325 穂鷹紬
『ラウンドナイツ』が答えを出す時間を待つために、アーサーはもう一日だけここに滞在する事にした。だが頭の中でヨグ=ソトースや『タウロス王国』に残っている仲間達の事を考えると、眠れる気は全くしなかった。
そうして長い事ベッドの上で思考していた頃だった。寝れないまでも、寝返りを打とうとした時だった。まるで金縛りにあったように、体が動かなくなっていたのだ。
(体が動かない……!? これは魔術の糸か!!)
何故今まで気付かなかったのか。輝きを放つ光の糸がアーサーの体が動かないように的確に縛っていたのだ。それもご丁寧に、アーサーの右肘の先には糸が触れないように考慮されて、だ。
すると突然、アーサーが気づくのを待っていたかのように部屋の扉が開いて誰かが入って来た。最初は警戒していたアーサーだったが、その人物を見て驚きの方が勝った。なにせ入って来たのは謎の襲撃者という訳ではなく、先程会ったばかりの穂鷹紬だったのだ。
「紬……?」
口は自由に動くが、驚きのあまり変な声になった。
対して紬は何も言わない。何も言わないままアーサーの寝ている(というよりは縛り付けられている)ベッドに近づいてきて、いきなり服を脱ぎ始めたのだ。
「ちょっ……!? おまっ、何やってるんだよ!!」
まず顔を背けようとして首が動かない事実にぶち当たり、その後目を瞑れば大丈夫という簡単な答えに辿り着いて強く目蓋を閉じる。だがそのせいで布切れの音が鮮明に聞こえてきて、この状況の正解など何も無いという事が分かった。
(って、悠長に思考してる場合じゃない!!)
「おい紬、無視してないで教えてくれ! これは一体何の真似だ!?」
目を瞑ったまま叫ぶと、くすりという笑いが聞こえて来た。
「……アーくんは鈍いね。この状況の答えなんて、夜這いしかないじゃん」
アーくんというのは勝手に作ったニックネームか何かだろう。アーサーは腹の上に何かが乗って来たのを感じた。咄嗟に目を開くと、そこには下着姿になった紬が馬乗りしていて、こちらの顔をじっと見つめていた。
「どうして、こんな……」
「あたしはアーくんに『人間領』じゃなくて『魔族領』を守るために力を貸して欲しいって思ってるから、かな」
その目に偽りは無かった。体が動かないように拘束している時点で誠実さは無いのかもしれないが、その言葉と目はどこまでも真摯にそれが本音だと訴えてきた。
「こう見えてもあたし、『忍』だから観察眼はあるんだよ? アーくんの話は聞いてたし、今日見て責任感が強い人だってのはすぐに分かった。だからアーくんはこういう関係を持ったら、絶対に責任を取ってくれるでしょ?」
「だからってこれは……っ」
彼女の本気を感じ取って、アーサーは何とか拘束から逃れようと身をよじろうとする。しかし糸だけではなく上に乗っている紬に完全に抑えつけられているのもあり、完璧な拘束はアーサーに脱出の隙を与えなかった。
「『魔族領』は結界があったせいで『人間領』から一方的な攻撃を受けてるのは知ってるよね? 中級魔族や上級魔族って呼ばれてる人達は自分の力で解決できるけど、それ以外の普通の魔族は蹂躙されるしかない。あたしはその理不尽を見過ごせない。結界が無くなった今でもそれは変わらない。あたしはそれを何とかしたい」
「……っ」
目の前のどうしようもない理不尽をどうにかしたい。あるいはそれは、アーサーが常に抱いている感情と同じなのかもしれない。
だがそう思って顔を歪ませたアーサーの気持ちを勘違いしたのか、紬は自虐的な笑みを作って、
「……変、だよね。でもあたしは人間でも『魔族領』育ちだから、この故郷を守るためならどんな事だってする。そのためなら、あなたにこの体を捧げても良い。これ以上、犠牲を出したくないから……」
「くっ……紬! 俺を放せ、少し話を……っ」
「……安心して、アーくん。あたしも初めてだけど、絶対に満足させるから……」
こちら待ったなどお構いなしに顔を近づけてくる紬。
アーサーだって男だ。この状況に全く興奮しないと言ったら嘘になるし、目の前で艶姿の紬にドキドキしないと言っても嘘になるだろう。
でも、この状況に流されるのは人として違うというのも、彼には分かっていた。
(くそっ! そっちがその気なら、こっちも強引に行かせて貰うからな!! 『人類にとっても小さな一歩』!!)
