272 幻影から成る現実
魔法の『断開結界』。それは青騎士やアーサーのように周囲の様子が変わる訳でもなく、発動前となんら変わらない世界がそこにはあった。
だけど、何も起きていないはずがない。相手が魔法である以上、次に起きるアクションを想像する事はできない。アクアとネミリアは敵を見据え、次のアクションに備える事しかできない。
「俺の魔術は幻影を生み出す『幻影投射』。幻影である以上、そこに攻撃力は無い。できるのは精々相手の隙を生み出したり、目隠しに使う程度。だけど」
それはあくまで魔術の枠組みの中での話だ。常識の通用しない魔法では話は変わる。
「『幻影昇華』。この世界で生み出した幻影は現実になる―――例えばこんな風に」
心持ちは十分だったはずだ。
それでも、スプリガンの起こしたアクションは想像の遥か上を行った。
変化の原因は、彼女達の背後。振り返って見てみると、湖の底から蠢く巨大な何かが上がって来たのだ。大量の水飛沫を撒き散らし、身が震えるほどの咆哮をあげて湖上にその姿を現したその正体を、彼女達は一つの言葉でしか言い表せなかった。
「……龍、だと……!?」
『タウロス王国』の地下に眠っていたような、二足歩行できる姿ではなかった。胴体が長く頭から尾まで一直線で、巨大な蛇のような姿だった。
アクアは再び振り返り、スプリガンの方に銃の形にした手を向けて叫ぶ。
「何をする気だ、お主らはァ!!」
「……目的ならもう話したはずだ」
対するスプリガンとピクシーは動かない。まるでその必要は無いと言うように。
「全ての科学を終わらせる。……誰に邪魔をされようと、必ずだ」
すぐにスプリガンの周囲にゴリラと狼に似た、しかし真っ赤に目が光る魔獣が数匹現れた。おそらくそれらをスプリガンは『断開結界』が続く限り永遠に生み出す事ができるはずだ。
相手のテリトリーの中では絶対に敵わない。早々に判断を下したのは頭に血が昇っているアクアではなく、冷静に今の戦況を読んだネミリアだった。アクアの腕を掴み、念動力の力で空を飛んで木々の生茂る森の方へと離脱を計る。
「なっ、ネミリア!? 戻れ、あやつらを放置する訳には……ッ!!」
「冷静になって下さい! 『断開結界』が発動している内は彼らには勝てません。一時的に離脱するのが最適解です!!」
「しかし……ッ!!」
「逃がさない」
と、二人が言い争っていると突如目の前に巨大な壁が現れ、空を飛んでいた二人は激突して地面に落ちた。グラつく頭を押さえながらネミリアは手のひらを壁に押し付け、振動させて一部分を破壊して穴を作った。
「アクアさん、立って下さい! すぐに逃げないと……っ!?」
地面に倒れたアクアに手を伸ばしていると、木々の隙間を縫うように移動して無数の小さな魔力弾が飛んでくるのを捉えた。
「くっ……!?」
すぐに念動力の壁を作って魔力弾を防ぐ。しかし何とか受け切った所でネミリアの体が弾かれた。彼女の念動力は本来このような防御に使う事は考慮されていないので、むしろ受け切った事の方が奇蹟なのだ。
「逃がさないと、これも言ったはずだ。アーサー・レンフィールドに繋がるお前達は、絶対にここで始末する。不安要素は残さない」
そこにはいつの間にかスプリガンが立っていた。
想像が全て現実となる世界。どこに現れてどこへ消えるのかも思い通りといった所か。
「……、レンさんがそんなに怖いんですか?」
「そりゃ怖いよ。世界がこうなったのは、彼が『人間領』に侵攻した魔族を殺したのが原因だ。それ以降も『アリエス王国』や他の国でも大暴れ、しかも事前情報は何も無しに突然この国にまで来てる始末。呪いか何かかは知らないけど、魔族にとっては最大の脅威だ」
「……それでも彼は、力の限り戦って来ただけです」
ゆっくりと立ち上がり、まるでどこかの少年がここにいたら同じ事をすると分かっているような形で、アクアを庇う形でネミリアは両手に念動力のオーラを纏わせた状態で前に立つ。
「レンさんには思惑は何もありません。ただその時、正しいと信じた事をしているだけです。勝手に彼を脅威に感じるくらいなら、こんな事はしないで下さい」
「それとこれとじゃ話は別だ。そもそも先に仕掛けて来たのはそっちだぞ、科学の犬め。『グレムリン』は俺達の正当な反撃だ」
別にスプリガンは『オンリーセンス計画』の事だけを指して言っている訳ではない。『ホロコーストボール』や『対魔族殲滅鎧装』など、『ゾディアック』から『魔族領』への一方的な暴力はこれまで何度もある。
スプリガンの言葉を真っ向から受け止めたネミリアはすっと目を細めた。
(……レンさんの記憶にもありましたね。人間側からの攻撃が魔族に報復の口実を与え、いづれ『第三次臨界大戦』に繋がると……)
その予感は正しかったのだと、本人の代わりにネミリアは確認した。
だからといってやる事は変わらない。もしかしたらこの行動はアーサーの記憶に引っ張られているだけのものかもしれないけど、それでも彼女は自らの意志だと定めてスプリガンに向かって右手を向けて振動波を飛ばす。
だが届かない。ここはスプリガンの想像が全てを支配する世界。彼が振動波が自分の体に届かないと念じれば、それはそのまま現実に出力される。
「集束魔力供給弾、点火。排莢」
だがネミリアも振動波だけでどうにかなるとは思っていなかった。間髪入れずに左腕の仕掛けを駆動させて集束魔力を纏わせて白く発光させる。
「『白銀の左腕』―――穿て、『突き穿つ神槍の絶光』!!」
一条の光線が放たれてスプリガンに向かっていく。ただの魔術でも、到達系の一つと言える集束魔力なら突破できると考えたのだ。
しかし、その程度では魔法は突破できない。
彼女達の前に二つの魔法が立ち塞がる。まずネミリアの最大の攻撃はスプリガンの魔法に阻まれて弾かれ、その隙を突いてネミリアとアクアの体に一発ずつ小さな魔力弾が当たる。
(これは、転移の魔法の……っ!?)
