行間一:居場所の無い平和
降って湧いた休暇を与えられた少年、ヘルト・ハイラント。彼……というか彼を除いた彼女たちが選んだ場所は『レオ帝国』だった。
その地は『アリエス王国』における魔族侵攻に対する防衛戦と時を同じくして起きた魔族の侵攻を、ヘルトがたった一人で解決した地でもあった。
「……そういえば、結局ジークはどこに行ったんだろう?」
ボソッと呟いた言葉に反応する声は無い。ヘルトは現在、凛祢、嘉恋、アウロラ、紗世の三人が楽しそうにショッピングをしているのを少し離れた位置で眺めていた。
彼女達が休暇にする事として、選んだのはショッピングだった。女の子らしいといえばらしいのだが、ヘルトにとってはかなり縁遠い。
大体、物なんて生きていくのに必要最低限揃っていれば良いし、衣服も同じのを数着揃えて毎日着まわせば良くない? と真顔で心の底から言えるミニマリストのヘルトだ。まあ彼の場合、ミニマリストというよりは自分に対してとことん頓着が無いとも言えるが。もしかするとショッピングを選択したのはそんな彼に対する彼女達なりの配慮だったのかもしれない。
とはいえ生前から人に厚意を向けられる機会とも縁遠い彼だ。そういったこちらを思いやる配慮には気づけない。
(……ああ、多分ここが違うんだろうな)
笑いながら言葉を交わして楽しそうにしている彼女達を見て心地よさを感じる反面、同時に自分の中でどこまでも冷めていく感情も自覚していた。物理的な距離は数メートルほどなのに、その間に無限の溝があるような錯覚。どれだけ手を伸ばしても自分には辿り着けない安息のようにも思えた。
おそらく今、この時間は人並みの幸せな時間なのだろう。
しかし少年はその幸せに怯えて逃げるように、静かに背を向けて移動を始めた。ショッピングに夢中になっている彼女達が気づくよりも前にその場を後にする。
しばらく一人で歩いて、ふと思う。
(休暇……休暇、か……)
不意にポケットからマナフォンを取り出して確認する。
アーサー・レンフィールドや『イルミナティ』からの連絡は無い。『タウロス王国』に派遣した『ナイトメア』も助力を求めて来ない。『パラサイト計画』のアルゴリズムも沈黙。
「まったく、平和だ」
そして自分には似合わないとも思った。
世界の平和のために戦っているのに、平和な世界に自分の居場所がない。本来なら心身を休めるはずの休暇が彼にとっては毒にしかなっていない。愚かしいほどの矛盾で、笑い話にもならない。
感傷的になっているのは、やはり慣れない休暇のせいだろう。彼は気分を変えるために外へと足を向けた。今日の天気は少し悪く、曇天の空模様だった。少し冷たい風が頬を撫でる感触を心地よく思いながら目を閉じる。
「やあ、ちょっと良いかな?」
「……?」
声をかけられたのかと思って目を開くと、見た事もない老人が目の前に立っていた。
「暇を持て余しているならちょっと付き合ってくれないか? 今日集まった仲間が奇数であぶれてしまってね」
見ると手には白と黒のチェック模様の少し大きいケースがあった。持ち運べる折りたたみ式のチェス盤だ。彼が軽く振るとケースの中でチェスの駒が動いて音が鳴る。
怪しい事この上なかったが、彼女達から離れて特にやる事もなかったので彼の誘いに乗る事にした。普段とは違う選択をしたのも、やはり感傷的になっているのが原因なのか。
老人に案内されたのはショッピングモールに付属されたカフェテラスだった。彼の言ったように何人かがチェスをしている。それに続いて二人も席についてコーヒーだけさっさと頼むと早速チェス版を広げた。持ち運び用だから安い作りかとも思っていたが、駒を一つ取ってみると親指より少し大きいくらいで風で飛んだり倒れたりする心配はなさそうだった。
「ところで、連れてきてから聞くのはなんだがチェスは出来るのか?」
