295 P.『特異点』の正体
結局、二人はあれから一睡もしないまま朝を迎えた。そしてフィリアとアインハルトが起きたタイミングで朝食を食べるために外へと出て来ていた。入る時こそは厳重な警備体制があるものの、逆にその厳重さゆえに出て行く者への警備は甘い。子供の二人がいても問題無く外へと出られた。フィリアとアインハルトが勝手に動くと危ないので、アーサーが保護者の役割で二人の手を取って大通りの歩道を歩く。
向かうのはシエルが行きつけのパン屋だ。この時間が丁度焼き立てらしく、コーヒーも美味しいらしい。できればシエルのコーヒーと合わせて食べたかったが、次の一杯は未来に戻ってからと決めたのは自分なので我慢する事にした。
「どうにも、職業柄外食が多めになるのがネックだね」
近場だからか白衣を着たまま出てきたシエルは、溜め息交じりにそんな事を言い始めた。
「……いやいや、それ一四歳の言葉に聞こえないから」
まったくもって年相応に見えないシエルの言葉にアーサーはすぐに突っ込んだ。しかしシエルは自分の頬に手を添えながら、
「でも同年代の子よりも徹夜とか頻繁にしてるし、肌荒れとかも酷いと思うし……」
「いや、シエルさんは十分に綺麗だろ。そんなに気にする必要無いと思うけど」
「……、」
「あれ、シエルさん?」
数歩進んでから隣を歩いていたシエルが立ち止まっていたのに気づいて振り返った。フィリアとアインハルトも不思議そうに眺める中、シエルは呆然とした顔で口を開いた。
「綺麗って……アタシが?」
「他に誰がいるんだよ……」
アーサーの言葉に嘘は無い。友人という贔屓目無しに見ても、シエルは気にする必要がないほど美人だ。美人で優しくて頭が良いと来れば、他にモテない理由が思い浮かばない。コーヒーを淹れる腕は確かだし、きっと料理も上手いだろうし今は出来なくても練習を重ねればかなりの腕前になるはずだ。フィリアとアインハルトとの関係も悪くないし、子供嫌いという訳でも無さそうだ。
「俺から見てシエルさんは間違いなく美人だし、将来は良い奥さんになると思うぞ?」
思ったままを口にしただけなのだが、それがマズかったらしい。シエルの顔が茹でダコのようにみるみるうちに真っ赤に染まる。すると両腕を二人の少女に引かれて意識を下に向けた。
「レン兄って、もしかして女の敵?」
「ん、同感」
酷い言われようだった。あくまでアーサーは自信を持っていないシエルに自信を持ってもらおうと思い、思った事を正直に伝えただけなのだ。それを女の敵などと言われて責められるいわれはなかった。
「二人してなんだよ……。なあ、シエルさんもそう思うよな?」
顔を上げてシエルの方に意識を戻して気づいた。先程まで固まっていたシエルが目の前から消えていたのだ。正確には視界には捉えていたのだが、それはこちらに背を向けて走っている彼女の姿だった。
彼女が何に向かって走っていたのか、アーサーも遅れてすぐに気づいた。
フィリアよりもさらに幼い、四歳児くらいの少女が道路に飛び出していたのだ。おそらく道路を横断しようとしていた猫を追いかけたのだろう。だがタイミングが悪い事に、少女が飛び出したのは車が横切ろうとしたタイミングだった。
それに気づいたシエルは飛び出し、少女の体を抱きしめて動きを止めた。しかし彼女が動けたのはそこまでだった。目の前に迫る車の迫力に圧されたのか、少女を強く抱きしめたまま車の方に背を向けて守ろうとしていた。
「くそっ、シエルさん!!」
まずい、と思った瞬間には駆け出していた。しかしそれでも明らかに間に合わない。一瞬でそう判断したアーサーは走りながら『その担い手は運命を踏破する者』を発動し、『時間停止・星霜世界』で時を止めた。
シエルさんと少女に向かっていた車がピタリと止まり、アーサーだけが制止した世界の中で動き続ける。停止時間は三秒フラット。二人を抱きかかえて車の正面から逃れる時間は流石に無いと判断し、突き飛ばす方向にシフトしてヘッドスライディングのように飛び込み、予定通り二人の体を突き飛ばして何とか車の正面から外す。
(ま、間に合った! これで……)
安堵したのも束の間、停止した時が動き始める。
二人を突き飛ばした所までは良かったが、今は逆にアーサーが車の正面に身を出した形になっている。このままでは二人の代わりにアーサーが死ぬ。優しいシエルはきっと気に病んでしまうだろう。
それだけは、絶対に嫌だった。
(ッ、くそ!! 『愚かなるその身に祈りを宿して』、『蜜穴熊装……ッ!?)
