326 レイナ・ブラッドクロスとカヴァス
「レイナ母さん……?」
「紬とは話せたようですね」
「……もしかして見てたのか?」
「いいえ。ただアーサーの部屋から出て行く紬を見かけたので。あの顔を見たら誰だって何があったのか察せます」
母親とは怖い物だな、と素直に思った。サクラもこちらが話す以上の事が見えていたし、やはりレイナもそうなのだろうと不思議と納得できた。
「それで、一線を超えたんですか?」
「ぶっ!?」
前言撤回。
この人、何も分かってなどいなかった。
「何も察せてないじゃん! 何も無かったよ、ただ話をしてただけだ!!」
「そうでしたか……残念です。早く孫の顔が見たかったんですが」
「……もしそうなったらレイナ母さんには伝えるから早とちりは止めてくれ。とにかく俺達には何も無かった」
何だかどっと疲れて来た。先程までは眠れなかったが、今ならこの疲労を頼りに熟睡できそうな気がしてきた。
「それで、こんな夜更けにどうしたんだ?」
「ええ……ビビの墓に案内して貰おうと思いまして」
「っ……」
今度は逆に眠気を吹っ飛ばす話題が飛んで来た。右手が咄嗟にロケットに向かったのを見て、レイナの表情が僅かに曇った。
「明日には『タウロス王国』に戻るとの事なので、機会はこのタイミングしか無いと思ったんです。国は違いますが、一足先に『人間領』に前乗りですね」
「……足はあるのか?」
「はい。カヴァスに連れて行って貰おうと思います。お願いできますか?」
レイナが横を向いたのを見て、アーサーもドアの外に顔を出して見てみる。すると相変わらず仏頂面のカヴァスがそこに立っていた。
じっ、とカヴァスはアーサーを見て目を逸らさなかった。耐えきれなくなったアーサーは問う。
「……なんだよ」
「サクラはローグに一途だった」
「だから何もしてないって!!」
初めて交わしたまともな会話がこれだとは、少し嫌になってくる。というかカヴァスはこちらを見定めているという話だったが、何もしていないのにいきなりマイナスな印象を与えてしまった気がする。
「ひとまず広い場所に移動しましょうか。カヴァスもその方が良いですよね?」
「どうでも良い。おれはさっさと仕事をして寝たいんだ。猫とは違って夜は普通に眠いんだよ」
と、心底面倒くさそうに言いながらもレイナの要望に応える辺り、根っから悪いヤツという訳ではないらしい。ただ口は悪いかもだが。
三人揃って森の中に入り、少し移動して原っぱのような開けた場所に来た。カヴァスはアーサーとレイナに少し離れているように言うと、いきなり全身から稲妻を迸らせた。カヴァス自身が埋もれるほどの発光の後、そこには人ではなく真っ白で大きな狼が立っていた。
「えっと……カヴァスで良いんだよな?」
「ええ、これが本来の彼女の姿です」
「くだらないこと言ってないでさっさと背中に乗れ。言っとくが、しっかり捕まってないと振り落とされるからな」
「……なんか複雑な気分」
犬ではなく狼という違いはあるが、まさかカヴァスの名前を持つ者の背中に乗る事になるとは思っていなかった。とはいえ乗らないと一向に話が進まないので素直に背中に跨り、レイナの後ろに乗って彼女の腰に腕を回す。カヴァスの背中は二人分で丁度良いスペースになっていた。
「カヴァスは魔獣状態の時、体のサイズを自由に変えられるんです。まあ大きいほど負担も大きくなりますが。明日『タウロス王国』に向かう時も彼女に送って貰うつもりですから安心して下さい」
「レイナ、舌を噛むから口を閉じてろ。移動するぞ」
そう言った瞬間、今度はカヴァスの足元から稲妻が迸り、視界が真っ白に染まる。
振り落とされると言っていたが、言うほどの衝撃は無かった。前から来たのは少し強い風程度の印象だ。そして眩しさに閉じていた目を開くと場所が変わっていた。
転移のレベルの超高速移動。背中から二人が降りると彼女は人型の姿に戻った。どうやらすでに懐かしの『ジェミニ公国』らしい。流石にこんな帰還は予想してもいなかった。
「……アーサー」
「……ああ、ここだよ」
ローグから正確な位置を聞いていたのだろう。見覚えのある森の中、周囲をぐるりと見回して傍にある少し大きめの石を見て、アーサーは肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。
あの日の誓いを忘れた日は一度もない。右手はすでに胸のロケットを握り締めていた。
思えばあの日が始まりだった。『ジェミニ公国』を追い出されたのは中級魔族のグラヘルとの戦闘が切っ掛けだが、『魔族領』を目指して旅を始めた事、そして妹達の夢を本気で叶えようと思ったのはこの場所だったのだ。
アーサーとレイナは並んで『ビビ・レンフィールド』と刻まれた石の前に膝を着いて頭を垂れた。胸に手を置いたまま瞳を閉じて、心の中で静かに思う。
(ビビ……あの日から、本当に色々あったよ。辛いことも楽しいことも、ビビに会わせたい人達だっていっぱいできたんだ)
あの後すぐに結祈と出会って、その後はサラ、シルフィー、ラプラス、レミニア……そして『ディッパーズ』を結成して、その後も多くの仲間達と出会って来た。みんながみんな大切な存在で、魔族のビビとだって仲良くなれたはずだと確信があった。
