284 二つの別れと二つの約束
「……なんか、凄いなあ。こんなの『アリエス王国』以来だ」
アーサーは今、すっかり修繕されて元通りになっていた国王の謁見の間にいた。それも似合わない黒い正装に身を包んで、だ。
すでにオーガストを打倒したのは数日前の出来事だ。あの後すぐに無茶を通り越して動き回ったツケを払う事になったアーサーは意識を失った。目を覚ましたのもついさっきで、軽くシャワーを浴びて着替えさせられ、流されるままここに呼ばれたのだ。おそらくこの場で今一番状況を飲み込めていない自信がある。
「……っていうかこの場にいるほとんどの人が誰か分からないんだけど。っていうかこれ、何のパーティー?」
「王女就任パーティーですよ、レンさん」
呟いた言葉に反応が返って来たので後ろを振り返る。するとそこには、腰に赤いリボンを巻いた薄い黒のドレスを身に纏っているネミリアがいた。そしていつも被っているキャスケットタイプの帽子の代わりか、黒いカチューシャを頭に付けている。
「体調はどうですか?」
「三日も寝てたからな。むしろ体が痛いよ」
「それだけ疲労が蓄積していたという事です。あのまま死んでしまう可能性もあったんですから、今後は自重して下さい」
「まあ、善処するよ」
苦笑いを浮かべてした曖昧な返事に、ネミリアはやや怒った様子でジト目を向けてくる。
「嘘が下手過ぎます。レンさんがどれだけ言っても無茶をする人だという事はよく知っていますから」
「よく知ってるって……」
「記憶を戻す際、レンさんの記憶と『共鳴』したんです。わたしは貴方の仲間以上に貴方と一緒にいたんですよ?」
ふわりと笑ってネミリアは言う。
その様にドキッとしながら、本当に感情が芽生えたのだと思う。メアが託していった約束の一つは、いつの間にか果たされていたようだった。
「レンさんの過去を知る前は、魔獣やギリアスに躊躇なく向かって行く無謀な人だと思っていました。ですが『リブラ王国』の事件で挫折して、夜の草原で叫ぶあの姿を見て、貴方はただ単に停滞しない事を選んでいるだけなのだと分かりました。たとえ、記憶がなくても」
「あれも見られてたのか……。我ながらみっともなかっただろ?」
あの時、アーサーは立ち直るために心の内にある想いを全て曝け出した。ただあそこまで言えたのはあの場に一人っきりだったからだ。その星空への誓いを見られていたという事が恥ずかしくなり、誤魔化すように頭を掻く。
しかし、ネミリアは首を横に振って、
「いいえ、そんな事はありません。どんな時も諦めず、頼りになる貴方にも弱い所がある。そして貴方に貰ったわたしの心が、今度はそんな貴方の心を守りたい、そう思えました。その感情は、きっと無駄なものだとは思いません」
「ぁ……」
あの時の自分をそんな風に肯定されて、思わず変な声が漏れた。
いつも他人の命と心を守る側だと思っていた。だからこそ、誰かのために自分の命を簡単に投げ出して戦って来れたのだから、それは彼なりの長所なのだろう。
しかし同時に短所でもある。その生き方は周りの仲間達に心配ばかりかけ、誰かを守れなかった時は自分の力の無さを悔いる事になる。
その結果があの無様な停滞だった。そして停滞の果てに、二度と止まらない事を決めた。たとえどんなに過酷な運命に直面しようと、どれだけ自分を犠牲にしようと。
だけどそんな自分を、スゥはレン・ストームを、ネミリアはアーサーを守りたいと言ってくれた。いつも守るはずの立場の自分を、そんな風に。
「……いつの間にか、そんな風に豊かな感情を持ってたんだな。俺のおかげって言ってくれてるのに自覚が無いのがあれだけど……ありがとう、ネミリア。そんな風に思ってくれて嬉しいよ」
「ふふ、どういたしまして」
笑みを浮かべてどこか誇らしげに返事をするネミリア。
その表情を見て、アーサーはふと思いついた事を口に出した。
