305 時を超えた手紙
夢の中でテレビでも見ているような、どこかで感じた事のある感覚だった。
白い壁と天井。それはどこかの病院だった。銀に青を混ぜたような色合いの髪を持つ一〇代半ばくらいの少女、エミリア・ニーデルマイヤーは必死な形相でその廊下を走っていた。そして勢いを殺さないままどこかの扉を開け放ち中に入る。
部屋の中では、顔に白い布を掛けられている女性がベッドの上に横たわっていた。肩で息をしながら、彼女はベッドの上の女性に近づいて顔の布を取った。その下には彼女の姉である、シエル・ニーデルマイヤーの顔があった。穏やかな表情で、まるで眠っているだけのようだった。少し肩を揺すれば起きてしまいそうなくらいだ。
「……どうして、お姉ちゃんが……」
すぐ傍で椅子に座っている母親と思われる女性に、少女は目からは涙を流しながら詰め寄るように尋ねた。母親はベッドの上の女性の手を握りながら答える。
「……誰も悪くない。この子がいきなり道路に飛び出して、車に轢かれたの。運転手の人は、いきなり飛び込んで来てブレーキをかける暇も無かったって……」
「そんな……お姉ちゃんが飛び込みなんて有り得ない!!」
「そうね。だからきっと、過労で意識が朦朧としてたんだろうってお医者さんが……。この子はいつも他人優先で、自分の事は後回しにするような子だったから……無茶をし過ぎたのね」
眠っているシエルの頭を静かに撫でながら、彼女は納得したように言葉を吐き出していた。それは納得しきれないもう一人の娘に対して。
「私達はこの子の傍にいられなかったけど……誰かが傍でシエルを抱えていたらしいの。最後の時、一人じゃなかった。少しだけ救われる思いね」
「……その人は今どこ?」
「それが分からないらしいの。いつの間にか消えてたみたいで、誰も消えた所を見てなくて……」
「そんな怪しい人とお姉ちゃんに関係があったの? もしかして、その人が……っ」
少女が最後まで言い切る前に、その女性は遮るように言葉を放つ。
「この子は他人優先だったけど、エミリア、あなたの事を一番愛していたのは本当よ。シエルは家族思いだった。だからエミリアも……」
「……、私は―――」
彼女の返答を聞く前に、意識が思いっきり後ろに引っ張られるような感覚が襲って来た。
時間切れ、だったのだろう。
自分の時間に戻る刻が来た。未来へ行けなかった女性の代わりに、前へ進まなければいけないのだ。
◇◇◇◇◇◇◇
何か夢を見ていたような気分だった。そしてすぐに一〇年前に跳んだ時と似たような夢だったと気付く。
そう、似たような、だ。少し集中して思い出すと細部が異なっているのを思い出せた。ほんの少しだけだが、前よりも母親が落ち着いた雰囲気だった。
その変化は変化というにはあまり小さく、費やした労力に比べたら割に合わないものなのかもしれない。それに本来望んでいた変化とは違うものだったはずだ。
けれど、それは決して無視できるものではない。
未来は変えられる。それを証明するには十分過ぎるものなのだから。
そして次にアーサーが目を開くと『ポラリス王国』の街並みが広がっていた。多くの人々の喧騒が行き交う、いつもと変わらない風景だ。
「……戻って来たか」
「ヘルト……」
意外にも近くには彼しかいなかった。その様子でみんなを探しているのを察したのか、ヘルトは彼の考えている疑問に答える。
「きみは時代の修正に成功した。また全てが塵になったかと思ったら元の世界に戻った。その間、消えていた人達は全員いるべき場所に戻ったから、この場に残ってるのはぼくとクロノ、そして近衛結祈だけだ。セラ・テトラーゼ=スコーピオンが『ジェット』を用意してるから案内するよ」
「……成功なんてしてないよ」
