293 P.深夜の親睦
すでに『ポラリス王国』の空は真っ暗だった。
あの後、シエルに案内されるまま彼女の研究室に向かい(流石に子供二人を連れていたのでアユムの力で姿は見えないようにしていたが)何とか辿り着けた後。アーサーはシエルに対して全てを打ち明けた。
この時代で何かが変えられて未来が変化し、多くの仲間を失った事。それを修正するために過去に来たが、原因までは突き留められていない事。新しい来訪者が来た時に、自分達を見つけたみたいに居場所を探し出して欲しい事。その全てをだ。
そして今、説明を終えた頃にはすっかり夜も更けていたので、彼女の研究室に泊めて貰う事になったのだ。アユムだけはシエルを信用しきれていないためか、別の場所で過ごすと言って出て行ったが、他の三人はありがたくその申し出を受け入れた。
「……、」
しかし、彼は眠れなかった。常備されていた寝袋を借りたのは良かったのだが、当然眠れる訳がなかった。
元々不眠症なのもあるが、彼はようやく再開できたと思った途端に多くの仲間を失ったのだ。こちらに来た時間は未来よりも早い朝だったので、実際には丸一日以上は経っているが気にならない訳がない。もしこうしている間にも何かが起きてしまえば、未来はもっと暗いものになるかもしれないのだ。そう思うと動いていないだけで不安に駆られる。
(……ダメだな、これは)
起きるには大分早いが彼は諦めて目を開いた。外はまだ暗い。しかし研究室の中には明かりがあった。その明かりに照らされているのは、一人でパソコンに向き合うシエルの姿だった。
「……まだ起きてたのか?」
起き上がって声を掛けるとシエルは手を止めて振り返った。
「あっ、アーサー君。もしかして起こしちゃった……?」
「いや、俺は不眠症だから。眼は瞑って体は休めたから大丈夫。それより何やってたんだ?」
「今日聞いた話を忘れない内にまとめてたの。中々聞ける話じゃないから」
ちらりと見ると、音が出ないようにシリコン製のキーボードを使っていたらしい。
「……ありがとう、シエルさん」
「ん? 何が?」
「まあ……色々だな。俺の話を信じてくれたり、ここに泊めてくれたり」
ソファで身を寄せ合うようにして眠るフィリアとアインハルトの二人を見ながら、アーサーは柔らかい表情で言う。それを見ながらシエルも釣られて笑みを浮かべながら、
「気にしないで。アタシだってアーサー君に未来の話を聞けた訳だし。実は夢だったの、未来から来た人に話を聞くのって」
(……本当に良い人だな。運が良かった)
シエルとの会話を重ねてアーサーの中での評価はうなぎ登りだった。過去には仲間がいないと思っていた分、その反動が大きいのも理由かもしれない。
「眠気覚ましにコーヒーを淹れるけど、アーサー君もいる?」
「貰うよ。コーヒーは好きだ。知人からはますます眠れなくなるからって紅茶を進められてるけど」
「助言は無視?」
「好きなものはしょうがない」
アーサーの返答にシエルはくすくすと笑いながら席を立つと、カップを二つ出してコーヒーを淹れ始めた。しかもインスタントではなくドリップだ。ほどなくして独特の良い匂いが鼻孔を刺激する。
「はい、お待たせ」
手渡して来たカップを受け取り、匂いを楽しんでから口に含む。正直言って今まで飲んだ事のある中でもダントツに美味く、やはり寝起き(?)のコーヒーは最高だと改めて思う。
「……めちゃくちゃ美味い」
「ありがとう。……それにしても、未来の修正ってのもそうだけど、過去を改竄して未来を変えたっていうのは興味深いね。アタシの予想では不可能って結論だったんだけど」
「ん? どういう事?」
「仮説は二つ。まず一つ目から説明するね」
アーサーがカップから口を離して首を傾げると、シエルはカップを机に置いてホワイトボードの前に移動した。
マジックで横に一本直線を引き、等間隔に黒い点を三つ書く。そして左から『一〇年前』『一〇年後』『一〇年後+α』と書いた。
