行間二:思惑の裏側 Page_02
ずる、ずる……と。
白衣の女性はキャリーバッグと大きな袋を引きずりながら通路を歩いていた。
誰もいないその施設で、ある部屋に入るとそこには一人の男が眠っていた。
アンソニー・ウォード=キャンサー。ネミリア=Nの襲撃によって死亡した彼だ。しかし死体を前にその女性は顔色一つ変えず、ポケットから注射器を取り出すとアンソニーの胸に突き刺して中身を投与する。
数秒待つと、ベッドの上で男の体が跳ね、すぐに咳き込んで動き出した。
「げほっ! がふっ……う、上手く行ったか……?」
「ええ、全て滞りなく。それで生き返った気分はどうですか?」
「悪くはないな。むしろ思いのほか良い気分だ」
もしその会話が誰かに聞かれていたら、きっと世界は彼を許さないだろう。
世界中を騙して死を偽装した。そんな大それた事をしておいて、ロクな考えがある訳がない。
「身代わりは?」
「ちゃんとここに」
彼女は持って来た袋の口を開ける。するとそこにはアンソニーによく似た男の死体が入っていた。さらにキャリーバッグには彼が死を偽造する前に用意しておいた着替えが入っている。アンソニーはさっそくベッドから起き上がるとキャリーバッグのロックを外して着替え、本当の死体を自分の代わりにベッドに寝かせる。
その作業はアンソニーが一人で行った。手伝って貰った方が楽な作業だが、自分以外の誰かの手違いで隠蔽が露見するのは我慢ならない。そういった理由からだった。
「済みましたか?」
「ああ、完璧だ。だが片付けるものがまだ一つ」
キャリーバッグの中から最後に取り出したのは拳銃だった。その銃口を腕を組んで壁に体重を預けている白衣の女性に向ける。
「俺の生存は知る者が少ない方が良い。お前はここで消しておくべきだな」
しかし凶器を向けられて、彼女は姿勢を崩さなかった。
拳銃を向けるアンソニーに対して、白衣の女性はくすりと笑う。
「あなたがそう動く事は分かっていました。―――『獣人の姫君』。この意味が分からないあなたではありませんよね?」
「ッ……」
言葉だけで拳銃に向かって行く。
たった一つの単語で、アンソニーの動きに躊躇いが生まれた。
「……お前、どこでそれを……ッ」
「言ったはずですよ。敵を知り己を知れば百戦殆うからず、と。あの日から私にとっての敵は世界の全て、ならその全てを網羅するのは当然のこと。私が理解できないのはそれこそ翔環ナユタのような、人の身でありながら天の意志を識ってしまった哀れな者達くらいですよ。今回にしても、翔環アユムが『カプリコーン帝国』に根回ししたせいで、本来『一二宮会議』に持ち込まれるはずの『議事録』を奪取する機会を失いましたし。まあ、あちらに頼る計画はサブプランだったので構いませんが」
「……、」
「掌握していますよ、アンソニー・ウォード=キャンサー。あなた程度の矮小な存在、今の私にとっては取るに足りません」
言いながら手を横に凪ぐように動かす。するとアンソニーの持つ拳銃がバラバラに砕け散った。
「何の策もない単純な力ではヘルト・ハイラントは殺せませんが、手札はいくらあっても困るものではありません。まさか私が本当にただ無力な科学者だとでも思っていたんですか?」
「……っ」
「最後に忠告しておきましょう。浅慮、高慢、強欲、それがあなたの弱点です。それではアーサー・レンフィールドやヘルト・ハイラントに野望を打ち砕かれるでしょう。……まあ、高慢なあなたはこの忠告も聞かないと思いますが」
そう言って、彼女は部屋の外へと向かって行く。そしてドアノブに手をかけた所で、後ろに残るアンソニーに最後の言葉をかける。
「心配しなくともあなたが何をしようと私にはどうでも良い事です。せいぜい『獣人の姫君』を使って好きにやって下さい。私は私で好きに動きます。それぞれもう干渉しないようにしましょう。それで良いですね?」
「……分かった」
「では私は最後の仕込みが残っているので失礼します。お疲れ様でした」
お辞儀だけ残して、白衣の女性は去っていった。
残されたアンソニーの吐き捨てる声だけが、静かな部屋の中に響いた。