27 少年と少女
……気づいた時には、白い場所にいた。
どこまでも果てがなく白い空間で、鈴の音のような声が響く。
「おにーちゃん」
呼ばれた少年は、ごく自然に声のした方を振り向く。
そこには予想した通り、腰まで届くほど長い黒髪の少女が立っていた。
「おにーちゃんはやってくれるんですね」
そう言った少女は、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべていた。
少年の方もつられるように笑みを浮かべて答えた。
「ああ、お前達との約束だからな。諦めかけたけど、やれるところまでやってみるよ」
少年の答えに少女は満足したように頷いた。
「命は巡るんです。死んでもそれは終わりじゃなくて、大きなものの一部になるだけなんですよ? 魂は世界の魔力の一部になって、永遠に巡る。だからおにーちゃんは一人じゃありません。わたしはずっと見守っています。わたしもずっと一緒に夢の果てを見守ります」
「そうか……お前のおかげだったんだな」
なぜ自然魔力が自分の事を受け入れてくれたのか、ずっと疑問だった。それは目の前の少女のおかげだったのだ。少女が少年を自然魔力と繋いでくれたのだ。
「……俺はお前達に貰い過ぎたよ。俺はお前達に何も返せてないのに……」
「それは違います。おにーちゃんは十分過ぎるほど沢山のものをくれました。先にくれたのはおにーちゃんの方だったんですよ?」
「……」
きっと少年が何と言おうと、少女はすぐに笑って返すのだろう。だからこそ少年は少女を尊敬しているのだから。
だから精一杯の感謝と愛情を込めて、少年は言う。
「俺は、お前と一緒にいられて幸せだったよ」
「わたしもおにーちゃんと一緒にいられて幸せでした」
少女は少年に近づき、胸の中に飛び込んで力いっぱい抱き着く。少年もそれに合わせて少女の背中に腕を回す。
「えへへっ、いつまでも大好きです、おにーちゃん」
「ああ、俺もだよ。ずっとお前が大好きだ」
そう言って、少年は腕に力を込めて、より一層少女を強く抱く。
いつ終わるとも知れない夢の中で、少年はただ愛しい少女を抱きしめ続けた。
いつまでもこの時間が続けば良いのにと、心の底から思った。けれど、少年にはこの時間が終わる前に、どうしても言っておかなければならない事があった。
「……すまない」
ぽつりと。
少年は少女の耳元で呟くように懺悔の言葉を口にした。
「俺はお前を守れなかった。……本当はさ、俺はお前に大好きって言ってもらえる資格も、お前達の夢を継ぐ資格もないんだよ」
「おにーちゃん……」
少女は少しだけ表情を曇らせた。少年に夢とは違う、消える事のない後悔を背負わせてしまったのではないか、という自責の念があった。
けれど少年はふっと儚げに笑って、
「でも、お前達が許してくれるなら、俺もお前達のように生きても良いかな? お前達が俺の心を救ってくれたように、俺も誰かの心を救えるように生きられるかな?」
それは伝えられなかった願い。その願いにどれだけの思いが込められているのか、少女には痛いほど分かった。
だから少女は笑って応えた。
少年の往く道の先が光り輝く物になるように、そんな祈りを込めながら。
◇◇◇◇◇◇◇
目が覚めた時、そこは森の中ではなかった。
体はやわらかい布団の上に寝かされ、視界には木製の天井が写った。
直前までとても幸せな夢を見ていたような気がする。しばらく夢の内容を思い出しながら頭の中で反芻していると、すぐ横合いから声がかかった。
「起きたんだね、アーサー」
思考を中断し、声のした方を向く。するとなぜ今まで気が付かなかったのか、布団の傍らに結祈が座っていてアーサーの顔色をうかがっていた。
その顔を見て、アーサーは気を失う前の出来事を思い出した。
最後の瞬間、拳を握り締めて向かって行ったアーサーに襲い掛かったのは、目も眩むような光だった。その光に包まれた瞬間に体全体に衝撃が響き、アーサーの意識は刈り取られたのだ。
(そうか……敗けて気を失ってたのか)
その事実を改めて認識し、アーサーは浅く息を吐く。
「結局、一撃も入れられなかったもんなあ……」
となると気になる事が一つ。
アーサーには結祈と戦うに至ったいくつかの理由があった。その一つはあの夜に食い止めたかった事。
つまり。
「……結祈はあれからどうしたんだ。やっぱり殺しに行ったのか……?」
アーサー自身、その答えは分かっていた。
アーサーという障害を倒した結祈が、本来の目的を達成させない理由がないのだから。
