298 P.黒い炎のような何か
逃げたくなるような衝動を抑えるように、アーサーは腹の底から叫ぶ。
「『鐵を打ち、扱い統べる者』!!」
剣、槍、斧、矢。あらゆる武器を無数に自身の周囲に精製し、まるで軍隊を相手にしているような勢いで雨のように射出する。
この程度で『黒い男』を倒せるとは思っていない。だが不用意に恐れるのではなく、あの『黒い炎のような何か』の正体を正確に見極める必要があったのだ。もしかすると向こうはアーサーがこの力を使う事を知っている相手で、幻術か何かで再現している可能性もあったからだ。流石に手で触れて確認する気にはならないが、正体を掴むのはここから先の行動を考えるうえで重要な事だった。
無数の武器と『黒い炎のような何か』が衝突した事で、その答えはすぐに出た。
精製した武器は魔力で創られたものであり、右手で操っている以上アーサーにはどこにあるのか常に把握できる。『黒い炎のような何か』が幻術の類いなら突き抜けたはずだ。しかし今、確かに触れた瞬間に魔力の痕跡が消え失せる感覚があった。
(くそッ! 分かってはいた事だけど、正真正銘俺と同じ『消滅』の力だ!!)
確認を終えたアーサーの動きは早かった。後ろに下がりシエルの体を抱き寄せると『幾重にも重ねた小さな一歩』で遥か上空に跳ぶ。見下ろすように一瞬前までいた橋梁の様子を見ると『黒い炎のような何か』に覆われていた。それから一秒後のインターバル解除時に跳ぶ方向を定めるために周囲を見渡す。
しかし、その一瞬が致命的だった。何の前触れもなく突然『黒い男』がさらに頭上に現れたのだ。
(これはッ!?)
「相手との距離の『消滅』だ。失念してたのか?」
『黒い男』はすでに右手を振り上げている。攻撃に対処する時間も、インターバルを待つ時間も無かった。
(やるしかない! もう一歩先へ!!)
それしか選択肢が無かった。景色の良い上空からどこかの歩道に景色が再び変わる。傘を差した人々が傘も差さずにいきなり現れた二人を見てぎょっとしていた。しかしアーサーはそんな視線よりも、転移の連続使用のせいで心臓を鷲掴みにされたような痛みに耐えかねて膝を着いた。
「アーサー君!? ねえ、大丈夫なの!?」
突然胸を抑えて苦しみ出したアーサーを心配して顔を覗き込むシエルだが、アーサーの苦悶の表情を浮かべつつも目をしっかりと見開き、シエルを片手で制止しながら辺りを警戒していた。
「っ……問題、ない。それより、あいつは……ッ!?」
「ここだ」
当然のように追いつかれていた。いきなり現れたと思ったら倒れたアーサーに注目していた道を歩く人々の意識もその声の方に向く。
アーサーがこれ以上逃げられないのを分かっているのだろう。『黒い男』はわざわざ歩いて近づいてくる。確かにまだ転移で逃げる手段はあるが、七分という制限時間付きだ。しかも逃げた瞬間に追い付いて来るのだから、転移だけでは逃亡のしようが無い。
(戦うしかない。勝てないまでも、せめて逃げる時間を稼げるくらいにダメージを与えないと!!)
決断を下したアーサーの四肢が輝きを放つ。相対する両者を見て周りの人々もただならぬ気配を感じ取ったのだろう。最初に誰かが逃げ出したかと思うと、それに続くようにその場にいた全員が悲鳴を上げて周囲に散っていく。
「……『愚かなるその身に祈りを宿して』か」
「やっぱり俺の事を知ってるんだな。大方、この状況を予期してたクロノが用意してた刺客って所か」
「そしてお前も俺のこの力を知っている。超高速での高密度魔力の攻撃を主に置いたその力じゃ絶対に勝てない事も」
「……やってみなきゃ分からないだろ。『双撃・加速追尾投擲槍』!!」
アーサーの両手から高速の槍状の魔力弾が放たれる。その軌道を読まれないように何度も折れ曲がらせて、最終的に二発の『ジャベリン』は前方と後方から同時に襲い掛かる。
対して『黒い男』は前と後ろに『黒い炎のような何か』で壁を作って簡単に受け止める。まるで溶け込むようにアーサーの攻撃はいなされてしまう。
しかし壁を解いた時、『黒い男』はアーサーの体勢を見て首を傾げた。今の攻撃に対処している間、アーサーは右の拳を地面に叩きつけた状態で止まっていたのだ。しかも四肢に纏っていた魔力が消えている。
「……まさか」
何かに気づいた『黒い男』が足元を見た時にはもう遅い。アーサーの行動はすでに完結している。