ヘルトの言葉を否定しながらぎこちない笑みを浮かべて、アーサーは続ける。
「結局シエルさんを死なせた。俺は……敗けたんだ、運命に」
「……ぼく相手に泣き言なんて本当に参ってるようだね。まあ興味ないけど。『ジェット』に行くから付いて来てくれ」
「本当に冷たいな……」
「ぼくがきみに温かい言葉をかける方が変だろう? それとも労って欲しいのか、戦犯のきみが?」
「……そうだな。お前の言う通りだ」
あるいはその責める言葉がヘルトなりの気遣いだったのかもしれない。労うのでも、肯定するのでもなく、否定する。正しかったのではなく間違いだったと指摘してくれる。そういう意味ではヘルトはアーサーにとって貴重な否定者なのかもしれない。そしてそれは、一方通行ではなく逆の意味でも。
「……結局さ、あのクロノって女は全部知ってた訳だ。よくもまあ、あんな嘘つきと一緒に行動してるよ。正直尊敬する」
前を歩くヘルトが急にそんな風に語り掛けて来た。多少なりとも気分を変えられる良い切っ掛けなので、アーサーは会話に応じることにする。
「……お前は嘘が嫌いか?」
「この世界に来る前、他人の醜い嘘のせいで酷い目にあったからね。それでも事情のある嘘には寛容なつもりだけど……いくらなんでも今回のは悪質すぎるだろ。何も知らないぼくらはピエロみたいに必死で戦って、きみなんて救えなかったという傷を負った」
「まさか、お前が俺を心配してるのか?」
何だかんだで心配してくれているのかと思うと意外だった。しかしヘルトは前を向いたまま鼻で笑って、
「はっ、それこそまさかだろ。ただ、まあ……確かにきみとは馬が合わないけど、人を救いたいという思いは同じだ。だからこそ今回の件が完全なハッピーエンドじゃなかったのも分かってる。だからこそ疑問なんだ。最初から全てを知っていて何も話さなかった彼女を、どうしてまだ信じられるのか」
「ヘルト……」
ヘルトは他人に裏切られて生きて来た。
アーサーは他人を信じながら生きて来た。
だから幾千と言葉を交わした所で、彼らの価値観は共有できない。生まれも環境も生き方も全く違う彼らでは、その思いを理解し合う事は出来ないのだ。
「……お前の言う通り、クロノは知ってたんだ。俺が過去に行ってあの人達と関わる事で、今に繋がってるって。お前だって今回の件が無ければ、今こうして大切な人を得る事はできなかった。だったら意味はあったんだよ」
「それこそ理解できないよ。ぼくが出会わなくても、彼女達は結局はどこかで生きて幸せになってたはずだ。それにぼくだけが覚えていれば、守り続ける事だってできたんだ。結果的に今回、多くの人に被害が及んだ。覚えてないからといって許される問題じゃない」
「……正直、凄いと思うよ。お前みたいなどこまでも他人の為だけに生きるヤツを俺は他に知らない」
同時に悲し過ぎる生き方だとも思った。
彼は自分の周りにいる人達を大切に思っている。しかしその反面、彼らから向けられている気持ちはそこまで考慮していない。どう思われていようと守る。より多くを救うためなら自分自身も含めて少数は切り捨てる。その生き方はどこまでも真っ直ぐで素晴らしいのかもしれないが、やはり異常でもある。
手段を問わずに自分の骨身を削って配るだけの人生。そんなのいつか限界が訪れるに決まっている。あるいは限界が訪れたからこそ、彼はこの世界に来る事になったのかもしれないのに、それでも彼は止めようとはしていないのだ。
「……だからこそ、俺とお前は馬が合わないんだろうな」
アーサーは常に自分のために戦っていると思っている。だから今回のように周囲を危険に晒す事も少なくない。ヘルトのように多くの人を助けたいという思いもあるが、少数の人のために戦う事が多い。理不尽が嫌いなので、どうしても少数派に立つ事の方が多くなるのだ。