「……なあ、ネミリア。その……もし良かったらなんだけど、この後『ディッパーズ』に来ないか?」
自分でも突然だと思う提案に、それを言われたネミリアは大きく目を見開いて、
「それは……スカウトという意味ですか?」
「まあ、端的に言うとそうかな。メアとの約束もあるし、このままお別れって言うのも寂しいから」
自分でも突然だと思う提案に、それを言われたネミリアはしばしの間大きく目を見開いて困惑していたが、やがて申し訳なさそうに、今にも泣き出しそうな顔で俯いて、
「……お誘いは本当に嬉しいです。ですが……わたしは帰ります。『ポラリス王国』でお母さんが待っているので」
「母親がいたのか……」
「ええ、まあ。製造者と言った方が正しいのかもしれませんが。ですがわたしの記憶の断片にはお母さんの優しい笑顔が残っています。……きっと、そうだったんです」
「ネミリア……」
今の様子に違和感があった。母親がいるから帰ると言っているのに、その母親と喧嘩でもしているような、そんな奇妙な違和感だった。
でも、アーサーは喉まで出かけたその違和感を口には出さなかった。血の繋がった家族がいないアーサーにとって、『ディッパーズ』は唯一残った帰るべき我が家だ。自分がそこへ帰ろうというのに、ネミリアのそれを邪魔する権利など無いと思ったのだ。
「……また、会えるかな?」
代わりに期待を込めて聞いてみたが、ネミリアは曖昧な笑みを浮かべて、
「……どうでしょう。会えたら良いとわたしも思いますが、今回の事件に関する記憶はきっと消されます。次に会った時は、また他人からのスタートです」
「他人って……」
「いつもそうです。レンさんが気にする事ではありません。……では、さよならです」
ぺこり、とお辞儀をしてネミリアは振り返って去っていく。
「ネミr……」
手の伸ばしながら名前を呼びかけて、彼女としていた約束を思い出した。
ナイトメアと呼ばれていた少女にメアという名前を与えた時、ネミリアにも良いのを考えるという一つの約束を。
だから。
「―――ネム」
突然呼んだその呼称に、歩いていたネミリアの足が止まる。
そして、振り返った。
「……わたしの、ことですか……?」
「ああ、前にネミリアのも考えるって約束しただろ? ずっと考えてたんだ。それで合歓木の花がさ、根元が白っぽくて先端が桃色で、丁度ネミリアの髪と同じで綺麗なんだ。だから略称に良いと思ったんだけど……どうかな?」
「髪……」
ネミリアは自分の髪を手繰り寄せてぎゅっと握る。そうして顔を赤くしながら俯いた。
「……わたし、自分のこの髪が嫌いだったんです。お母さんが、いつも違うっていうから……」
よく見れば、ネミリアは泣いていた。突然の事にアーサーは面食らうが、ネミリアは涙を拭う事もなく顔を上げた。
「でも……レンさんが綺麗って言うなら、わたしも好きになれそうです。……ありがとう、ございます……」
「……そっか。気に入って貰えて良かったよ」
離れていった分、アーサーはネミリアの方に近づいていく。
きっと泣いている今のネミリアは、パーティーという場にはふさわしくないのだろう。だが、それでもアーサーは感情を込められているその涙を綺麗だと思った。
アーサーはネミリアの頭に手を置いて、優しい手付きで髪を梳くように撫でる。
「もう一つ約束をしよう。次に会った時にネムが全部を忘れてても、ネムが俺にしてくれたみたいに、今度は俺がネムの記憶を取り戻す。絶対にだ」
「……はい。レンさんになら、頼めます……。また、会いたいですから……」
そのまま、アーサーはネミリアが落ち着くまで頭を撫で続けた。
きっとまた会える。そんな『希望』を抱きながら。
◇◇◇◇◇◇◇
他の人に泣き顔を見せたくないと言って、ネミリアは会場から出て行った。今夜この国を発つとの事だったので、おそらく今回の『ピスケス王国』で会う事はもう無いだろう。
それでも約束ができた。それだけで、先程までの別れの悲しみは無かった。
