276 ヒーローの帰還
それも『共鳴』の力の効果なのか、ネミリアは鋭敏に感じ取っていた。
先刻まであれだけ濃かった死の気配が消え去っている。
確実に世界が変わっていた。
『断開結界』が解除されたのが原因ではない。その変化の正体はアーサー・レンフィールドという一人の少年の有無だ。
魔力は使われていない。右腕や集束魔力よりも価値がある、その少年の本質に寄り添っている消える事の無い力。特別な何かをしている訳ではない。ただそこにいるだけで、悲劇を覆して希望を広げる働きを生み出す者。
安全地帯。
ヒーロー。
そういった見えない力を持っている者。
「レンさん……良かった、無事だったんですね」
「ネミリアも。何だか知らない間に随分と様子が変わったみたいだけど」
「あなたのおかげですよ。あなたに『共鳴』したから、わたしは心を持てたんです」
「……そっか。それは嬉しいな」
ふっと穏やかな笑みを浮かべて、しかしアーサーの右手だけは俊敏に動いていた。横に凪ぐように振られたその手は、いつの間にか迫っていたピクシーの魔力弾を消し飛ばしたのだ。
「……『天衣無縫・白馬非馬』。今の俺に不意打ちは効かないぞ」
「どうせお前には効かないだろ。奇妙な戦闘勘とやらのせいで」
答えたのはピクシーではなくスプリガンだった。心の底から忌々しそうに言われるが、アーサーの方は敵にそんな風に言われるのは慣れているので特に何も思わなかった。
「……やれやれ、私が忠告する必要もなさそうですね」
「いつまでへそ曲げてるんだお前は。口付けの一つや二つでごねていたら、ああいうヤツとは付き合えんぞ」
「……それは経験談ですか?」
「いや? ローグが生涯で心の底から愛したのは一人だけだ。そのせいで色々あったがな」
「それは羨ましい限りですね……」
彼の近くで二人の少女がそんな会話をしていた。というかむしろそっちの方がアーサーの心に響いていた。浮気が嫁にバレて詰め寄られている気分はこんな感じなのかな、と何となく思ったくらいだ。
とはいえ敵は魔族だ。耳を向けるだけならまだしも、目や意識までを完全に逸らしてしまう訳にはいかない。その気持ちは向こうも同じようだった。
「条件は何も変わらない。お前が戻って来ようが、殺してしまえば全て元に戻る」
スプリガンの物言いにアーサーは肩をすくませながら、
「随分と嫌われたものだな。俺は別に魔族嫌いって訳じゃないんだけど」
「調べたから知ってるよ。なにせ魔族の少女を妹にするくらいだからな。だがお前がどれだけ魔族を好きでも、俺達はお前の事が嫌いだ」
「そうかい……。でも、俺はお前らの想いを受け止めるつもりだ。俺の夢はその想いを超えた先にあるものだから、絶対に目を逸らさない」
言いながら、アーサーは右の拳を握り締めていた。
無意識になのか、それとも意図的になのか、しかし明確な敵対心を持ってアーサーは続けてこう言う。
「だけど、同時にお前らの野望は絶対に阻止する。科学の世界で生きてる人達を守るために、そして俺自身の夢と目的のためにも」
「だったら結論は変わらない。お前は俺達を倒すために、俺達はお前を殺すために、結局は戦いだ」
今にも戦いが始まりそうな気配がその場にあった。
しかし、一石を投じる言葉があった。
「……なぜ、お主はそこまでするのだ?」
その声はアーサーの後ろから発せられた。
この場で最もアーサー・レンフィールドとの関係性が薄いからだろうが、今まで沈黙を守っていたからこそ無視できない言葉だった。
「記憶が戻った今、お主に妾達を助ける理由はないはずだ。それなのに、どうしてそこまで……」
「……ホント、よく聞かれるよ。いつも思うんだけど、人を助けるのに理由が必要なのか?」
