それだけでも状況はマズいのに、最悪なのはむしろここからだった。なんとクピディタースは自ら生み出した『パルウム』を攻撃してバラバラに吹き飛ばすと、その数を爆発的に増やしたのだ。そして再生するなり四方八方へと散って行く。
「これを一人で止められるか、ヘルト・ハイラント?」
「この……っ!!」
無限に増殖する敵を止められる方法なんて無い。そして複数個所を同時に守る方法も今のヘルトにはない。彼もそれを分かっていてこの手段を取ったのだ。
さらにクピディタースは膝を折って溜めを作ると、大跳躍してヘルトから離れて行く。
「なっ……くそッ、逃げるなァ!!」
激昂するように叫びつつも、ヘルトの頭はいたって冷静だった。
そして頭を回して理由を考える。
(どうして逃亡した? 目的は!? 考えろ……彼の目的は『獣人血清』だ。まさか進化して場所を感知できるようになった? その可能性もあるけど……最悪の場合は獣人を吸収する強化目的!!)
目的の選定よりも最悪のケースを防ぐ事に念頭に置いたヘルトは、伸ばした二本の黒布を少し前の地面に突き刺すと、自分の体をパチンコの弾のように見立てて思いっきり投げ飛ばした。
上空から見て初めて施設の配置を肉眼で捉えた。『前の世界』で見た大学のようだ。いくつかの建物に広場。上空から見れば健全な施設にしか見えないが、その地下は蟻の巣のように入り組んでいて悪鬼が渦巻いている。どうも悪人は日の当たる場所が苦手らしい。
少し先でクピディタースが着地した辺りを見ると、最悪の可能性の方が的中していた。施設の正当な入口の近くの広場に黄色い円状のポータルが現れており、そこから大勢の獣人達が溢れんばかりに出てきている。
軽く舌打ちしたヘルトは『黒無想』から手の形の黒布を伸ばすと建物を引っ掻いて減速し、地面を転がりながら着地して即座に立ち上がりながら走り出す。呪力で多少の強化をしているとはいえ、完全に威力を殺せた訳でもないので体の至る所が痛みを訴えている。だが歯を食いしばって全身からの訴えを無視して全力で足を動かす。そして前方に黒布を二本伸ばすと、先程と同じ要領で今度は前に向かって自分の体を飛ばす。
けれど。
しかし。
(……間に合わないっ!!)
自分とクピディタースの距離を考えて、追いつくまでの間に少なくとも数人は殺される。全員を救う事はできないと直感した。
その瞬間、思考を切り替える。
失われる命に対して拘泥する事もなく、より多くの命を救う為にはどう動くのが最適なのかを考えて形にしていく。
……これが違いなのだろうと、思考の隙間でふと思った。
目の前で命が失われる事に対して、心がそこまで動かない。あるいはこれが凛祢や嘉恋のような近しい者達ならば激昂していたのかもしれない。救うべき対象者なら無駄と分かっていても最後まで諦めなかったのかもしれない。
けれど今回の目的は獣人達の救済だ。ヘルトの価値観において、例え五〇人を救えなかったとしても五一人を救えれば十分に納得できる。少数の犠牲でより多くの者を救う。それが不平等に命を奪って行くこの世界で、不平等にしか命を救えない中でも、その両方の命に意味があったんだと言えるように。もしかしたらそれは、自分が殺された事にも意味があると思いたいだけなのかもしれないと自覚していながら。
(ああ……だからやっぱり、ぼくときみは違う)
似ているようで、けれど平行線。その道が交わる事は絶対にない。
それはヘルトがより多くの命を救う事を信条とし、アーサーが目の前の命を救う事を信条としている限り変わらない。
だが、それで良いと同盟者は言った。
ヘルトはより多くの人の為に、アーサーはそうやって切り捨てられた人達の為に。
だからヘルトに迷いは無かった。
自分が切り捨てた命にも、まだ救いが残っていると分かっていたから。
「きみなら来るだろう? アーサー・レンフィールド」
「うォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
聞こえていないはずなのに、その呟くような問いかけに答えるような雄叫びが広場に轟いたかと思うと、その少年は獣人達を吸収しようとしていたクピディタースの髑髏が浮かぶ顔面に凄まじい速度で跳び蹴りを食らわせたのだ。
吹き飛んで行くクピディタースを睨みつけ、赤黒い呪力のオーラを纏った少年、アーサー・レンフィールドは獣人達を背に庇うような形で立っていた。
ヘルトは僅かに笑みを作り、彼の隣に降り立つと視線は前に向けたまま言葉を投げる。
「おかえり」
「おう」
目的を果たせたのか、なんて事は聞かなくても分かっている。彼が戻って来たという事は問題無く救出できたという事だろう。それに魔力でも呪力でもなく、纏っている雰囲気が変わっている。どうやらもう迷いはないらしい。
そして示し合わせていたかのように、再び魔力を使える感触が戻った。
「どうやら彼の方も上手く行ったらしい」
「みたいだな。それで状況は?」
「また進化したよ。今度は分裂して手駒を増やして来る」
「……本格的にヨグ=ソトースと同じだな。これ以上進化する前にヤツを止めないと」
アーサーが蹴り飛ばしたクピディタースは何事も無かったかのように立ち上がった。
今更だが、アーサーの右手で再生を封じてヘルトが斬り刻むというプランはすでに破綻している。魔力が使えない状況なのに回復していた辺り、クピディタースの力は魔力ではない別の力なのだろう。そんな彼は両手をこちらに向けて構えていた。
「来るぞ! ヤツの狙いは獣人を取り込む事だ、ぼくが守るからきみは突っ込め!!」
その言葉を受けて、アーサーは迷わず駆け出した。目の前からは回転する骨の棒が迫って来るが、それらはヘルトが黒布で防いでくれるので構わず右手に呪力を集中させる。
アーサーは一つ、試してみたい事があった。おそらく魔力を掌握しても、今のクピディタースは止められない。けれど『阿修羅』には状況に応じて成長する力がある。そこに魔力や呪力以外の『力』でも破れる力が備わっていたら?