「あ……いた」
今度はアーサーの方から知り合いを見つけた。少し近くでラプラスとクロノがグラスを片手に雑談していたので、アーサーはそちらの方に向かう。
ラプラスは襟から肩を覆う辺りまでのフリルの付いた、体のラインがよく分かるタイトの紫色のドレスを。クロノは肩や首筋を完全に出して、スカートがフリフリの黒い少し派手なドレスを身に纏っていた。
「ラプラス、クロノ」
話しかけると少女達はこちらに目を向けた。しかしラプラスはどこか責めるような目を、そして隣のクロノはその様子に呆れたように溜め息を吐いた。
「えっと……俺なんかしたっけ?」
「……ネミリアさんと話をしてたみたいですね。それも何だか良い雰囲気で」
「へ……?」
いきなり不機嫌なラプラスの調子に、間抜けな顔で馬鹿野郎はクロノの方に助けを乞うような目を向けた。すると彼女は再び溜め息をついて、
「……まあ、お前が目を覚ますまでずっと張り付いていたのに、当の本人は散々心配させたくせにいつも通りの調子で他の女とイチャコラしてた訳だからな。不機嫌にもなるだろうさ」
「……」
流石に弁明のしようもなかった。クロノの話を聞けば、一から一〇まで全部自分が悪いと分かったからだ。
これはほとぼりが冷めるまで待ってから土下座一択だなあ、と遠い目で思っていると、こちらに歩いてくる人影があった。その少女が歩く先にいた人達は自然と道を開ける、つまりこの場でそれほどの大物。その条件に当てはまる知り合いは、この場に一人しかいなかった。
「……何をやっているのだ、お主達は」
「まあ……ちょっと色々あって。触れないでくれると助かる」
こちらも呆れたような調子なのは、やはりアーサーが原因なのだろうか。
現れたのはこのパーティーの主役、アクア・ウィンクルム=ピスケスだった。
オーガスト・マクバーンを打倒し、世論による支持や『セレクターズ』の結果も含めて見事王女になる事が出来ていたのだ。
一つの要因としては、アーサーがラプラスに頼んだある事が理由でもあった。アーサーはオーガストの元に向かった時、別行動していたラプラスとクロノは街である話を広めていたのだ。内容は『ピスケス王国』を襲った魔族とアスクレピオスなる『一二神獣』を倒したのはアクアの制御された魔法で、国全体を守るための障壁はスゥがその身を削って展開していた、というものだった。『未来観測』を用いて最も効率がよく確実に世論に影響を及ぼすように話が流れる細工はしたが、それでも二人が死力を尽くしていたのは事実だ。アーサーがした事はありのままを伝えたに過ぎない。全部二人の力だ。
ただし、そう思っていたのは少年の方だけで、肝心の少女は未だに疑問を抱えているようだった。
「おめでとう、アクア。まあ、納まるべき所に納まったって感じかな?」
「馬鹿を言うな。お主の尽力のおかげだろう? 民の抱いていた妾達の悪い印象を変え、文句を言わせないために『セレクターズ』でも資格を勝ち取っていた。お主には感謝しか無いが……一つだけ疑問もある」
そうして、ずっと気になっていた事をアーサーに投げかける。
「お主が色々と手回しをしていたのは分かった。だが最後のあの瞬間、妾やスゥの力が無くとも、お主は一人でもオーガストを倒せたんじゃないのか?」
その問いにアーサーは一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに小さく笑った。
笑みを浮かべたまま、彼は答える。
「それでもアクアが倒さなきゃダメだったんだ。だってここはアンタの国で、女王はアンタだろ? アクア・ウィンクルム=ピスケス」
結局、今回の物語はアクア・ウィンクルム=ピスケスが己の立場を、スゥシィ・ストームが大切な友達を取り戻すための物語だったのだ。