「えっ……!?」
たった約一メートルの転移。だがそれによって拘束から逃れたアーサーはベッドから外れて床に落ちる。そしてアーサーがいなくなった事で布団に落ちて驚いている紬が次のアクションを起こす前に、アーサーは紬に向かって跳びかかった
布団の上で紬の体をくるりと反転させるようにして、両手で紬の手首を抑えつけて今度はアーサーの方が馬乗りになって紬の目を射抜くように睨む。すでに右手の力で魔力は掌握しているので、紬は全く動けなくなっている。
いや、正確には違った。先程まで迫って来ていたはずの紬だが、こうして逆に拘束して見てみると弱々しく小刻みに震えていたのだ。
「……どいて」
「紬……?」
「お願いだから、上から退いて!」
叫ばれてアーサーはすぐに上から退いて背中を向けた。後ろでは紬がシーツを手繰り寄せている気配があった。おそらく体を隠したのだろうと思い、慎重に振り返る。すると予想通りシーツで体を隠した紬がこちらに背を向けていた。
紬の体は小刻みに震えていた。やはり襲いかかったのがマズかったのだろうと思い、すぐに再び前を向いて視線を切った。
「……ごめん」
アーサーが何かを言う前に、体を震わせたままの紬は懺悔するように呟いた。しかしそれはアーサーに対してだけの謝罪という訳ではなさそうだった。
「……『魔族領』の為なら何でもするとか言ったくせに、情けなくてごめん……」
「紬……」
それはアーサー個人へだけではなく、もっと大きなものへの謝罪だった。
アーサーにはその想いが分かってしまった。どうしようもなく分かってしまうのだ。
『担ぎし者』や『ディッパーズ』のリーダーとして、彼も多くのモノを背負っている。自分が失敗した時にどれだけのものを失い、また傷つける事になるのかを知っている。『人間領』か『魔族領』かの違いだけで、アーサーと紬が抱えているものはよく似ているのだろう。
「……もう、今日はそこで寝ろよ。俺が出て行くから」
不可抗力とはいえ、襲い掛かったのは事実だ。そんな自分がいると落ち着かないだろうと思い、そんな提案をしてベッドから腰を上げてドアの方へと向かった。
「ぁ……まって」
しかし意外にも返って来たのは制止を求める声だった。その声が幼い子供の不安そうな声音に似ていて、アーサーは頭を掻きながら溜め息をついてベッドの方に戻り、紬が脱ぎ捨てた服を拾って手渡してから床に腰を下ろしてベッドに背中をかけた。
「話ならする。少なくとも、紬が寝るまでは傍にいるよ」
「……ありがと」
アーサーの後ろでもぞもぞと動く気配があった。どうやらアーサーに渡された服を着直してから布団に入ったらしい。
「……ごめん、魅力が無いのに嫌な事しちゃって。あたしみたいな人間のなり損ないが迫ったって、迷惑なだけだったよね……?」
「そういう事じゃないよ。俺が怒ってるのは、そんな理由なんかじゃない。……これ以上、犠牲を出したくないって言ったのに、真っ先に自分の事を犠牲にしようした事を怒ってるんだ」
全くもって自分の事を棚に上げた言い分だったが、アーサーはそこに怒っていた。こういうのは自分の事は分かりづらく、他人を見る方が分かりやすいのかもしれない。
「体を使って誘惑なんて、当たり前の事だけど嫌なんだろ? そうしなくちゃいけないくらい追い込まれてたって言うなら、『人間領』を代表して謝罪する」
「アーくんにそんな責任は……」
「あるよ。情けないけど、俺は『魔族領』の現状を知ってたのに何も出来てないんだから」
そんな暇が無かった、などと言い訳はしない。
『対魔族殲滅鎧装』や『ホロコーストボール』などの脅威を知っていながら、今まで何の手立ても打てていなかったのだ。『魔族領』のために何もして来なかったのはどこまでいっても事実なのだから、やっぱり情けないとしか言えなかった。
「……情けなくなんてない。やっぱり、アーくんは思ってた通りの人だった」
「え……?」