気づいた時にはすでに遅かった。次の瞬間にはスタート地点の湖畔に戻されていたのだ。
「くっ……ネミリア!」
「ッ!?」
アクアの声でハッとすると、目の前でピクシーはすでに攻撃態勢に入っていた。小さな魔力弾の群れ、『変化魔力球』がこちらに向かって来ていたのだ。
「『流麗纏衣』!!」
今回はアクアが水の帯で魔力弾をかき消す。だが脅威はそれだけではない。ここに戻って来てしまったせいで、先程スプリガンが生みだした魔獣や龍も再び脅威となって襲いかかって来る。
「いい加減諦めろ。お前達じゃ俺達には勝てない」
森の中から戻って来たスプリガンもそこに加わる。
そんな事は言われなくても分かっていた。こちらは切り札まで出したのだ。それが通用しなかった時点で打つ手なんて何も残っていない。
「いや……まだ手はある」
「アクアさん……?」
何か強い意志を持った目で、アクアは呟くように言った。
「魔法には……魔法だ。……『魔の力を以て世界の法を覆す』」
(……なるほど。たしかに魔法なら魔法で対処できるかもしれません。これなら……)
これなら勝機を見い出せるかもしれない、と思っていたのだが、何故かアクアの動きが止まった。必要なプロセスは踏んでいるのに肝心の魔法を使おうとしなかったのだ。
「使える訳がないよな。かつて魔法により国を滅ぼしかけたお前には」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。この国の上が隠した不祥事。お姫様の魔法の暴発で、国が半壊しかけたんだ。つまりアクア・ウィンクルム=ピスケスは魔法は使えるが制御する事ができない。それじゃ俺達には勝てない」
「ぅ……、ああ……っ!」
手を前に伸ばすアクアは、何をしている訳でもないのに体は震え、顔には玉のような汗が大量に滲み出ていた。
彼女は今、自分の中の葛藤と戦っている。
十中八九暴走する魔法を使わなければ『ピスケス王国』は終わる。しかし発動すれば今度こそ魔法はこの国を飲み込むだろう。前は魔力切れで何とかなったが、今は成長して魔力総量も増えている。そんな奇蹟は二度と起きない。
「―――さて、最後の仕上げだ」
そうこうしている内に『グレムリン』は動く。
周囲から数えるのも馬鹿らしくなる数の水の人魚が飛んで来た。それは『ピスケス王国』中の人達の魔力を奪って回っていたウンディーネの『人魚尖兵』だ。
その全てがスプリガンが生みだした龍にぶつかって消えていく。いや、正確には消えている訳ではない。彼らが奪った膨大な魔力が龍へと移っているのだ。
それはとても、生物が単一で内包できる量とは思えなかった。おそらくは現状、人間の中で一番多くの魔力を内包しているヘルト・ハイラントすらも凌駕していた。
「俺が創った龍はあくまで幻想だ。実体があると言っても、この『断開結界』が崩れれば共に消えてしまう。だけどその殻の内側に魔力を込めれば、それは幻想を超えて現実になる」
それこそが彼らの目的。いや、正確には目的に至るための手段の一つ。
蛇のような龍は幻想ではなく本物としてここに降臨した。
さらに、姿が変わっていく。体にあった手足が無くなり、顔だった部分が鎧を纏った人型の上半身に変わっていく。全身が紫色に変色し、龍は完全な魔獣へと変貌した。
「人工的に造り出した神にも等しい魔獣。一三体目の『一二神獣』だ。ただの人間には倒せないぞ!!」
「ギィィィイイイイァァァアアアアアアアアアアアアアアァァァ!!!!!!」
耳を突きさすような雄叫びがそれから発せられる。
もう猶予は無い。
今、アクアが魔法を使わなければ全員死ぬ確かな予感があった。アクアも、ネミリアも、そして『ゾディアック』に暮らす全ての人々も。
「ぁ……うぅ……ッ!!」
だけど、どうしても使えない。
制御のできない力を、どうしても頼る事ができなかった。
「さあ、アスクレピオス! お前の役割を果たす前に一仕事して貰おうか。まずはこの国をぶっ潰せ!!」