別に、殺人についてどうこう言うつもりは無かった。ただ自分が止められなかったために、結祈がまた一歩、戻れない道を進んだのかと思うと許せなかった。
他でもない、自分自身を。
「行ってないよ」
しかし、結祈の口から発せられたのは予想外の一言だった。その答えにアーサーは驚いたような顔をする。
「あれからアーサーの言葉がずっと頭に張り付いてるの。アーサーに色んな事を言われて、今までは振り切って来たのに、何故かアーサーの言葉だけは振り払えなかった。だからもう一度アーサーと話をして、それから考えようと思ったの」
結祈はそう言って、アーサーに試すような目を向ける。
「ねえアーサー」
どこか強い意志を帯びた声音で、結祈が続ける。
「どうしてワタシの復讐を止めようとしたの? 復讐する事自体は否定しないって言ってたのに」
「……」
さすがにその話を寝たままの姿勢で話すのは憚られる。
アーサーは体を起こして結祈の正面に座り直し、少しだけ考えてから、ゆっくりとその理由を語り始める。
「理由は途中で話した通りだよ。お前の母さんの事を思うとさ、どうしてもお前を守りたいって思ったんだ。……それになんとなくさ、思ったんだよ。もしお前が誰にも文句のつけようがないくらい完璧に復讐を終えたとして、憎い相手を全員その手で殺し尽したとして、その先で、お前は生きていく意味を無くすんじゃないかって。全部が終わった後、お前が母親の事を思い出した時に、そこには幸せなんて一片もないと思ったんだ。……多分、今のままのお前じゃ復讐を遂げても遂げられなくても、きっと何も満たされないと思うんだ。そこにあるのは今と変わらない後悔と憎悪しかない終わりのない終わりだ。だからせめてお前には、復讐を終える前に別の生きていく意味を見つけて欲しいと思ったんだ。復讐を終えた後で、それでも笑えるような『何か』を」
「……そんな曖昧な理由で、具体的な事は何も分からない『何か』を探させるためだけに、アーサーはこんなになるまで戦ったの……?」
「別にそれだけが理由って訳じゃない」
本当は、その先を言うかどうか迷った。けれど言わなければ本物の意志を結祈に伝えるのは不可能のような気がした。
だからアーサーは遠い過去、まだ癒えきっていない古傷を開いて、重い口を動かして続ける。
「俺は妹を魔族に殺されたんだ」
その声は少し震えていた。
たった一言で当時の光景が鮮明に思い浮かぶ。胃をひっくり返したような気持ちの悪い感覚に、嫌な汗が背中を伝う。その症状はビビに話した時よりも悪化していた。
けれどそんな状態をおくびにも出さず、真摯な姿勢で結祈に臨む。
「……アーサーは復讐をしようとは思わなかったの?」
「思ったよ、当たり前だ。妹の最期の言葉が無かったら、俺は人生の全てを魔族の殲滅に使っていたかもしれない」
「……少し羨ましいよ。ワタシにはそんな言葉すらなかったから……」
多分、そこがアーサーと結祈の分岐点だったのだろう。
たった一つの言葉があったかなかったか。たったそれだけの違いで、二人の道は大きくズレてしまったのだ。
しかし、ここまでで話は半分。アーサーは真新しいかさぶたを自ら剥がすような感覚で続ける。
「でも、俺にはもう一人、魔族の妹がいたんだ。……そいつは人間に殺されたよ。正直、訳が分からなくなった。本当の敵ってなんなのかなって。妹達の最期の願い、人間と魔族の共存なんてのは夢のまた夢で、実現は不可能なんじゃないかって疑いもした」
「……それでも諦めなかったの?」
「ああ、それでも俺は進む事にした。憎しみが消えた訳じゃない。でも俺は、あいつらみたいに生きたいんだ。誰かの心を救えるようなそんな優しい人に」
「優しい人……?」
結祈の疑問に、アーサーは誰かと同じような慈愛に満ちた表情で、
「二人とも最後の最後まで、人と魔族の共存を望んでたんだ。自分を殺そうとして、現に殺した相手に対してそんな事を言える人って、この世界にどれだけいるんだろうな。きっとほとんどいないと俺は思う。だから俺はあいつらを尊敬してるし、憧れてるんだ。相手を許して、俺の心を救ってくれたあいつらを。それはきっと簡単な事じゃないから」
相手を許す。言うだけなら簡単だ。
でもそれはきっと、言うほど簡単なものではない。人は些細でどうでもいいような事でさえ激怒してしまう生き物なのだから、それこそ仙人にでもなって悟りを開かなくては到底無理な話なのだろう。