「過去に戻って何をしても、元の時間に戻った時には何も変わらないの。まず時間の流れは不変ってのは良い?」
「一応補足するけど、俺、数秒だけなら時を止められるぞ?」
「でもアーサー君の時は進んでるでしょ? 一人でも動き続けてれば、世界の時は動き続けてるって事になるの。ここまでは良い?」
「……なるほど。理解はできてる」
あくまで時を止めているというのはアーサーの主観だ。使用すれば世界とアーサーの時間がズレるが、確かにアーサーが動いていれば世界が完全に止まったとは言えない。今まで全く考えた事のない解釈だが、確かにそう考える事もできる。
「時間旅行の考え方は、その時の進みが重要なの。アーサー君が一〇年前の過去に来たとしても、アーサー君が一〇年後の世界にいた事実は変わらない。そして時の流れが不変である以上、アーサー君が一〇年後にいた時間は過去になって、今アーサー君が一〇年前のいるこの時間が現在になるの。この赤いマジックの線がアーサー君の動きね」
赤い線が山なりに『一〇年後』から『一〇年前』に移動する。これはアーサーの時間の動きを表している。つまり今だ。
さらにシエルは赤い線をさらに大きく山なりに描いて『一〇年前』から『一〇年後+α』へとペン先が移動する。
「そして、例えアーサー君が一秒の誤差もなく一〇年後に戻ったとしても、『一〇年後』『一〇年前』『一〇年後+α』っていう時の流れは変わらない。そして時の流れが変わらないから、未来は変わらないって事なの」
シエルの言っている仮説を理解する事はできた。ただし同時に疑問も湧き出る。
「……でも、人は現在の行動で未来をより良くできるだろ? 未来は分からないんだからさ」
「ええ、確かにね」
「ってことは、やっぱり未来は変えられるんじゃないか? 今の俺達の行動で、未来を良い方向にも悪い方向にも」
「……そうね、そういう考え方もある。だから仮説二を思い付いたの」
ホワイトボードに書いた今の線を全て消すと今度は上下に二つの並行線を引く。そして左端にそれぞれAとBと書き、線Aの上にペンをぐりぐりと動かして点を書く。
「まずアーサー君がいた『一〇年後』がここ。そして今いる『一〇年前』が……」
点から線を移動させる。しかし先程のような山なりではなく、直線で斜め左下に引いて線Bと交差した所でぐりぐりと点を書いた。
「ここ。アーサー君がいたのは『世界線A』で、今いるここが『世界線B』。世界が違うから何をしてもそれは『世界線B』にとっては既定路線なの。仮にアーサー君が来た時と同じ方法で『一〇年後』に戻って変わったように見えても、それは『世界線B』であって実際は何も変えられてない。それどころかアーサー君は元の『世界線A』に戻れなくなるかもしれない」
「……」
仮説二は仮設一よりもゾッとする内容だった。ここで何をしても無意味などころか、元の世界に戻れないなど洒落にならない。これは心を落ち着けてどうにかなる問題のようには思えなかった。
その不安が態度に出ていたのだろう。シエルはこちらを安心させるように肩を竦めてから、
「まあ、どちらにせよアタシの仮説は科学に基づいてるから。アーサー君が来た手段が魔法によるものなら、アタシにも全ては分からない。現にアーサー君達の未来は変わっているんでしょう?」
「……ああ、だからもう一度変えるんだ。より良い方向に」
そうだ。クロノは『魔神石』二つ分の力を使っていた。それに『時間』に関する事で彼女が今の二つの仮説を見過ごすとは考えにくい。知っていたうえでここに送ったのだと信じるしかない。
「実は仮説三もあるんだけど……」
「まだあるのか!?」
「ん……」
思わず声が大きくなってからしまったと思った。口を押えてソファーの方を向くが、フィリアが身動ぎをしただけで起きてはいないようだった。
アーサーはホッとしてから改めてシエルに訊ねる。
「それで、仮説三は?」
「これは一言で説明できるよ。アーサー君が過去にいる事も全て世界の既定路線。だから何も心配はいらないってこと」
「それは……複雑だな」