主役はあくまで二人の少女で、アーサーとクロウは偶々それぞれの少女の傍にいただけの脇役だ。だからこそ、アーサーは最後の瞬間はああしようと考えていたのだ。
今度、驚いたように目を見開いたのはアクアの方だった。
「……だから皆、お主を助けようとするのだな」
「いつも助けられてばっかりだよ」
「ああ、だろうな。しかし妾が今言った皆というのは、きっとお主の頭にすぐ浮かんだ相手では無いと思うぞ?」
「?」
訳が分からずアーサーが首を傾げると、アクアはふっと笑って、
「一昨日、妾が正式に王女になったと発表してすぐ、ある国々から同盟の提案があった」
「同盟って……」
「表向きには公表されていない、秘密裏に結ばれた王達による同盟集団『シークレット・リーグ』。構成員は『タウロス王国』のアリシア・グレイティス=タウロス。『アリエス王国』のフェルディナント・フィンブル=アリエス。『カプリコーン帝国』のルーク・フォスター=カプリコーン。『サジタリウス帝国』のダイアナ・ローゼンバウム=サジタリウス。『スコーピオン帝国』のセラ・テトラーゼ=スコーピオンだ。全員、覚えがあるんじゃないか?」
「……ああ、よく知ってるよ」
その中でも特に、ダイアナ・ローゼンバウム=サジタリウスの名前がある事に驚いた。こんな形で無事を知れるとは思っていなかったし、国に戻って王女となっているのだからなお驚きだった。
「バレた時のために対外的には未熟な新国王同士で助け合おうという同盟だが、この同盟の結成にお主が無関係な訳がない。最初は『タウロス王国』と『アリエス王国』だったというしな」
「……それで、アクアはどうしたんだ?」
「すぐに加入を表明した。これで『アクエリアス王国』を挟む形で六つの国が同盟を結んだ事になる。次の『一二宮会議』は慎重にならなくてはな」
言っている事こそは面倒そうだが、その雰囲気は今の状況を楽しんでいるようだった。そしてアーサーはアーサーで、多くの人に支えられているのだと改めて再認識した。
「そういえばクロウは来てないのか? アクアの晴れ舞台を見逃してるとは思えないんだけど」
キョロキョロと見回してクロウを探すと、目の前でアクアは大きな溜め息を吐いてどこか残念そうに、
「……あやつにそんな甲斐性は無い。オーガストを倒したあの後すぐに消えた。……だが、心配はしておらんぞ? 妾達は契約で繋がっているからな、いづれ必ず再開できる」
「……、もしかしてアクアって……」
言いかけてすぐに思い留まった。
今のアクアから感じた小さな違和感をわざわざ口に出すほど、アーサーは空気を読めないつもりはなかったからだ。
「(どうして私のマスターは人から人への感情には敏感なのに、人から自分への感情には鈍感なのでしょう……)」
「(これはもう遺伝子の問題だと割り切って諦める方が良いんじゃないか? こういう手合いはさっさと気持ちを伝えた方が良いと思うが)」
「(……それは恥ずかしいので無理です。心臓が破裂してしまいます)」
「(お前の核は『魔神石』だろうが問題無いっていうか妙な所で小心者が残っているないい加減面倒くさいぞおい!)」
後ろで何やらごそごそやってる気配は感じていたが、アーサーはラプラスとはほとぼりが冷めるまでそっとしておくと決めているので意図的に無視した。
「それより、お主にはクロウ以上に会いたい相手がいるんじゃないか?」
すっと横に視線を移したアクアにつられるように、アーサーも視線を移す。
そこにいたのは、恥ずかしがっているのか顔を赤くして俯いていた少女だった。
肩に紐のかかった落ち着いた感じの水色のドレスに身を包んだスゥシィ・ストームは、アーサーの方に近づいて来る。
「……えっと、似合ってるかな?」
「ぁ……ああ、うん。似合ってると、思う……」
思わず見惚れたせいで答えに詰まってしまった。でも答えに偽りは無い。アーサーの目にはスゥが特別輝いているように見えていた。
(……いや、これは俺じゃなくてレンの気持ちか……?)