「それが理由だよ。お前に血まみれな後悔をして欲しくない。お前に楽しい生きる意味を持って欲しい。お前に母親の真意を伝えたい。お前の心を救いたい。そしてお前に笑って欲しい。……そんな自分勝手な理由で、俺はお前を止めようとしたんだ」
「……」
アーサーの話を聞き終えて、結祈は押し黙っていた。
けれどやがて、自分の答えに辿り着いたのか、うつむきながらその心中を吐露する。
「そこまで言って貰えて正直嬉しいよ。……でも、無理なんだよ。ワタシにはこれしか生きてる意味がないから……」
「それはただの依存だろ」
何の逡巡もなく、アーサーは断じた。
面食らって硬直した結祈に追い打ちをかけるように続ける。
「お前は復讐を目的にする事でごまかしてるんだ。本当はさ、罪の意識に押し潰されそうなんだろ? 大方、自分のせいで大好きなお母さんが死んだのに、自分だけがのうのうと生き残ってて良いのか、なんて考えてるんじゃないか?」
「……っ、そん、なこと、ワタシは……」
「それは分かるよ。俺も同じだったからな。俺はその疑問の答えを、妹達の夢にした。俺の場合は言葉で言われたから分かりやすかったけど、お前の場合は行動で示されてるから分かりにくかったんだろうな」
「……」
ただ、それはもうアーサーとの戦いでちゃんと届いている。だからこそ結祈は困惑し、アーサーとこうして話をしているのだから。
しかし、それでも長い間、自分を預けていたものから少しでも離れるというのは、不安や恐怖があるのだろう。
それはアーサーにも分かっている。分かっている上で、なおも続ける。
「お前の疑問の答えは『生きて良い』だ。誰に許可を取る必要も無い。もし誰かがそれを否定したとしても、俺とお前のお母さんの意志が、それよりもずっと強く肯定してやる。確かにこの世界にはどうしようもない事が沢山あって、当たり前の幸せが理不尽に奪われる事がどんなに辛い事かも分かってる。もしかしたら、こんな世界で生きていく意味を見つけるなんてのは本当に難しい事なのかもしれない」
世界なんてものはどこまでも残酷で、希望なんて見つけた途端に摘み取られる事だって沢山ある。
けれど人がそこで止まらず、前に進めるのは決して一人ではないからだろう。その事をアーサーはようく知っている。
「だからお前が無理だって言うなら、俺が一緒に探してやる。お前がこれから先も生きていきたいって思えるような『何か』を一緒に探してやる。だから運命なんていう安易な道に逃げるな。一人じゃ無理なら俺が全力で支えるからさ」
「アーサーはなんでそこまで……」
そう聞かれてアーサーは少し考える。
復讐は何も生まないから。母親の思いは別の所にあると伝えたかったから。國彦さんに頼まれたから。
そんな曖昧な理由ならいくらでも挙げられた。でもそれは何となく、結祈の疑問の答えとしては少し違和感があった。
だからアーサーはよく考えてから、ゆっくりとした口調で言う。
「正直言うと、自分の事なのによく分からないんだけどさ、俺は多分、お前の笑った顔が見たいんだよ」
理由、というにはあまりに陳腐なものだったかもしれない。
けれどアーサーはコツン、と軽く握った拳を結祈の額に当てて、
「だから笑えよ、結祈。俺は絶対にお前を一人になんかしないからさ。きっとお前を守った母さんも、そっちの方が嬉しいと思うぞ?」
そう言ってアーサーは握った拳を開き、そのまま結祈の頭を優しく撫でる。
「辛かったよな」
「……そんな事、ないよ」
俯く結祈の表情はアーサーには伺えない。
それでも震えは手のひらを通して伝わってきていた。
多分、結祈にはもっと早くにこういった会話が必要だったのだ。そうする人がいなかっただけで、少女はたったそれだけの事でいつでも戻れたのだ。
「苦しかったよな」
「わっ、たしが、望んでやってたんだよ……? 苦しい訳、ないよ」
だから六年分の全てをひっくるめて、強がりの裏側にある弱さをさらけ出させるために、ただ言葉を紡いでいく。
「今まで一人で、よく頑張ったな」
「……っ、ワタシ、は……っ!」
他者の頑張りを認める一言。その一言で何かが変わる訳がなくて、誰でも言えるそんな陳腐な言葉にほとんど意味なんてなかったのかもしれない。
けれどそのたった一言で、結祈の中の堤防が決壊した。
「……辛かったよ」
そして一度崩れると、後は止められなかった。
六年間、たった一人で抱え込んだ思いが爆発する。