ゴッ!! という重たい衝撃が直後に襲いかかった。時速四〇キロ以上の運動エネルギーが、まるでピンポン玉のようにアーサーの体を吹き飛ばす。二回ほどバウンドするように飛んで行ってから、ようやくアーサーの体は停止した。
「まっ……たく」
ごろりと仰向けになってからの第一声はそれだった。
体中に痛みはある。しかし寸前で『蜜穴熊装甲』の展開が間に合ったため、全身を魔力でコーティングして守れたので見た目以上にダメージは無い。内臓や呼吸器系も問題無いし、骨が折れている様子も無かった。
「やれやれ、目を離すとすぐにこれか。流石『担ぎし者』だ。未来の私の苦労が垣間見える」
いつの間に現れたのか……なんて彼女に対して思うのは無駄だろう。仰向けのアーサーからは反対に見える顔でクロノが見下ろしていた。
アーサーはどこか安心したような溜め息を吐いて、
「クロノが来てくれるのがもう少し早ければ良かったって思うよ」
「それでもお前は生き残った。本当に不憫に思うよ。お前達の最大の呪いは、絶対に生き残る運命だとな」
「さいで」
確かに生き残ってしまうのが呪いではないかという指摘には概ね納得だが、今はその話題を語らうつもりはなかった。なにせ体は痛むし、遠目で自分を撥ねた運転手や突き飛ばされた事に気づいたシエルが、ピンピンしているアーサーを見て驚いた顔でこちらを見ているのだ。先に向こうを対処しなければならないだろう。
「何をしてたとか、未来は今どうなってるのかとか聞きたい事はいくつかあるけど、ちょっと向こうを対処してくる。後で聞かせてくれ」
「いいや、そういう訳にもいかない。こちらにも『時間』が残っていないからな」
「は……?」
振り向いた時にはクロノは行動に移っていた。彼のような紛い物ではない。正真正銘、本物の力で世界の時が止まる。
どうして彼女が今、そのような行動に移ったのかアーサーには分からなかった。しかも……。
「アーサー君!? 思いっきり轢かれてたけど動いて大丈夫なの!? それにこれって……」
「ああ、うん。心配する気持ちはありがたいし分かるんだけど、ちょっと待ってくれ。今すごい大切な話があるような雰囲気だから」
「で、でも……ッ」
「直前で身を守ったから俺は無傷、この状況は時が止まってる状態。詳しい説明は後でするから、本当にちょっとだけ待っててくれ」
心配している相手をぞんざいに扱うのは正直気が引けたが、クロノの話を聞くために詰め寄って来るシエルを抑えて集中する。するともう一人この停止した世界で動く人物がいた。彼は空を飛んで来たのか、ゆっくりと近くに着陸した。
「アユムさんも来たのか」
「まあ、重要な局面みたいだしね。……それに嫌な予感がする」
「止めてくれよ。アンタの悪い予感は当たる気しかしない」
「そろそろ話しても良いか?」
四人が集まった所で、それを待っていたかのようにクロノが声を発した。自然と三人の視線がクロノに集中する。
「結論から言おう。『特異点』の正体が分かった」
「っ、本当か!?」
「ああ、どこの誰で今どこにいるのかも分かっている。教えようか?」
「ああ、頼む!」
それはアーサーにとって、今回の事件を一気に解決に近づける値千金の情報だった。期待に胸を膨らませて次の言葉を待つアーサー。
クロノはアーサーの期待通り、すぐに情報を明かした。
ゆっくりと腕を上げて、人差し指を真っ直ぐアーサーに向けて、
「お前だ」
「……は?」
最初、言葉の意味が分からなかった。
その様子を見かねてか、クロノは念押しするように、
「アーサー、お前が『特異点』だ。お前自身が過去を変えたんだ」