(情けなく停滞した事もあったけど、頑張って来た……と思う。少しはビビ達の夢に近づけたとも思う。俺達と同じように、人と魔族が分かり合える日はきっと来る。だからこれからも見守っていてくれ。もっと格好いい所を見せられるように頑張るからさ)
頬を撫でる感触が鮮明に感じられた気がした。自然魔力の中にはビビの意志があるのも分かっている。きっと今の祈りに応えてくれたのだと思った。
目を開いて隣を見ると、レイナはまだじっと祈っていた。アーサー以上に思う事があるのだろう。邪魔をしないように静かに立って後ろに下がる。そこには同じように静かに待っているカヴァスがいた。
「ここはおまえにとって大切な人の墓なのか?」
「ああ……ビビ。俺の妹で、レイナ母さんの娘の墓だ」
「……母親、か」
何か意味深に呟きながら、カヴァスはレイナの方を見たままアーサーの方に語り掛けてくる。
「おれは昔、ただの犬だった。それでご主人……サクラに拾われ、ある事件で魔獣化して狼になった」
「……母さんはどんな人だったんだ?」
「優しいやつだった。魔獣になったおれを見捨てずに助けてくれた。犬と狼の中間の人型魔獣なんて歪な形になっても、おれを大切にしてくれてた」
「そっか……」
ほとんど知らない母親の事をそう言って貰うと、アーサーは自分の事のように嬉しくなった。
「サクラは死に際、おまえの事をおれに任せた。五〇〇年も先の話だっていうのに、おれを残して先に逝ったんだ」
「……カヴァスは、その……お前を残して死んだ母さんの事を恨んでるのか?」
「別に。人間のサクラの方が先に死ぬのは分かってたからな。大切なものも、どうでも良いものも、全部おれを置いてくんだ」
「カヴァス……」
彼女の横顔には何の変化もなかった。ずっと同じ不機嫌そうな顔で、よく見ればどこか寂しさを映しているようでもあった。変化が無いのにそう見えてしまうのは、ずっと同じ孤独を感じている事の照明だろう。
その様が痛々しくて、けれど何も言う事ができなくて、アーサーは静かにカヴァスの頭に手を置いて撫でる事しかできなかった。
「……気安いぞ」
「悪いな。でも母さんが繋いでくれた縁を確認させてくれよ。それにお前、撫で心地良いからさ」
「ふん」
鼻から息を吐きながら、しかしカヴァスはされるがままだった。少し頬が赤くなっているのは気のせいだろうか。
何かを誤魔化すように、カヴァスはこう問いかけて来た。
「おまえにはサクラが期待しただけの価値があるのか?」
「……さあ、どうだろう? 俺には分からない。だからカヴァス、お前が俺を見て判断してくれ。母さんの期待に俺が相応しいのかどうかを」
ようやくカヴァスは視線をレイナからアーサーに移した。深紅色の瞳がアーサーの両眼を射抜くようにじっと見つめ、やがてゆっくりと口を開いてこう言い放つ。
「……じゃあ、判断がつくまで仮のご主人って事にしてやるよ。おれの名前はカヴァス・S・ゴルラゴンだ。失望させるなよ、アーサー・S・レンフィールド」
「ああ、努力するよ。よろしくな、カヴァス」
それからカヴァスとの間に会話は無かった。ただ二人でじっとレイナの祈りが終わるのを待つ時間が流れる。
数十分くらい経った頃にレイナは静かに立ち上がった。振り返った彼女の表情は晴れやかなものになっていた。
「……私が見ていない間に交流は深められたみたいですね。良かったです」
「そういう意図もあったのか……敵わないな」
そう言ってから隣のカヴァスの様子を見ると嘆息していた。どうやら彼女もレイナには頭が上がらないらしい。
「アーサー、手を出してくれませんか? 渡したいものがあります」
「ん? ああ……」
素直に右手を出すとレイナがその手に何かを乗せた。彼女が手渡して来たのは、何の変哲もないC字型の漆黒のブレスレットだった。右手から何かの魔力を掌握した感覚が流れ込んでくるが、その正体まではよく分からない。
「レイナ母さん。これは……」
「『手甲盾剣』と言います。ローグさんが自分の武器を参考にしてあなたの為に作ったもので、『魔力掌握』の力が無ければ使う事ができない特別製です。左腕に着けてみて下さい」
言われるがまま、アーサーはそれを左手首の少し上に嵌めた。サイズも丁度良い。アクセサリーとしても違和感がなかった。
「ユーティリウム製なのでとても丈夫なはずです。ブレスレットの状態から籠手に変形して、手甲剣と盾を展開できるはずなので試してみて下さい」
魔力はすでに掌握してあるので、意識をブレスレットへと向けた。籠手になるように意識すると、ブレスレットが細かいパズルのように分解して手首の辺りから肘の辺りまで広がり、漆黒の篭手へと変形した。次に盾をイメージすると、直径六〇センチくらいの円系の漆黒の盾が篭手の上に展開した。最後に剣をイメージすると、盾が篭手に戻り先端から刃渡り三五センチの幅広の刃が飛び出した。
「調子は良さそうですね。それもあなたの物です」
「……ここに来てから貰ってばっかりだな」
「ローグさんは親として何も出来なかった分、こうして埋め合わせをしたい側面もあるんでしょうし、素直に受け取るのが一番良いと思いますよ?」
「そう……だな。これもありがたく受け取るよ」
レイナの言葉に納得しながら籠手をブレスレットに戻す。これなら私生活の邪魔にもならないし、いざという時にいつでも手元に武器がある状態を作れる。アーサーは言葉にはしないが、この武器の事を結構気に入っていた。