269 状況は最悪なままで
『ピスケス王国』―――そして『セレクターズ』は地獄と化していた。すでに大会の原型は留めておらず、市街に集まっていた民間人にも被害が出ていた。
その原因は『グレムリン』達成を目指す魔族の集団組織。その構成員の一人であるウンディーネの『人魚尖兵』だ。水ゆえに物理攻撃を無効化し、魔術による攻撃を受けたとしても多数いるため痛手とならない人魚の兵隊。その力は対象の体を貫き、ダメージは与えない代わりに魔力を根こそぎ奪うというものだった。一度でも体を貫かれれば魔力を失い体の自由も奪われる。そうして『セレクターズ』出場者と民間人は次々とその人魚によって魔力を奪われて行った。
『ピスケス王国』が絶望に染まる、そんな時だった。市街地だけだか半透明なドーム状のバリアが全体を覆って人魚たちの侵入を阻んだのだ。それによって被害は『セレクターズ』参加者のみに絞られる。本当、誰かにとっては虫が良いほどに。
「始まったわね」
「オーガスト・マクバーンによる市民へのアピール、か。後で市民を守ったのは自分だって言って支持を集めて非難されずに王座に就くための。そのために自分達が迫害していた相手が命を犠牲にしてるとも知らず、本当に人間は愚かだ」
このバリアはその規模が二、三人中に入れる程度の自分の周囲から、市街地全体を覆えるまでに拡大しただけのスゥシィ・ストームの能力である魔力障壁だ。しかしそれは本来不可能な力であり、これはオーガストが魔術的な祭壇を用意する事で強引に力を引き上げているのだ。そこに囚われているスゥシィ・ストームの命を代償に。
「あら、人間に同情?」
そんなウンディーネの指摘にスプリガンは肩をすくめ、
「ま、流石に同情くらいはするよ。散々利用され尽くして結果的に人知れず殺されるなんて、人間相手でも流石に不憫だ」
でも、とスプリガンは続けて、
「『グレムリン』のためには必要な犠牲だ。そもそも先に仕掛けて来たのは人間で、魔族にとっては必要な反撃だ。綺麗事を言うつもりも、悪びれるつもりも無い。ただ生き残るためだけに全ての科学を終わらせるだけだ」
人間相手に同情しようとも、それで彼らが止まる事はない。
ウンディーネはそれを再確認しながらも、どこか一抹の不安を抱えているようだった。
「そういえば件のアーサー・レンフィールドは『水底監獄』にいるのよね?」
「うん。捕まってるって話だったはずだよ」
「……」
ピクシーに確認を取りながら、しかしウンディーネの顔色は優れなかった。まるで驚かして来ると分かっているのに怯えながらお化け屋敷の中に入っていくような、そんな不安そうな表情だった。
「……スプリガンとピクシーで湖畔まで確認に行って来て頂戴」
その指令には、流石に二人も目を見開いて驚いていた。それを察してか何かを言われる前にウンディーネは補足の説明を加えていく。
「ただの人間なら警戒するに値しない。だけど彼は魔王の力の一端を所持し、今まで何人もの魔族を倒してる。スプリガンが言っていたように得体の知れない力もある。油断は禁物よ。持っている人間は持っている、きっと『水底監獄』を脱出すると過程して次の一手を打っても悪くないはずだわ。どうせ次手のスプリガンの魔法は湖の近くに行かなければならないのだし、ついでにお願い」
◇◇◇◇◇◇◇
メアがいなくなった事で結果的に移動速度が上がった三人は階段を駆け上っていた。彼女の犠牲により猶予は伸びたが、それでも『水底監獄』の崩壊は回避できない未来だ。それはこんなに堂々と昇っているのに看守が一人も来ない事からも明らかだろう。
そうして彼らは焦燥感を抱えたまま第一階層の半ばまで進み、あと少しで地上に辿り着くという所で遂に限界が来た。
今までのものとは比べ物にならない大きな揺れが起こり、それが収束する気配を見せないまま傍の支柱に決定的な亀裂が走った。
そこから先は雪崩のように一気に来た。外壁にも亀裂が走ったのを確認する間もなく、崩壊して大量の水が流れ込んでくる。それは『水底監獄』全体で起きているのだろう。多少の猶予はあると思ったが瞬く間に下から水が迫ってくる。
「皆さん、わたしに掴まって下さい! 能力で体を保護します!!」
ネミリアは叫びながらアクアの腕を掴み、アクアもクロウの腕に手を伸ばした。
けれどその手はクロウに届かなかった。彼女達の足場でもあった階段が突然崩れ、両者の距離が離れていく。
「チィ、クソったれ!!」
クロウは水に落ちる前に抱えていたアーサーをネミリア達の方に向かって投げた。アクアがアーサーの腕を掴んで白い光が三人を覆う。ただ代わりにクロウはたった一人で荒れ狂う水に呑み込まれてしまった。
そして彼の安否を気遣う暇もなく、三人もすぐに水に呑み込まれた。流れが滅茶苦茶な激流に呑み込まれた三人は上下の感覚も分からなくなるくらい揉みくちゃにされ、ネミリアのおかげで呼吸は大丈夫だったが全く体を動かせずにされるがままの状態で流されていく。
……。
…………。
………………。
「げほっ、がはッ!!」
意識は切れていなかったはずだが、水に呑み込まれてからの記憶は曖昧だった。最後の方はネミリアの方に限界があったのか能力が切れると同時に手が離れ、結局水を飲んでしまいえずいてしまった。
次第に落ち着いてくると、何だかんだ無事に湖畔に打ち上げられた奇蹟に感謝の気持ちが湧いてきた。ずっと閉じ込められていて久しぶりに眩しい太陽の光を浴びられると思ったのだが、あいにくの霧でそれは叶わなかった。時間的にはアーサー達が『水底監獄』に潜入してから一晩経っているくらいなので、前日と天気は変わっていない事になる。
(いいや、それよりネミリアとレンは……?)