停止した時の中で奇妙な表現かもしれないが、一瞬、アーサーは確かに時間が止まっているような錯覚を覚えていた。
本当に、意味が分からなかった。
いや、本当は意味は分かっている。しかし心がクロノの言葉を飲み込もうとしていなかった。
彼がちゃんとした言葉を発せたのは、少し時間を置いてからの事だった。
「……ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺が『特異点』? そんな訳ないだろ。俺は過去が変わったからここに来ただけで、そうじゃなかったら来てないんだ。これじゃ前後がバラバラだろ!?」
「お前がここに来なければ問題は起きなかったが、問題が起きなければそもそもお前はここに来なかった……と言いたいんだろ? これで少しは死にたいと思った『私』の苦悩が理解できたか? 『時間』は色々と厄介だろ?」
「……ッ」
その言葉は目の前のクロノから発せられているのか、それとも彼女を通して一○年後のクロノから発せられているのかは分からなかった。
けれど一つだけ断言できる。今の彼女の言葉には一つも嘘偽りの類いは無いという事だ。彼女がアーサーを『特異点』だと言えば、誰が何と言おうとそうなのだ。
「……俺が過去に来た。それ自体が問題だったっていうのか……?」
「いいや、違う。問題はあるアクションだ。お前が良かれと思っての行動が、全てを終わらせたんだ」
「……、何の話を……」
聞き返す声には疑問だけではなく、隠しきれない警戒の色があった。
何がマズかったのか、何となく想像はついている。その想像は断じて認められるものではないが、アーサーの思考は考えるのを止めてはくれなかった。
視線をアユムへ逸らすと彼も同じような想像に至っているようだ。いや、彼の場合はこの場に来た時にはすでに思い至っていた可能性すらある。
思わず、右手に力が入るのが分かった。
それを確認しながら、クロノはアーサーの後方で困惑している少女に視線を移して言い放つ。
「肝心の原因は今さっき、本来なら車に轢かれて死ぬはずだったその女を助けてしまった事だ。そのせいで未来が変わった」
無意識にだが、アーサーはクロノの位置からシエルが見えなくなるように体を移動していた。右手は相変わらず握り締められたままだ。
「……どうしてシエルさんなんだ?」
「その女は将来『新人類化計画』を促進する。お前の仲間が消えたのはそのせいだ。すでに三人しか残っていないらしいぞ?」
「じゃあ今ここでシエルさんに『新人類化計画』に関わらないって約束して貰えば全部解決って事で良いのか?」
「無駄だ。どうせ忘れる。未来から来たお前が関わった時点で、この時代の人間はこの件を忘れる。世界は都合よく記憶を改変する」
頭が熱くなって行くのを感じるアーサーとは対照的に、坦々と疑問に答えるクロノに迷いは無い。
アーサーは答えを何となく予想しながら、忌々しげにどっと息を吐いて尋ねる。
「じゃあ前置きはもう良い。どうすれば止められるか早く教えてくれ」
「簡単だ。予定通りにその女を殺せば即座に全てが元に戻る」
返って来たのは想像通りの答えだった。そして、それは同時に考え得る最悪の答えでもあった。
「さあ選べ。一人の命か、他の全てか」
「……、」
究極の選択を前に、アーサーは何も答えずに弱り切った顔でアユムに視線を向ける。
「……知ってたのか?」
「悪いね。きみが『担ぎし者』ならその出会いに偶然は無い。それは全て運命に導かれた必然だ。……きみが過去に来て出会った三人の内、誰かがこういう状態に置かれるのは分かってた」
