297 P.大きな運命に囚われた者達
雨が―――降っていた。
アーサーの今の心を表しているかのように、寒々しい冷たい雨だった。
そんな曇天の空を仰いで、アーサーは溜め息交じりに静かに思う。
(……本当に、この世界は……運命ってのはどこまで……)
あれから何度か転移を繰り返し、今は景観を良くするためだけに作られたと見られる土手に掛けられた橋梁の下に隠れていた。
追手の気配は無いので、とりあえずは逃げ延びたと考えて良いだろう。アーサーは警戒を解いて橋の下に戻る。そこには橋梁の柱に背を預けたまま、体育座りで額を膝に着けて微動だにしないシエルがいる。
アーサーは彼女に何と声をかけて良いのか分からなかった。そもそも彼自身だってまだ困惑しているのだ。未来のために死ななければならなかったなどと言われた彼女のショックは計り知れない。
そうして、どれくらい経った頃だろうか。
「……どうして?」
ぽつり、と呟いた声が聞こえて来たのは完全に陽が暮れて大分経ってからだった。アーサーは人工的な河の流れから後ろのシエルへと視線を移す。
「……キミはアタシを殺して未来を元に戻すのが目的なんでしょ? それなのに、どうして助けたの……?」
赤く泣き腫らした目は真っ直ぐアーサーを睨んでいた。呼び方も最初の頃に戻っている。明らかな敵意がそこにはあった。
アーサーは重い溜め息を漏らしながら、
「確かに俺がここに来た役目は未来を修正する事だ。クロノがシエルさんを殺せば元に戻るって言うなら、それは間違いなく正しい解決策なんだろう」
一歩、シエルの方に踏み出すと彼女は怯えたように震えた。
アーサーは一瞬だけ近づくのを躊躇したが、すぐに歩みを再開する。やがて目の前まで近づいたアーサーは腰を落としてシエルと目線を合わせた。
「……それでも嫌なんだ」
ずっと目を逸らしていたシエルはアーサーの顔を見て、そこで初めて彼が今にも泣き出しそうな顔をしている事に気づいた。
「だってシエルさんは何も悪い事なんかしてなくて、優しくて良い人で、一緒にいると落ち着いて……そんな人がどうして死ななくちゃいけないなんていう結論になるんだよ! 受け入れられる訳ないだろ、そんなの!!」
叫んでから冷静さを欠いている事に気づいたアーサーは、頭に上った血を下げるために少しだけ時間を置いてから続ける。
「……ここに来る前、未来である人に言われたんだ。迷った時は心の中のコンパスに従えって。だから俺はシエルさんを殺さない。シエルさんが死なないまま未来を救う方法を導き出す。俺は何があっても友人は見捨てない……何があってもだ」
「……でも、根本的には関係ないでしょ? アタシは過去の人間で、キミは未来の人間。それなのに嫌だからなんて理由で、どうして……ッ!?」
「関係無くなんかない。それでも出会ってしまったんだ……あなたと」
アーサーは自分の想いをシエルに対して真摯に伝えた。彼女からの返答を待つ間、彼は一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
しばしの間、激しい雨音だけが鼓膜を叩く。
「……信じて、良いの?」
期待が込められた眼差しには、今までのシエルには無かった年相応の子供らしい不安の色も混じっていた。
だからアーサーは子供を安心させるような柔らかい笑みを浮かべて、右手でそっと頭を撫でた。
「信じてくれるなら絶対に見捨てない。信じてくれないなら勝手に助ける。どっちにしろ、俺が取る行動は何も変わらないよ」
「……強引な人だね、アーサー君は」
くすりと笑ったシエルの雰囲気は柔らかいものに戻っていた。アーサーは彼女の頭から手を離し、それを手に取れるように差し出す。
「とりあえず移動しよう。流石に一ヵ所に長居し過ぎた。雨が降ってるのは不便だけど、逆に足取りが掴みにくいはずだ。適当な屋内に転移するから掴まって」
「……なんか、妙に手慣れてるけどアーサー君って何やってる人?」
「そういえば言ってなかったっけ? 『ディッパーズ』だよ。世界最強のヒーロー集団のリーダー。こんなのは日常茶飯事だから、まあ今回も最後には何とかするよ」
シエルが伸ばした手に掴んだのを確認してから引っ張って立ち上がらせる。服に付いた砂を払い落としながら元の落ち着いた状態で、
「ちなみにアタシがこんな心配するのもなんだけど、アタシを助けて未来はどうするの?」
「何とかする」
「でも追手だっているし、アタシを殺すしか方法は無いんでしょ?」
「……何か方法を考える」
「つまり具体策は何も無いって事だね。了解、じゃあアタシも考えるよ。他でもないアタシの問題でもある訳だし、『時間』に関する研究はずっとやって来たから」
「頼もしいよ。俺の友人はみんな、こういう時に力を貸してくれるから」
今度は静かに『その担い手は運命を踏破する者』を発動させて転移の準備を始める。
しかし、その時に気づいた。
誰か一人、何者かがこちらに近づいて来ている事に。
弾けたように横を向いたアーサーに釣られるようにシエルも同じ方向を向いた。
そこにいたのは、黒い何かだった。おそらく男なのだが、頭の先から爪先まで全身に『黒い炎のような何か』が纏わりついていて何も分からないのだ。そしてその正体を、アーサーは嫌というほど知っている。
「……アーサー君」
「静かに。俺の後ろに下がって」
シエルから手を離して、彼女を庇うように前に出る。目の前の誰かが纏っている『黒い炎のような何か』がアーサーの想像通りなら、それでも壁となるには不十分なのは分かっていた。
それでもアーサーは前に出た。今まで感じた事の無い恐怖が心を蝕んでいくのを理解しながら、ただ後ろの女性を守るために。
「……アンタの狙いは?」
「お前の後ろの女の命」
質問を投げかけると理性を持った声が返って来た。それは意外だったが、だからといって脅威が変わる訳ではない。狙いがシエルの命となればなおさらだった。
決意を改めて固めるように、アーサーは拳を握り締めて敵を睨む。
「やらせるとでも?」
「……そうだな。お前はそういうヤツだった」
一定の距離で彼は足を止めた。近くで見て確信に変わるが、彼の体に当たる雨は弾けていない。そこで消えてしまっている。
その力の正体は『消滅』。アーサー自身あまり記憶にないが、過去に二度使った事のある力だ。魔力に依存せず、あの『黒い炎のような何か』に触れたモノは全てこの世から消滅する。その力を行使した事があるからこそ、誰よりも目の前の脅威を理解していた。
そして同時に疑問が浮かぶ。
自分と同じ力を完全に使いこなしている、目の前のコイツは誰だ、と。
「……お前、誰だ……?」
「お前自身の運命だ。ほら、踏破できるものならしてみろよ」
彼の体から『黒い炎のような何か』が放射状に広がり襲い掛かって来る。
触れたら終わり。
打開策も何も無い、大きな運命との戦いは突如として始まった。