周りは霧に覆われてはいるが視界不良という訳でもない。キョロキョロと辺りを見回すとすぐに二人は見つかった。ネミリアの方は自分と同じように起き上がっているが、アーサーの方は仰向けに倒れたまま動いていなかった。彼女はまずアーサーの方に駆け寄る。
(息は……しているな。意識が無いだけか……?)
とりあえず命に関わるという訳でもなさそうなので安堵の息を吐く。同時にアレについての疑問が再燃してきた。魔力でもクロウの力とも違う何か。傷を全て修復し、圧倒的な力でギリアスを消し飛ばしたアレ。いくら考えた所で答えは出ないが、たった一つだけ言える事がある。
アレは真っ当な人間が手を出して良いモノじゃない、と。
「……レンさんの容態はどうですか?」
そんな事を考えていると、『共鳴』の力で衣服に染み込んだ水を操って外に出し、強制的に乾かしながら近づいて来た。
「問題無い。まだ気を失ってはいるようだがな」
「そうですか……」
彼女もどこか安堵しているように見えたのは、きっとアクアの勘違いではないだろう。しかし当の本人はそんな感情の機微には気づいていないのか、アクアとアーサーを触って自分と同じように服を乾かした。
服を乾かして貰いながら、アクアは城のある方を眺めた。その周囲では所々から煙が上がっている。『セレクターズ』が原因なのだろうが、その元凶は全てオーガスト・マクバーンだ。今回の彼によるクーデターを止めるためには、自分があそこまで生きて辿り着かなければならない。
「ネミリア、レンの事を頼む。妾はこれから城に戻り、オーガスト・マクバーンと決着をつけに行く」
そのために彼女は立ち上がった。
しかし、その決意をネミリアの手が止めた。
「待って下さい。その前に試したい事があります」
「……試したい事?」
「はい。レンさんの記憶を戻してみたいと思います」
意識の無いアーサーの胸に手を置いたまま、ネミリアは続ける。
「わたしの『共鳴』の力でレンさんの記憶を想起させます。ただ初めての試みなので、わたし自身、レンさんの記憶と『共鳴』し過ぎてしまうリスクはありますが」
「……その場合はどうなる?」
「最悪、わたしの精神が崩壊し、レンさんの記憶は戻りません」
「なっ……そんなリスクを払ってまで、レンの記憶を戻す意味があるのか!?」
「彼の本名は、アーサー・レンフィールドです。『ピスケス王国』のお姫様ならこれだけで記憶を戻す意味は分かると思いますが」
「……っ!?」
その名前を聞いて、明らかにアクアの顔色が変わった。
当然、既知。というか『ゾディアック』の王族で今やその名前を知らない者はいないだろう。もし知らないんだとしたらそれは単なる愚者だ。
「では、行きます」
最初からアクアから賛同を得ようとは思っていなかったのか、ネミリアは突然それを試みた。アーサーの体に触れた右手から、二人の全身に淡い白の輝きが広がっていく。
その、時だった。
「いやー、まさか本当にウンディーネの勘が当たるなんてね。無駄足に終わると思ってたけど来て良かった」
「得体の知れない力、か……。俺自身があれだけ言っていたのに、結局その本質を理解してたのはウンディーネだけだったって事か」
「一応言っておくけど、次手の要のキミは前に出ないでよ、スプリガン? ここはボク一人でやるから」
軽い調子の声が突然放たれた。金髪碧眼の小柄な少女と黒い装いの少年がいつの間にか近づいていたのだ。
ネミリアは集中しているため声に反応すらしていない。アクアは一人、二人を庇うように前に出る。
「……お主らは誰だ?」
「『グレムリン』」
簡潔に答えたのは小柄な少女だった。
彼女の周りにはいくつもの黄色い発行体が浮いている。その全てが魔力弾であり、一つ一つが凶器だ。言葉は足らずとも、その行為だけで敵と断定するには十分だった。
「全ての科学を終わらせる。そのためにキミ達には退場して貰うよ」
そう言ってから、続けてある種の祝詞のように呟く。
「『魔の力を以て世界の法を覆す』」
「ッ!?」
それはアクア自身も口にした事のある、魔法を使うための言葉だった。それを合図に黄色い魔力弾の他に白い魔力弾も群の中に加わる。その能力までは分からないが、魔法である以上、当たるのは絶対にマズイ最悪の凶器だ。
自分はどう行動するべきか、その答えを探す間も与えず、大量の魔力弾が三人目掛けて飛んで来る。