「誤魔化すでない! 妾を周りにはそんな人はいなかった! 自分をそこまで犠牲にして何かをしようとする者はいなかった!!」
「スゥはそういうタイプだと思うけど」
「スゥは戦う者ではなかった。だがお前は戦う者だ! あのクロウだって契約のために傍にいるだけで、何の利もないのに戦うのはお前くらいだ。その意味が妾には分からない!!」
「……、」
当然、アーサーは敵から目を逸らす訳にはいかない。
だから前を向いたまま静かに口を開く。
「……ずっと拳を握り締めて生きてるとさ、血も、肉も、骨も、精神も、俺の全部がボロボロにされる事が何度かあるんだよ。絶望に打ちひしがれて、希望も何も見えなくなって、全部諦めて、足を止めてしまいたくなることがさ」
そうやって、アーサーは『リブラ王国』の時に盛大に折れた。あの時は仲間達の言葉や行動によって立ち直る事ができたが、実際に折れたのはその一度だけではないのだ。
レインが死んだ時。
村が襲われてオーウェンが死んだ時。
ビビを虐殺された時。
フレッドがドラゴンを用いて大虐殺を行った時や、彼を殺した時。
魔族の奇襲で『アリエス王国』のエルフ達が殺されて行った時。
他にも、他にも、他にも。
誰かが死ぬ度、そして戦う度にアーサーの心は折れていたのだ。
ノイマンはまともなまま人を殺したアーサーを同類と言い、さらに自分よりも狂っていると言った。
でもそんなはずが無かったのだ。彼はいつだってどこにでもいるごく普通の少年で、その心と体を傷つけながらここまで来たのだ。
だけど。
「それでも立ち止まる訳にはいかないから、見栄とか後悔とか負けん気とか、そういうものを使って無理矢理自分を立て直すんだ。でもそのうちまたボロボロになって、また立て直して……そうやって何度も繰り返してここまで来たんだけどさ、何が起きても絶対に残ってるものが俺の真ん中にあるんだよ」
すっと、握り締めていた右手を解き、彼は意識的に胸のロケットへと持っていく。
「その想いが俺を突き動かすんだ。その手で守れるものを守れ、助けを求める相手を見捨てるな、妹達の祈りを届けろ……ってさ。そうやって辛くても歩き続けて、その先に俺が求めるものがあるって信じてるんだ」
きっと、こんな答えではアクアは納得しないのだろう。それはアーサーにも分かっていた。
だけど精一杯、アーサーなりに心を込めて答えた。そしてアクア達のいる方から敵の方へと足を進めていく。
「だから俺は戦うんだ。別に何かの強制力が働いてる訳でも、俺が絶対にやらなくちゃいけない訳でもない。ただ、俺がやりたいんだ。今はスゥを……この『ピスケス王国』を取り戻すために」
その後、アクアから声がかかる事はなかった。
アーサーは頭を完全に戦闘へとシフトさせていく。
「ラプラス、クロノ。それからネミリアも。今回は手を出さないでくれ。俺一人でやる」
「分かりました。ただ危険があった時は対処します」
珍しく、わざわざ釘を刺してたった一人、四人の傍から離れていく。そして敵と少しの距離を開けて足を止めた。お互いに射程圏内のギリギリの距離間で睨み合う。
向こうの気配も明確に変わって来た。鋭い敵意がアーサー一人に注がれる。
「『グレムリン』のスプリガン、こっちがピクシーだ。俺達は全ての科学を終わらせる。さあ来い、アーサー・レンフィールド」
「俺は『ディッパーズ』のアーサー・レンフィールドだ。行くさ」
応じるように言いながら、アーサーは魔術を使うために動いていた。
『天衣無縫』でありったけの自然魔力を集め、それを全身に広げていく。それも均一にではなく、四肢の先の四か所にだけは集中して集まっていた。まるで『シャスティフォル』のように。
今までは無かった新たな力。
それを、力強く叫ぶ。
「『愚かなるその身に祈りを宿して』!!」