そう考えた直後、鋭い痛みが頭に走った。
記憶を失っていた時の自分と戻った自分の感情に上手く折り合いがつかない。ネミリアの『共鳴』が強引過ぎたのか、あるいは折り合いがつかないほど自分の思考が異常なのか、それとも全く違う別の要因なのか。
「……」
アーサーはギリアス・マクバーンに使ったあの力を覚えている。全てを『消滅』させる黒い炎のような何かを。
発現したのは二度目。前は怒りに全てを任せていてほとんど何をしていたのか分かっていなかったが、今回は自分で自分を見ていたような感覚だった。今まで無意識に使わないようにしていた力が、レン・ストームとして記憶が無くなっていたから発現してしまったのだろう。
あの後、アーサーの意識はおぼろげでネミリアによって記憶を戻して貰った。もしかすると、その時に何かしらの不具合が生じたのかもしれない。
「……大丈夫、レン君?」
考え込んでいたアーサーを心配するようにスゥが顔を覗き込んで来た。それでアーサーも思考を振り払う。
「大丈夫。寝すぎてまだ本調子じゃないだけだから」
「それなら良いけど……無茶しないでね?」
「……ああ」
その心配がくすぐったくてアーサーは目を逸らした。するといつの間にかアクアの姿が消えていた。それだけでなく、ラプラスとクロノも。
まるで、何かのお膳立てをされたように。
「ねえ、レン君。ちょっと外に出ない?」
スゥは深呼吸してから告げる。
断る理由は何も無かった。
◇◇◇◇◇◇◇
パーティー会場から離れて二人でテラスに出ると、一層『アリエス王国』の時を思い出す。ただし今回隣にいるのはアレックスではなくスゥという違いはあるが。
ここからの景色は良かった。街も、湖畔も、戦いの跡も全てが一望できる。
「ありがとう、レン君」
景色からスゥの方に意識を移して答える。夜風に髪がなびいて深紅色の右目が見えるが、スゥはもう隠そうとはしなかった。
「レン君がいなかったら、今頃アクアも『ピスケス王国』も……」
「いいや、俺だけじゃない。みんながいたからだ。誰一人欠けたって、この結末は迎えられなかったんだ」
あの時集った七人は、紛れもない『ディッパーズ』だった。そしてあの七人以外の誰でも、ああ上手くは行かなかったとアーサーは心の底からそう思っていた。
「レン君らしいね。あっ、そういえば記憶が戻ったんだよね。私もアーサーって呼ぶべきかな?」
「いや、スゥにはレンのままで呼んで貰いたいかな。今更変えられるのも何か変だし」
そう願ったのは、多分、言葉に出した以上に自分のためだ。正確に言うなら、もうこの世のどこにも存在しないレン・ストームのため。
アーサーの気配から何かを感じ取ったのか、いくらかトーンを落とした声音でスゥは少し悲しげな顔で話を切り出した。
「……レン君は、この国を出て行っちゃうんだよね?」
アーサーだって分かっていた。これが避けられない道だという事くらい、分かっていたのだ。アクアを取り戻したから良いという問題ではない。スゥにとって親しい相手と別れるのは本当に辛いことなのだ。
「……ああ、すぐに出て行くよ。まだ『グレムリン』を完全に阻止できた訳じゃないし、俺が死んだと思わせてる仲間もいる。それになにより……俺はあそこに帰りたい」
「そう、だよね……」
言葉に詰まりながら返答したスゥは、見て分かるくらいはっきりと肩を落とした。
きっとスゥはアーサーの回答を分かっていながら、僅かな期待にすがっていたのだろう。理解していたとしても、それを上回る落胆が体に現れていた。
アーサーはそれを見ていられず、思わず顔を背けた。そして言い訳するように続ける。