「勿論。チェスに限らず将棋、囲碁、オセロみたいな運が介入しない二人零和有限確定完全情報ゲームは好きだ。得意分野だよ」
「ほう、大きく出たな」
「最善手を打ち続ければ必ず勝てるからね。という訳で先手は貰うよ」
前置きしてからキングの前のポーンを二つ前に出す。後列のビショップとクイーンに道を作るためのセオリー通りの一手だ。
対して老人の一手目は右のナイトを前に出す事だった。セオリー通りならヘルトが動かしたポーンの正面に自分のポーンを動かす事で、ナイトを動かすのはこの後の流れだったはずだ。意図の読めない一手にヘルトはすっと目を細める。
「ナイトが好きでね。全ての駒で一番ユニークだ」
「そうかい。ぼくを惑わす作戦だとしても油断はしない」
乱れた気を整えて、ヘルトは集中し直して次の一手を考えて駒を動かす。
そうしてゲームを進めること十数手。中盤に差し掛かって来た所でヘルトがようやく口を開いた。
「それで、どうしてぼくに声をかけたんだ?」
「言ったはずだ。チェスの相手が欲しかった、と」
「建前は良い。本音を聞かせてくれ」
駒を動かす手は止めないまま、ヘルトは彼を問い詰める。老人はチェス盤に視線を落としたまま溜め息をついて、
「『W.A.N.D.』の長官だからと言えば満足かな?」
「それも建前だな。本音、と言ったはずだけど?」
「本音か……なに、つまらない理由だ。遠い昔、お前と同じ目をしたヤツを知っていてな。ふと気になったんだ……チェック」
話しながらもチェスの手は全く緩めていない。ヘルトはすぐにポーンを捨て駒にしてキングを守る。しかし今のチェックで流れが老人の方に移った。ヘルトは自分の手番を防御に回していく事になる。そして同時に会話の主導権も老人の方に移っていく。
「きみには家族はいるか?」
「……いない」
自分の事を家族と言ってくれた彼女達の顔が脳を過ったが、口から出てきたのはその言葉だった。
彼女達の事を家族だと思っているのは嘘では無い。だけど同時にその資格が自分にあるのかどうか、まだ答えを出せていなかった。
そんな迷いの表れが、しばしの間をおいての否定の言葉だった。
「そうか。世界の頂点とも呼べる男が……孤独か」
「……チェックメイト。ぼくの勝ちだ」
「ん? ……おっと、やられたか」
攻勢だったはずの老人に対して宣言された詰みの言葉。ヘルトは防戦一方のように見えてしっかりと布石は打っていたのだ。
確認のために盤面を舐めるように見て老人は敗けを認めた。それを確認してからヘルトは席を立つ。
「じゃあ、ぼくはこれで」
「……なあ、少年」
去っていく少年の背に老人は声をかけた。ヘルトは振り返りはせずに足を止める。
「勝ち続けた先で何を望む?」
「世界平和」
「……そこに居場所が無いと分かっているのにか?」
「構わないさ。誰だって平和が一番だろう?」
不思議な老人との関りはその言葉を最後に終わった。
だからここから先は、ヘルト・ハイラントには見えていなかった真実の話。
「ブルース。まさか小僧にやられたのか?」
別の席でチェスをしていた老人の一人が、ヘルトが負かした相手の事をそう呼んだ。
ブルース。本名はブルース・スミス。あるいは『W.A.N.D.』の初代長官と言った方が分かりやすいかもしれない。
「……ああ、やられたよ。つい昔馴染みを思い出して、手が揺らいだのかもしれん」
五〇〇年前の事を思い出しながら彼はそう返答した。
ヘルトに声をかけたのはほんの気まぐれ。彼がここから先、世界に関わる事は二度とない。
彼の戦いの物語は、また別の話なのだから。
ありがとうございます。
では今回の章では、ヘルトの休暇を行間に四回ほど挟んで行きたいと思います。今回は無敵に近いヘルトの大きな弱点について言及して行きます。