「辛かったに決まってるよ、そんなの!! なんでお母さんが殺されなくちゃいけなかったのって、なんでワタシじゃなかったのって、何度考えても答えなんて分からなくて、だからがむしゃらに復讐する事しか考えられなくて、終わりなんてまったく見えなくて、こんなのがワタシが生まれて来た意味なんて許せなくて、でもそんな運命を受け入れるしかなくて、大好きなお母さんには嫌われてたんじゃないかって不安に押し潰されそうになって、おじいちゃんには見限られてるんじゃないかって、久遠さんには呆れられてるんじゃないかって、信じれる人も、味方なんて誰もいなくて、ずっと独りでこの道を進むしかなかったんだよ!? 本当は自分も死んだ方が良いんじゃないかって、ワタシが生きてる事は間違いなんじゃないかってずっと思ってた!! もしもあの時、何かが違ったらなんて意味のない想像は何度もしたよ! 一人目を殺した時は一晩中震えが止まらなくて、食べたものは全部吐き出して、寝てもすぐに悪夢で起こされるような日が何日も続いて、そんな見えない何かに押し潰されそうな心も自分だけで何とかしなくちゃいけなくて、たった一人だって理解してくれる人なんていなかった! そうだよ、ただ一人、たった一人で良かったんだよ! ワタシの気持ちを理解してくれる人が欲しかった!! あの時のお母さんの真意が知りたかった! それが分かってれば、もっと早くにアーサーに会ってればこんな風にはならなかったのに、ワタシにはどうしようもなく救いなんてなかった! ワタシはもう、この世界に希望なんて見いだせない! ワタシだって普通に生きたいんだよ!? 普通の家庭で、普通に退屈でも平和な日々を送って、普通に恋をして、普通に家族を築いて、そんな風に当たり前の人生を送りたかった! でも、どうしてもそう生きられない! ワタシにはワタシが普通の生活を送ってる姿なんて想像できない!! ワタシには生きる意味なんてもう見つけられないんだよ!! ……でも、だけど、矛盾してるかもしれないけど、アーサーの言葉を信じてるワタシもいる。もしアーサーの言った通りなら、お母さんはワタシを愛していてくれたなら、ワタシは幸せを追い求めたい! 天国にいるお母さんを安心させて上げたい! ワタシにだって幸せになる権利はあるんだって信じたい!! 終わりのない復讐なんかじゃなくて、ちゃんとした生きていく意味を見つけたいッッッ!!!!!!」
結祈が本音を吐き出している間も、アーサーはずっと結祈の頭を撫で続けていた。
まるで小さな子供をあやすように、その道のりは間違いではなかったのだと認めるために。
「良かったよ」
アーサーは手を止める事なく、微笑を浮かべながらそう言った。
「ここで血の通った本音が聞けなかったら、復讐の権化みたいに止まる事がなかったら、俺にはもうどうしようもなかった。俺はまた救う事ができなかったんだって諦めるしかなかった」
「……でも、やっぱりワタシには生きる意味を見つける事なんて……」
「さっき言ったろ? 俺も一緒に手伝うからさ、ゆっくり探していけば良いんだ。今までの分も、幸せになれる未来を探しに行こう。今の結祈ならきっと見つけられる」
「……こんなワタシに、見つけられるのかな……?」
「絶対に見つけられる。俺が保証してやる」
先の事なんて誰にも分からない。
もしかしたらここで全てを投げ出してしまう方が結祈にとっては良いのかもしれない。復讐も何もかもを捨てて、ただ家とその周りの小さな世界に引きこもってしまう方がずっと楽なのかもしれない。
それでもアーサーの言葉を聞き届けた結祈は、
「……たいよ」
ぽつりと。
あらためて前提条件を確認するように、
「それならワタシは生きる意味を見つけたいよ。復讐だけじゃなくて、お母さんが安心できるような生き方を見つけたいよ……」
六年分溜め込んできた涙と一緒に、ぼろりと言葉があふれた。
アーサーは少しだけ目を細めた。
彼が聞きたかった言葉は正にそれだった。最初から凝り固まった考えの内側にある本心を聞きたくて始めた事だった。アーサーはそんな自分の行為にどこか引け目を感じながらも、一つの決断を告げる。
「だったら決まりだ。どこかでほくそ笑んでる運命ってヤツを一緒に踏破してやろう」
そう言って、アーサーは優しい手付きで結祈の涙を拭った。
結祈はその手を両手で包み込んで、大事なものを抱き寄せるように胸の前に持って行った。
「まったく……本当に、ひどい一撃だよ……」
そして精一杯の皮肉を込めて、泣いて笑いながら、結祈は顔を上げて言う。
そこにはもう、迷いの色なんて一片も見えなかった。