それはアーサーの天敵である運命に敗けているのと同義だったからだ。有体に、何をしても無意味だと突き付けられているような気分だった。
何とも言えない気分を紛らわせようと再びコーヒーに口を付ける。少し冷めてしまっていたのもあって、一気に喉に流し込んだ。
「もう一杯どう?」
「ありがたく貰うよ」
空になったカップを渡すと、再びコーヒーを淹れてくれる。その背中にアーサーはふと疑問に思った事を投げかけた。
「ところで、シエルさんはどうして研究者になったんだ?」
「ん? うーん、一番は好きだったからかな。アタシの研究がいずれ未来の人達のためになるって信じてるから。そういうアナタは?」
「俺?」
「うん。過去まで来て何のために戦ってるの?」
「俺は……自分のためかな」
その答えが意外だったのか、シエルが振り返ってアーサーの方を見た。彼はその視線を真っ直ぐ受け止めながら肺の空気を吐き出して、
「……大切な人達と、その周囲の世界を守りたい。もう二度と何も失いたくないから、俺は戦い続けてる。いつも仲間に心配かけてるのは知ってるし、異常者って呼ばれるまでもなく自覚はしてるけど……正直辞めるつもりはない。何もしないで失うくらいなら、どんなに辛くても抗うって決めたから」
「そう……気持ちはちょっと分かるかな」
コーヒーのドリップの方に視線を戻してから、シエルはこちらに背中を向けて言葉を続ける。
「アタシも研究、研究、研究でロクな話し相手もいないから。研究は楽しいから良いんだけど、やっぱり同じ歳の他の子と比べるとおかしいって分かってる」
「……まあ、何となくだけど気持ちは分かるよ。俺も戦って、戦って、戦い続けてきた。ある人によれば呪われてるらしいんだけど、それでも俺は逃げられたのに自分の意志で戦って来た。それで誰かを守れると信じて」
「そう……なら似た者同士ね、私達」
「ああ、でもこれだけは言える。俺達は間違ってなかったって」
アーサーが言い切ると丁度コーヒーを淹れ終わったようだった。差し出された湯気が立ち昇るカップにお礼を言いながら手を伸ばす。しかしシエルはアーサーが掴んだ後もカップを離さなかった。
「……ねえ、アーサー君。一つだけお願いがあるんだけど……」
「お願い?」
色々良くして貰っているので、むしろ何でもどんとこいという心持ちだったのだが、正面に立つシエルは緊張した面持ちで僅かに顔を赤くしていた。それから意を決したように目を閉じて強張った顔で告げる。
「良かったらっ、私の友達になってくれない!?」
それがどれだけ勇気を振り絞った言葉なのか、シエルの様子を見れば明らかだった。目はぎゅっと瞑っていてカップを持つ手は震えているし、断わられるのが怖いのか体も小刻みに震えていた。
「……俺は、今回の件が終われば当然一〇年後に帰る。ずっとここにはいられない」
断わり文句のような言葉にシエルの体がビクッと震えた。
しかし、アーサーはふっと笑みを浮かべたまま続けて、
「だから戻ったらすぐに会いに行くよ。シエルさんの友人として」
「ぇ……」
最初、シエルはアーサーの言葉を飲み込むのに時間がかかっていた。
やがて彼の言った意味を理解すると、強張ったままの筋肉と嬉しさを合わせたようなぎこちない笑みを浮かべた。
「……その時はアタシ、二四歳か……何か複雑な気分」
「友達に年齢は関係ないよ。身内には五〇〇歳だっているくらいだし」
そこでようやく手放されたコーヒーカップを傾けて口に含む。再び温かくなったそれは食道を取って熱を体に伝えていく。
口を離して、彼は一言。
「やっぱり美味い」
「もう一杯飲むなら準備するけど?」
「いや……」
立ち昇る湯気からシエルの方に視線を移して、アーサーは何かを決意したように続けてこう言った。
「次は『向こう』で貰うよ。約束だ」
「……うん、分かった。もっと美味しくなるように頑張るから、楽しみにしててね」
ちっぽけな約束だけど構わない。
こういう理由があった方が頑張れると、彼は自分自身の事をよく知っていたから。