「……人の事は言えないけど、やっぱりアンタの嫌な予感は当たるんだな」
「悪く思わないでくれ。ぼくらはそういう運命の中で生きてるんだ」
「……まったく。コーヒーをおかわりしておくべきだった」
別にアユムを恨む訳ではない。それでは単なる八つ当たりだ。
どうしようもないこの状況。しかしアーサーが今まで通りの信念に従うなら、ここから先の選択肢は一つだけだ。
「ちなみに未来の私から伝言だ。『お前の選択は分かっている。だが今回だけは諦めてくれ』」
「……っ」
行動を起こそうとした瞬間、釘を刺された。
先を全て読まれている。クロノ一人なら力尽くで抑えつけて突破できるかもしれないが、アユムも相手になるなら話は別だ。彼の『物体掌握』は魔力に依存していない『この世のモノでは無い力』だ。アーサーの右手は通じないうえに、戦闘経験でも圧倒的に上を行かれている。一対一ならまだしも、シエルを庇いながら退けられるとは思えなかった。
「あはは……そっか」
アーサーが色々な考えを巡らせていると、後ろから投げやりな声が聞こえて来た。
振り返るとシエルはぎこちない笑みを浮かべていた。
「アタシが死ねばそれで全部解決なんだね。そっかそっか……つまりアーサー君は、アタシを殺すために未来から来たって事なんだね?」
「……シエルさん、俺は……」
今の言葉でアーサーの中の答えが決まった。
そうだ。そもそも、迷う必要なんて最初からどこにも無かったのだ。『ディッパーズ』として以前に、消えていった仲間達や『時間』を超えてここに来た意味を思い返して、アーサーは思い直した。
選択を済ませたアーサーは視線をアユムの方に戻す。
「……アユムさん。俺がいなくなったら、フィリアとハルの事を頼む。まだ幼い二人には、ちゃんと育てて導いてくれる人が必要だ」
「最善は尽くすと約束するよ」
そのやり取りでアユムの雰囲気が少しだけ柔らかくなった気がした。アーサーの言葉を聞いて、戦闘になる事が無いと思ったのが原因だろうか。
そしてアーサーはシエルの方に向き直り、彼女の正面に立って言い放つ。
「……すまない」
絞り出した謝罪の言葉。
しかし、それはシエルに対する謝罪であっても、これから殺すという意味での謝罪ではなかった。
「―――『その担い手は運命を踏破する者』!!」
瞬間、アーサーから魔力の波動が溢れ出る。
突然の魔術の行使にアユムが警戒を再び高めるがもう遅い。アーサーは目の前のシエルの体を抱き寄せると、即座に『幾重にも重ねた小さな一歩』を発動してその場から消え失せたのだ。
そう、迷う必要なんてどこにも無かった。
目の前で理不尽に命を奪われようとしている誰かがいるのなら、助ける事を躊躇する理由はどこにもなかったのだ。
こうはならないと思っていても、やはり僅かに可能性は考えていたアユムは小さな溜め息を吐いた。対して近くのクロノはさして驚きもしていない。まるでアーサーがこういう行動に出るのを知っていたうえで、あえて見逃したようでもあった。
「あれ……?」
時が動き始めて、すぐに歩道で少女の声が漏れた。
一連の流れを全く理解していない少女は、突然消えてしまった温もりを探しながら続けて呟く。
「レンはどこ?」
ありがとうございます。
という訳で、アーサーが世界を終わらせた張本人だったという答えでした。
つまり今回の物語は、過去の改竄を修正するのではなく、修正すると失われる命をどう救うのか模索する話という訳です。
では次回は未来側の話、その次はアーサーの逃亡劇になります。