「アーくんの事は前から知ってたって言ったでしょ? ローくんから話だけは聞いてたから」
ローくん、というのは恐らくローグのニックネームか何かだろう。彼の名前が突然出てきた事に少なからず驚いて振り返ると、紬もこちらを向いていた。
そこには恐怖も怯えも無かった。むしろ嬉しそうな笑みが浮かべられており、思わずアーサーはドキッとした。
「未来から過去に来た時の話とか、『人間領』での活躍とか、色々と。その時からずっと会うのを楽しみにしてたけど……本人は想像以上に素敵な人だった」
「いや、素敵って……たしか忍術を教わったんだよな。やっぱりローグとは親しかったのか?」
「親しかったっていうか、あたしを助けてくれた人だからね。……昔、あたしが男の人達に乱暴にされそうになった時に助けてくれたのがローくんだったの。何の脈絡もなく『人間領』にいたあたしを助けてくれて、その後も忍術や戦い方を教えてくれて……トラウマも少しずつ克服できて自分から迫ったり下着姿を見られるくらいなら大丈夫になったんだけど、さっきみたいにベッドに抑えつけられるとどうしても思い出しちゃって……」
「……気持ちは分かるよ。俺にもトラウマがあるから」
こんな世界で生きていれば、誰にだってトラウマくらいあるはずだ。アーサーが殺された妹達の死を乗り越えられないように、大切な誰かを失っていたり、辛い経験をしてきた者には特に。
「でもこんな方法しか思いつかなかった。故郷を守るには、こうするしか……」
「そうだな。もっと簡単な方法があった」
不思議そうな顔をする紬に対して、アーサーはふっと笑みを浮かべながら。
「こんな行動を取る前に、素直に俺を頼ってくれれば良かったんだ。ただ言葉で『たすけて』って。その一言で、お前がそんなに追い込まれる前に、俺は『魔族領』のためにどこまでも力を貸すっていう選択ができたんだ」
まるで当たり前の事のように、彼は自分自身の価値観を押し付けるように言い放った。
紬は驚きのあまり目を大きく見開いて、
「力を、貸してくれるの……? 『人間領』を守るための『ディッパーズ』のリーダーのアーくんが、魔族達が暮らす『魔族領』のために?」
「勘違いだな。『ディッパーズ』は『人間領』を守るための組織じゃなくて、理不尽に晒されてる誰かを助けるための組織なんだ。そこに人間と魔族の区別は無いよ。そしてそれは、今からでも遅くない」
「……そっか。やっぱり、アーくんは想像以上だよ」
そう呟いたかと思うと、紬はおもむろに手を伸ばしてきた。その意図を感じ取って、アーサーは立ち上がってからその手を握る。
柔らかく、少し冷たい手。
だが震えはもう止まっていた。
「今更だけど改めて……あたしの故郷を『たすけて』、アーくん」
「勿論、約束するよ」
「……うん」
目を閉じながら紬は安心したように頷いた。
そのまま眠るのかと思ったが、予想外に紬は飛び起きた。
「よしっ、ナイーブな紬ちゃんはここまで! あたしは部屋に戻るよ。ありがと、アーくん」
そしてベッドの上から床に飛び降りた。先程までの様子とは打って変わって、昼間のような明るさだった。
作り物ではないのは分かった。明るい紬も、『魔族領』を守りたいと言った真面目な紬も、トラウマに震えていた紬だって、全てが穂鷹紬という『人間』なのだろう。そういった事が分かっただけでも、この夜更けの会話には意味があったと思えた。
「そうだ、アーくん」
と。
外へ出るドアに手をかけた所で紬は振り返って、
「全部解決できたら、改めてあたしの初めてをアーくんにあげるから。それが対価って事でよろしく!」
「良いからもう戻って寝ろよ馬鹿!!」
「にゃっはっは! おやすみ、アーくん!」
騒々しいのがいなくなると、途端に部屋の中が静寂に包まれる。多少の寂しさを覚えながら改めてベッドに戻ろうとすると、二回ほどドアがノックされる音が聞こえてきた。紬が戻って来たのかと思いドアを開けると、そこにいたのは紬ではなくレイナだった。