(全てを『消滅』させる力を全身に纏っている状態? なるほど確かに無敵だ。でもその性質上、必然的に出来てしまう穴がある)
一つは目。もしそこまで『消滅』の力で覆ってしまうと、今まさにアーサーの行動を見落としたように全てが見えなくなってしまう。
そして、もう一つは。
「食らえ! 『大蛇投擲槍』ッ!!」
ゴッッッ!!!!!! と『黒い男』の足元から巨大な『ジャベリン』が飛び出して来た。
彼のもう一つの穴は足の裏だ。そこを『消滅』で覆ってしまうと、彼は永遠に地の底に落ち続けてしまう事になる。
視界と足の底。無敵に思えた『消滅』の唯一と言っても良い弱点を突いて、アーサーは何とか一矢報いた。
「よし、シエルさん!!」
『黒い男』が『ジャベリン』に吹き飛ばされている間に、アーサーはシエルの手を掴んで再び『幾重にも重ねた小さな一歩』で跳ぼうとした。
「っ、ダメ! アーサー君!!」
しかしシエルの目線がアーサーの背後に向いているを見て、アーサーは確認もせずに右手に『妄・穢れる事なき蓮の盾』を展開させて後ろに伸ばした。
結論から言ってほとんど意味は無かった。アーサーを攻撃して来たのは『消滅』の力を持つ『黒い炎のような何か』で、魔力で出来た盾など何の意味も無かったのだ。
その攻撃から二人の窮地を救ったのは先程撃った『ジャベリン』だった。転移される事を嫌った『黒い男』の攻撃は精密さを欠いており、その僅かな差が盾で体が隠れた二人を救い、腕を掠める程度のダメージに抑えたのだ。
「……即座に弱点を見抜いて反撃した。そして目前の死を紙一重で回避する。本当に『担ぎし者』の死ねないって部分が一番の呪いだと改めて思い知るよ。もし『雷』系の魔術を使えたらやられてた」
彼が言っている意味をアーサーは理解していた。もし『雷』系の魔術を使えたら、わざわざ『ジャベリン』を使うという回りくどい真似をしなくても、足元に溜まった雨水を伝えさせて攻撃する事ができたのだ。
「……ッ、くそ……今ので隙もできないのか」
アーサーは肩を押さえながら恨みがましく呟く。しかし傷口は肩から手首の辺りまで続いており、しかも斬られたりした訳ではなく、僅かとはいえ肉を抉り取られたのだ。出血の量が激しく、すぐに右腕は真っ赤に染まる。
対抗手段は―――無い。戦闘時間は僅かだったが、すでに万策尽きた。未来をどうこう以前に、目の前の『黒い男』を倒せない。
「はぁ……、ッ」
重い息を吐きながら、アーサーは痛みを堪えて立ち上がった。
息は荒いし、大量の血液を失ったせいか立ち眩みもする。体にも上手く力が入らず、気を抜けばすぐに倒れてしまいそうだ。
しかし、それでも少年は立ち上がる。
理由はただ一つ。背中に庇う一人の少女を守るために。
「……絶対に諦めない」
「だろうね。知ってる……よく知ってるよ」
『黒い男』は容赦なく『黒い炎のような何か』が纏わりついた右手を振り下ろす。対してアーサーはボロボロの右手を前に突き出した。今度は表面が抉り取られるだけではなく、右腕を完全に失ってしまう予感があった。
直後。
バジィッ!! という接触があった。
そう、接触したのだ。
アーサーの開いた右手は『消滅』せず、『黒い男』の拳を受け止めていたのだ。
「な、に……!?」
『黒い男』に初めて驚愕が現れる。そしてその驚愕はアーサーの方にも現れていた。
何故そのような事が起きたのか、それは『黒い男』が拳を離して後ろに飛び退いた時に分かった。
『黒い炎のような何か』がアーサーの右手に揺らめいていた。理性を保ったまま、彼はほんの一部分だけその力を体現していた。
どうして今、そのような事が起きたのかは分からない。もしかしたら相手に『消滅』の力を使われた影響で、彼の内に眠っていた力が共鳴して一部分が表に出てきたのかもしれない。しかし理由はどうあれ、彼に対抗できるかもしれない力が手の中にあるのは紛れもない事実だ。
「「まったく、これだから『担ぎし者』ってのは……」」
意図せずアーサーと『黒い男』の言葉が重なった。右手が抉り取られる寸前でこの力が発現した事でアーサーは生き延びたのだ。死ねない呪いという話がいよいよ現実味を帯びてきている。
だけど、今だけはその呪いに感謝した。
これで彼の手の中に、シエルを護れる力が備わったのだから。
アーサーは掌だけに現れていた『黒い炎のような何か』を右腕に昇らせていく。それで肩口まで抉られた傷を『消滅』の力で傷を負った事実ごと消滅させる。出来るかどうかは分からなかったが、自分の傷を消すくらいの事は出来るようだった。