「……きっと、俺がレン・ストームのままだったら残ってたよ。でも俺はアーサー・レンフィールドだから、ここで止まる訳にはいかない」
かつて言われたのだ。
助けた相手に対して責任を取れ、と。
ここで停滞する事は許されない、と。
それに今回の件でよく分かった。自分が記憶を失っていようと、世界はどんどん大戦へと近づいている。そのために多くの悲劇が撒き散らされている。
確かに『ピスケス王国』での一つの悲劇は終わった。だから今度は、次の悲劇を止めるために進まなければならない。アーサー・レンフィールドは、自分がそうしないといけないと分かっていたから。
でもそれはあくまでアーサーの事情だ。スゥには関係無い。
顔を正面に戻した時に悲しむスゥを見て、アーサーは思わず口を動かしていた。
「……でも、これが今生の別れって訳じゃないだろ? スゥとこれっきりってのは嫌だし。だから絶対またスゥに会いに来る。約束だ」
「……っ」
アーサーの言葉によほど驚いたのか、大きく目を見開いた。やがて嬉しそうに笑みを浮かべると、瞳から涙を零した。
「……レン君はいつも優しいね。優しくて、優しすぎるよ……」
「スゥ……? 何、を……っ!?」
それはまた突然だった。
両手が頬に添えられたと思った時には、顔を赤くしたスゥが目の前まで迫っていた。
結局、今回も避けられなかった。とはいえ、仮に避けられたとして避けていた確信はないが。
柔らかい感触が唇に触れる。その唇は今回もまた、少し濡れていた。でもそれは前とは意味合いの違う涙が理由だった。
悲しみではなく、喜びの涙。
だからだろうか。その唇は前より少しだけ熱く感じた。
「……これが私の気持ち。でも私が勝手に伝えたかっただけだから、返事はいらない」
唇を離したスゥは少しばかり大人びた態度でアーサーを上目遣いで見上げながら、心中を吐露する。
「代わりに約束だよ? 絶対にまた会いに来てね?」
そしてアーサーが何かを言う前に、スゥは駆け足で中へと戻っていった。
取り残されたアーサーはまだ感触が残っている唇に触れて思い出す。唇を離したスゥの顔は涙で濡れていたが、それが綺麗だとアーサーは思った。
記憶が戻った今は確信が持てないし、少し違和感があるが、レン・ストームはきっとスゥシィ・ストームの事が好きだったのだ。あるいはそれは普通の感情だったのかもしれない。
他人事のように思ってしまうのは、やはり記憶の統合が上手く行っていないからか。それでもやはり、アーサー・レンフィールドにとってレン・ストームは他人のようにしか思えなかった。
(……でもきっと、レン・ストームの方が幸せになれたんだろうなぁ……)
当たり前に恋をして、生きて、死ぬ。そんな普通の人生を歩けるのだろう。この国で、スゥがいればそれが可能だったはずだ。
そんな感傷を抱きながら、アーサーは夜空を見上げて星を仰いで息を吐く。
そして、意図的にその道から背いて別の道を往く。
傷つき、傷つけながら、何かを守る修羅の道へと。
ありがとうございます。
という訳で今回の章で登場した新ヒロインのネミリアとスゥですが、これでしばらく出番はおあずけなので(ネミリアに関してはこの後の話でも少し出てきますが)最後に見せ場を持ってきました。
スゥの力はとても強力なので、今後の『ディッパーズ』にとって頼りになる存在になるでしょう。ネミリアは次のフェーズの中心人物になって来るので、割とすぐに再登場の機会がありそうです。
あっ、クロウみたいな不死身キャラは簡単に無茶をさせられるので、さっさと再登場させたい所ですね。