「―――『大烏鉤爪剣』!!」
五指に呪力を集めた手でクピディタースの体を引き裂いた。ヘルトのおかげで至近距離まで近づけたが、攻撃ができる距離となると流石に援護は無理だった。引き裂いた傷口とは違う場所から回転する骨の棒が飛び出してきてアーサーに襲い掛かる。何とか身をよじって致命傷を避けながら後ろへ飛ぶと、ヘルトは黒布でアーサーの体を掴んで自分の傍まで引き寄せた。
「……成功した。とはいえ再生を遅らせるのが関の山みたいだけど」
骨が掠って出血している脇腹の傷は、少しずつだが治癒されていた。それも新たに『阿修羅』が成長して得た自動治癒だ。そこに『手甲盾剣』に宿るソラの魔術による治癒も合わさるとすぐに傷口が塞がった。
「ありがとう、ソラ」
『……いえ、これくらいお礼を言われるまでもありません。ただ例のやり取りを存在を消して見守っていた件については感謝されたいですが』
「それについては本当に助かったっていうか半ば存在を忘れててごめん俺も余裕が無かったからとにかく今度埋め合わせするから許して!!」
『……まあ、私も見た目ほど初心ではないので構いませんが。埋め合わせは甘味を所望します』
なんだか色々揉めているようだが、そちらには構わずヘルトはクピディタースの様子を観察する。『阿修羅』には無効化とはいかないが、ある程度回復を阻害する力があるというのも分かった。
けれど同時に、アーサーの攻撃が有効だというのはクピディタース自身にもバレてしまった。まあ、元々お試しの攻撃でアーサー自身に隠すつもりが無かったから仕方ないが。
おそらくクピディタースはもう不用意に近づいて来ない。それを証明するかのように、彼は両手を地面に着いて四足歩行の生物のように構えると、その背中から掌から放つ以上に大量の回転する骨の棒を突き出したのだ。
弧を描きながらこちらに向かって落ちて来るそれは滝のようだった。しかも狙いはアーサーやヘルトだけではない。後方で固まっている獣人達も標的に入っている。
黒布では対処し切れないと判断したヘルトは『黒無想』を解除し、魔力による戦闘へとシフトした。両手を上空に掲げると、多重に展開された巨大な魔力障壁が回転する骨の棒を受け止める。
「くっ……アーサー・レンフィールド!!」
「分かってる―――『妄・穢れる事なき蓮の盾』!!」
すかさずヘルトの前に出たアーサーは、手を前に突き出して魔力の盾を展開した。ヘルトが獣人達を、そのヘルトをアーサーが庇う形だ。
しかし、この形は非常にマズい。クピディタースを攻撃する役がいないので、この攻撃を止める方法が無い。
「手が足りない!! きみが救出した『一二災の子供達』はどこに行ったんだ!?」
「別行動中だ! 武器も全部取られてたし、外で待機してた仲間と合流してる!!」
「まったく……あれだけの数で潜入したのに肝心な所で人手不足なんて笑い話にもならないぞ!?」
「無い物ねだりしてる場合じゃないだろ!? とにかく俺は盾を展開したまま前に進む! お前も余裕があったらフォローしてくれ!!」
その提案にヘルトは歯噛みするが、かといって否定もできなかった。
どれもこれも対処的で後手だらけだ。確実に殺せる攻撃以外はできないというのがここまで響くなど、正直甘く見ていた部分もある。まさかアンソニー・ウォード=キャンサーがここまで強敵になるとは思ってもみなかった。
その葛藤はアーサーも同じように抱えている。その上でなお、他に手がないので盾を展開したまま足を前に踏み出して行く。
その瞬間、目の前の状況に変化が起きる。
クピディタースの前に骨の棒で貫かれていた、とある獣人が転がった。