一応、全身に『黒い炎のような何か』を移動させて纏わせていくが『黒い男』とは全く違う装いになった。イメージとしては体から少し離れた位置で、不規則に炎が揺らめいているような状態だ。その揺らぎに応じて守れる場所や守り切れない穴も不規則に動き、どうにも安定しない。攻撃に使おうとすれば他は無防備になるだろうし、少し『愚かなるその身に祈りを宿して』に似た力だと思った。
アーサーはそこまで確認を済ませると、再び右手に『黒い炎のような何か』を集中させて後ろのシエルに声をかける。
「……シエルさん。今度は走って逃げる。準備をしてくれ」
「走ってって……」
「転移じゃ逃げられないし、この力が発現した時に状態が解けた。唯一の対抗手段を引っ込めて、効かなかった魔術を使う気にはなれない。だから手を」
左手を伸ばし、半ば強引にシエルを引いて立たせると『黒い男』とは逆方向に走り出す。どうせ距離の『消滅』で一瞬で追いつかれるのは分かっていたが、今度は右手の『黒い炎のような何か』がある。カウンターを叩き込む事も、また攻撃を防ぐことだってできる。
しかし走っている途中、少しだけ振り返って違和感に気づいた。『黒い男』は移動する訳ではなく、右手を前に突き出したまま何かをしていた。目を凝らしてよく見てみると、彼の掌に黒い球体が形成されているのに気づいた。
「っ!? まずい、シエルさん!!」
「えっ……きゃっ!」
アーサーはシエルの手を強引に引っ張って抱き寄せた。突然の行動に困惑しているシエルだったが、アーサーはそれに気づく余裕すら無かった。
その瞬間、『黒い男』の右手から集束魔力砲のような極光が放たれる。おそらく集束魔力砲を『黒い炎のような何か』で再現した技なのだろう。しかしその威圧感は集束魔力砲以上のものだった。
シエルは思わず息を詰まらせた。それほど濃密な死の感覚が目前に迫って来ていると感じたのだ。
対してアーサーは怖いくらいの形相で右手を前に突き出して叫ぶ。
「―――『深淵よりも穢れた蓮の盾』ッ!!」
透明な花弁のような盾を展開する技。しかし今、その盾は漆黒に染まっていた。本来の精練されたような輝きはそこにはなく、ドス黒い何かで穢されたような盾だった。
直後、同種の性質を持つ『砲』と『盾』が衝突する。
最初の衝撃には耐えられた。しかし持続的な押し込まれる力にアーサーの右腕は早くも弾かれそうになっていた。
完璧に使いこなされた力と、漏れ出た程度の限定的な力。勝負は火を見るよりも明らかだった。
(……くそッ、これは本当にまずい……っ!!)
シエルを抱きしめていた左手を離し、右手を掴んで踏ん張る。しかし焼け石に水だ。もう数秒と耐えられる気がしなかった。
その数秒、アーサーは頭をフル回転させていた。この数秒で生き残るために出来る事を考える。しかし打開策は何も思い付かない。仮に思い付いても即座に自分で却下する作業が続いた。
「……この、身は……っ」
だからその言葉は無意識の内に漏れていた。
頭ではなく魂が、その言葉を口に出していたのだ。
つまり。
「―――この身は祈りは届くと示す者」
盾の全体に亀裂が入ったのと同時、明確な変化がアーサーの体にあった。両目の虹彩は深紅色に染まり、右腕のみに纏っていた『黒い炎のような何か』が先程よりもずっと強い濃度で全身にまとわりついていく。
「う、ぉ……ァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
彼の雄叫びに合わせるように、突き出していた盾が修復されて最初よりも巨大になる。そうして今度こそ『黒い男』の攻撃を受け止め切った。そしてすぐに盾が小さくなったかと思うと、アーサーは右手の前に先程の『黒い男』と同じような黒い球体が形成されていく。
今度はこちらの番だった。
「『た■その■■を■け■■めに』ァァ―――!!」
音すらも『消滅』させ、無音の極光は『黒い男』へと迫っていく。
しかしいくら集束させたといっても、そもそもの『黒い炎のような何か』の総量が違う。『黒い男』は前に出した手の前に体が隠れるほどの大きさで『黒い炎のような何か』を展開して簡単に受け止めてしまった。そして酷くつまらなさそうな口調で、
「そこまで力を引き出すのは予想外だったけど……その状態はあと何秒持つ? 理性は今にも飛びそうなんじゃないか?」
「ッ……」