彼らはアスクレピオスと呼ばれた魔獣を操る事ができるのか、そんな風に指示を飛ばした。もし操れるなら状況はさらに悪化する。あの魔獣が『グレムリン』側を攻撃する可能性がなくなったのだから、単純に向こうの戦力が増えた形になる。
さらにアクア達はアスクレピオス以外の問題も何も解決していない。このままではアレが世界を壊す前にスプリガン達に殺される。それを実行に移す為に生み出された魔獣達が一斉にアクアとネミリアに襲いかかってくる。
「……すまない」
「ッ、まだですアクアさん! まだわたし達は生きているんです!!」
すでに諦めたアクアとは対照的に、ネミリアはまだ諦めていなかった。念動力を発動させて一匹の魔獣を操り、別の魔獣に当てて迎撃する。それで迎撃できなかった分は振動波を放って押し飛ばす。
だがそれでは足りない。そもそも魔獣はスプリガンによって無限に生み出せるのだ。文字通り限りが無い。
それに対してネミリアはたった一人。体力にも魔力にも限界がある。
(ですが……彼は諦めなかった)
歯を食いしばり。
今にも崩れ落ちそうな体に鞭を打って、ネミリアは想う。
(こんな時、いつだって諦めずに前に踏み出していた!!)
アーサーの記憶を追体験して得た感情が彼女を動かし続ける。
だが、感情論だけで耐え切るには限界があった。遂にネミリアの防衛を突破し、数体の魔獣が二人に向かって襲い掛かる。訪れる死にネミリアは強く目を瞑った。
そうしてから、気づく。
目を瞑ってから魔族の攻撃が届くまで、猶予は一秒も無かったはずだ。それなのにいつまで経っても魔族の攻撃は訪れなかった。
ゆっくりと目を開き、その異常に気づく。
敵も含めて全員がその異常に注目していた。
その正体は、丁度両者の中間にあった。
バギィッッッ!!!!!! と。
何も無い空間に亀裂が走っていた。
そしてその穴から、ある少年の右手が飛び出して来ていた。
「チィ―――!!」
忌々しげに舌打ちをしたのはスプリガンだった。
この現象がどうやって引き起こされたものなのか、この場にいる者ならアクア以外はすぐに分かっただろう。
「……やっと、手が届いた」
亀裂の向こう側から声が聞こえてくる。
それは凄く、安堵したような声だった。
「……『断開結界』を破壊するには、闇雲にこの手を振り回すだけじゃ足りない。アレは精神世界で一定範囲内の世界を塗り替えるものだから、そんな方法じゃ世界は壊せない。だけど、そこには一つだけ穴がある。北極星を中心に廻る星屑のように、画鋲で打ち止めした紙みたいに、一点だけはズレる事なく必ず元の世界と繋がっている。そこさえ見つければ俺の右手は『断開結界』でも破壊できる」
亀裂はどんどん広がっていく。
向こう側にいる誰かの影が鮮明になっていく。
「全ての科学を終わらせる。それがお前らの原動力だっていうなら全力でかかって来いよ。科学も、この世界で科学と一緒に生きてる人達も全員守ってみせる。だから拳を握って武器を取れ。俺がその全てを踏破して、今度こそ何もかも守ってみせる!!」
広がる、広がる、広がる。
この世界が構築された時と同じように、しかし今回は破壊していく形で。
「確かに俺はこの国に来てから何も守れなかった。色んな人達に助けられてきたのに、いつだって力不足で手遅れになってばかりだった。……だけど、今回だけは追いつけた。俺も戻った。もうお前らの好き勝手になんかさせない」
最初は拳一つ分の大きさしかなかった亀裂は、気がつけば人が通れるほどの大きさになっていた。
そして、その穴の向こう側から明確に一歩。
彼はこちらの世界に踏み込んでくる。
「まずはお前らを倒す事で反撃の口火を切らせて貰うぞ、『グレムリン』!!」
アーサー・レンフィールドが帰還する。
同時に亀裂の入った全てが砕け散った。
一つの世界が砕かれる。
それは同時に、この世界が再び動き出す合図でもあった。