他人を助けようとする生き方は似ている。しかし大多数か少数か、自分の為か他人の為かでその意味合いは大きく変わって来る。それがアーサーとヘルトの埋められない溝の正体なのだ。
「でも、実はそれで良いのかもしれない。お前はより多くの人の為に、俺はそうやって切り捨てられた人達の為に。それで俺達の関係は丁度いい。『ディッパーズ』と『W.A.N.D.』の関係もそれで」
「……不安定な関係だ。『協定』の事だってある。いつか必ず終わりが来る関係だ」
「じゃあ終わるその時までよろしく。それに終わらないモノが常に良いモノだとは限らない」
「……本当、きみだけは分からないな……」
そんな話をしていると『ジェット』に着いてしまった。『スコーピオン帝国』製の『キングスウィング』。すでに待機状態のようでエンジンの重低音を鳴らしていた。
すぐに乗り込もうとすると、ヘルトはアーサーに向かって左手を出して来た。
「……握手?」
「そんな訳ないだろ。今出すから少し待て」
右手で分解した物を再構築する左手。普段は武器を生み出す事の多いその力だが、今回生み出したのは白い封筒だった。そして創り出すとすぐにアーサーの胸に押し付けて無理矢理受け取らせた。
「これは……」
「シエル・ニーデルマイヤーからきみ宛ての最期の手紙だ。ぼくは『時間』の影響を受けないから、この力で分解すれば修正の影響を受けない。それが分かっていたんだな、彼女。賢い女性だよ」
「……ああ、そうだな。その通りだったよ」
受け取った手紙をポケットに突っ込み、今度こそヘルトと別れて『キングスウィング』の中に乗り込む。中にはすでにクロノと結祈が座っていた。
「ぁ……」
「……、」
結祈はこちらを見て言葉を漏らしたが、クロノは目を閉じて無言を貫き通した。そして少し離れた位置に座ったアーサーはあからさまに話しかけるなオーラを出していたのか、何とも重い空気が中を覆っていた。
三人の搭乗を確認し、無人の『キングスウィング』が空に浮かび上がる。上昇が終わって安定したのを確認してから、アーサーはヘルトから受け取った手紙をゆっくりとした動作で開いた。
そこに綴られていたのは―――
◇◇◇◇◇◇◇
久しぶり、アーサー君。
ありがとう、と書けば良いのか、ごめんなさい、と書けば良いのか分からないから久しぶりって言葉から始めたけど、やっぱり変かな?
アタシは幸せ者だよ。まず、これだけは伝えたかった。
未来を修正するならきっと、アタシの最期は本来と同じで車に轢かれたんだと思う。
それが怖くないって言ったら嘘になる。
でも最期の瞬間、死ぬ時まできっと、アタシはキミの事を考える。キミはアタシの事を考えてくれる。それだけで十分なんだよ。本来は事故で孤独に死ぬはずだったアタシには、過ぎたくらい幸せな贈り物を、キミは時を越えて届けてくれたの。
それはきっと、アタシだけの特権。この世界の誰にも経験できないもの。この世界にありふれてる人間の一人だったアタシに、キミは生きて欲しいって言ってくれて、ボロボロになるまで戦ってくれた。
そしてこれは最期の我儘だけど、できればキミにはその生き方を変えないで欲しいの。アタシの命はどうしようもなかった、でも他の誰かの心をアタシのように救って欲しい。過去を変えようなんて思わないで、キミが生きてる現実で救える限りの命を救って。もしそう生きてくれるなら、アタシは笑って死ねるから。
だからアーサー君。アタシの生贄の上に成り立つ、そんな世界を守って。アタシ個人じゃなくて、アタシの総てを助けて。……きっと、アーサー君はそんな風にして今までも戦ってきたんでしょ?