『黒い男』の言う通りだった。髪の白い部分が増えていく毎に、一秒一秒過ぎる度にアーサーの意識の線は細くなっていた。
だけど、対抗できる力はこれしかない。今のアーサーにはこの不安定な力にすがるしかなかった。
アーサーは先程までよりも総量の増えた『黒い炎のような何か』の全てを、再び右手の一ヵ所に集める。それが開いた手を覆うように一回り大きな手として広がっていき、やがて五指が延長して五つの鋭い刃になって止まる。
「コレデ終ワラセル!!」
すでにアーサーの髪は半分以上が白く染まっていた。声には彼のモノじゃない、地の底からの呻きのようなものが混じっている。
あと数秒で完全に理性が飛ぶのは分かっていた。それでも最後の一瞬まで、彼は戦う決断を下した。移動に使う『消滅』の力も全て攻撃に転化させたので、『黒い男』に向かうのは彼自身の足だ。
だんっ!! と強く地面を蹴って彼は飛んだ。
まるで『愚かなるその身に祈りを宿して』の時に使う一点集中の攻撃のように、彼は全身全霊の力を振るいながら叫んだ。
「―――『消滅・貂熊斬撃爪』!!」
もう、視界は針穴のように細くなっていた。
でも僅かな視界に捉えている敵目掛けて、斜めに右腕を振るった―――直後だった。
どッ!! という衝撃が突然真横から襲って来たのだ。
視界が狭まっていたアーサーにはそれが何か分かっていなかった。歩道の脇のショーウィンドウを割って店内へと吹き飛ばされる。
さらにもう一人、店内に人の気配が飛び込んで来た。その人物はアーサーを取り押さえて身動きが取れないようにする。
「……ったく、無茶な戦い方だな」
「だっ、れだ……!?」
不思議な事に、彼に捕まれると体の力が抜けていく。それに伴い『黒い炎のような何か』も完全に消え、アーサーの髪と瞳の色は元に戻っていた。そして視界が戻った事でアーサーは自分を取り押さえていた者の正体を知る事になる。それは自分とそう年齢の変わらない黒髪の男だった。
「落ち着いたか? ほら、さっさと立て」
呆然としているアーサーの腕を強引に引っ張って立たせる黒髪の男。どことなくアユムと同じ雰囲気を感じる。しかし初対面であるのは間違いなかった。
「アンタは一体……」
「まさかアンタがこのタイミングで出てくるなんて思わなかったよ」
アーサーが疑問を投げかけようとすると、外からの声が重なって打ち消された。
アーサーが離れた今、シエルを殺すには絶好の機会のはずだ。それなのに『黒い男』はシエルではなく乱入者の男に意識を向けていた。しかし何故か、距離を詰めようとはいない。あくまで外側から声をかけるだけで、同じ空間に入るのは拒んでいるようだった。
その行動に黒髪の男はわざとらしく肩をすくませながら、
「俺がいたら不都合か? なら一旦退いてくれ。コイツと話をする時間が欲しい。話し合いの結果次第なら、お前の目的に近づくかもしれないぞ?」
「……あまり長くは待てないぞ」
最後にそれだけ言い残して、なんと『黒い男』はあっさりと退いてしまった。『消滅』の力での移動だろうが、本当に近くには気配を感じなかった。
「アーサー君!!」
「シエルさん……」
『黒い男』がいなくなったのを確認したのか、シエルが荒れ果てた店内へと躊躇わずに入って来た。そしてすぐにアーサーに駆け寄ると、傷の有無を確認するためか体をぺたぺたと触り始める。
「怪我は無い!? アタシを守ってくれたのは嬉しいけど、お願いだから無茶はしないで!!」
「それは……ごめん。でも突然だったし、二人とも無事だろ?」
「それは結果論でしょ!? あんなのに突っ込んでいくなんて、見てる事しかできないアタシには心臓に悪すぎるんだから! ……だからお願い、アーサー君。アタシの代わりにキミが死んだら、もうどうして良いのか分からないの……無茶は、止めて」
「……それで、結局アンタは何者なんだ?」
シエルの懇願から逃げるように、アーサーは視線を男の方へと移した。質問に答えなかったのは答えを出せなかったからじゃない。出した答えがシエルの意にそぐわぬものだったから話を逸らしたのだ。
強引過ぎたし気づかれているだろうが、男はシエルではなくアーサーの方の意志を尊重して話を続ける。
「じゃあ自己紹介からだな。と言っても、お前は俺の事をすでに知ってるだろうが」
そんな風に奇妙な前置きをしてから。
黒髪の男は、種明かしをするようにさらりと告げる。
「ローグ・アインザームだ。一応、初めましてだな。アーサー・レンフィールド」