追伸。
妹のエミリアのことをお願い。
それと一○年経っても大好きだよ、アーサー君。
◇◇◇◇◇◇◇
手紙の最後の方は文字が滲んでいた。
読み終えて、それが自分の目に滲んだ涙のせいだと気付いた。すぐに上を向いて目を乾かす。涙を流したら自分の中の全てが壊れてしまうような気がしたのだ。
しかしそれは許されない。手紙に記されているようなシエルが望んだ生き方を続けていくなら、この痛みは乗り越えなければならない。これまで助けて来た人達への責任と、これからも救い続ける人達のために、二度と停滞する訳にはいかないのだ。
するといつの間にか『スコーピオン帝国』に辿り着いていたのか、『キングスウィング』が下降に入る。アーサーは手紙を大切にポケットに仕舞いながら降りる準備を整えた。
ハッチが開くとまずクロノが外へと出た。次いでアーサーが降りると、視線の先で見知った仲間達が出迎えてくれていた。
「ちょっと待って、アーサー」
足を踏み出そうとすると後ろから結祈に声をかけられた。『ジェット』の中ではアーサーの雰囲気に遠慮して話しかけて来なかったが、みんなと合流する前にどうしても二人で話をしておきたかった結祈は我慢できなかった。
「クロノから少しだけ話を聞いたよ。ワタシは詳しく聞かされてないけど……過去で色々あったんだよね? それも酷く辛いことが……」
「……まあ、そうだけど……慣れてるよ。そんなに心配するな」
「誤魔化さないで。慣れる訳ないよ……ワタシはまた、アーサーを支えられなかった。だから……」
「結祈……」
起きた事を知っているのと知らないの、一体どちらが酷なのだろうか。しかも彼女は今回、何も聞かずに力を貸してくれて、今も自分の事を想って言ってくれているのだ。このまま何も言わずに誤魔化すのは筋が通らない。何よりアーサーはそんな彼女に本音を吐き出したくなった。
アーサーは溜め息をついて、
「……ああ、正直辛いよ。助けられなかったんだ。彼女を殺す為に過去に跳んで、なのに助けたいと願って……それでも救えなかった。多くの人に力を貸して貰って、あれだけ受け入れられないって言ったのに、最後の最後には成す術なく、あの結末を受け入れる事しかできなかった。……全部、俺のせいだ」
初めからハッピーエンドのルートは無かった。シエルを救えば仲間達を、仲間達を救いたいならシエルを見捨てるしかなかった。
全てを救う方法はどこにも無かった。
少なくとも、このクソッたれな世界のルールの中には。
「……クロノはなるべくしてそうなったって言ってたよ。アーサーはみんなを取り戻して、本来あるべき姿に世界を戻した。多分、今回の事件はそれだけの事だって割りきった方が良いんだよ。そうしないとアーサーの心の方がもたない」
「結祈……」
本音を吐き出して、少しだけ心が軽くなった。
結祈の言葉で、少しだけ体に力が戻って来た。
本当に多くの人に支えられている。一つの事件が終わる度にいつも思う事だが、同時に自分の無力さも痛感していた。彼らが力を貸してくれる資格が自分にあるのか、常に疑問に思っていた。
今の自分に返せるものは何も無い。
出来る事といえば、精一杯の感謝を伝える事くらいだった。
「……いつも俺の事を考えてくれて、心配してくれてありがとう。でも俺が割りきれないってのも分かってるんだろ? 救えたかもしれない人を救えなかった。結局、今回の事件はそういうものだったんだよ」
割りきれないのなら、背負っていくしかない。『担ぎし者』なんていう肩書きがなくても、少年にはその選択肢しかなかった。例え記憶保持能力が無かったとしても、助けたくて助けられなかったあの女性を、記憶からも消し去る事なんてできやしないのだから。
きっとそれは辛い生き方だ。後悔も罪悪感も全てを自覚して生きるのは、心を締め付けて生き続けるようなものだ。復讐に身を堕としていた結祈には、それが痛いほどに分かっていた。
そのこと自体は自覚しているのだろうか。少年は哀愁の漂う背中を結祈に向けて、大きな犠牲と引き換えに取り戻した、仲間達の待つ世界へと戻っていく。きっと彼は傷ついた心を隠してみんなの前では笑うのだろう。
思わず、結祈はそんな背中に声を掛けていた。
「それで、アーサーはこれからどうするの?」
「……いつも通りだよ」
対して。
アーサーは、振り返らずに答えた。
「何回躓いても、どれだけ惨めったらしく足掻き続けても……それでも俺は、前に進み続けるって決めたんだ」
停滞するのはもう止めだ。停滞を超えた先で、彼はそう決めた。
あの時、結祈も彼を立ち直らせようと言葉をかけた。
でも、もし、それがアーサーの枷になっているとしたら? 周りの期待に応えて進み続けた結果、どこかで溜め込んだモノが爆発して致命的な決壊が訪れる時が来るとしたら。その時、彼は人としての理性を保ったままでいられるのだろうか?
そんな言いようもない不安に押し潰されそうな少女の姿は、前だけを見据える少年には見えていなかった。
ありがとうございます。
次回、第一五章最終話です。