267 た■その■■を■け■■めに
拳を振り切って水の槍を飛ばしたアーサーは、その勢いのまま前に倒れた。幾度となく十字架の攻撃を食らったせいで体力が底をついたのだ。本当はこの位置に移動するのもやったの事だったのだが、あの水の槍が飛んで来た時にこれしか勝ち目が無いと直感したアーサーは、最後の力を振り絞ってあの行動を取っていた。
(……ギリギリ、だった……)
おそらく、あと一撃でも十字架を食らっていたら行動は起こせていなかった。
首だけを動かして、周りの様子を確かめようとする。最初に目が合ったのはメアだった。彼女は必死な形相でこちらに向かって何かを叫んでいる。
(なん、だ……? 何を叫んで……)
体力が無くなっているからか、どうにも耳の調子がおかしかったのだ。必死に耳に意識を集中させてみると、微かにだがその声が聞こえて来た。
それは短く、簡潔に現状を伝えて来た。
「まだ終わってないよ!!」
(なん、だって……?)
その言葉を飲み込むよりも前に、それは来た。
「ごッ、がァ……!?」
何かが倒れていたアーサーのすぐ傍に衝突し、アーサーの体が宙に浮かび上がった。そしてすぐさま気持ち悪い浮遊感を感じる暇もなく何かが体に衝突して吹き飛ばしたのだ。
その正体は目で見なくても体が覚えていた。
十字架が消えていない。床に倒れているギリアスの魔術が消えていないその理由は明白だった。
倒れたはずの男が立ち上がる。ギリアス・マクバーンという、最強の障害が。
「逃がさんぞ……このネズミ共がァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
再び十字架の猛攻が始まり、何発目かを食らった所でアーサーの中で何かが切れた。体力が遂に底をついたのだ。次第に意志とは関係無く意識の糸が細くなっていく。
空中でボールのように何度も十字架に弾かれて、最後には受け身も取れずにアーサーは地面に落ちた。十字架は体力を奪うだけじゃなく打撃としての効果だって当然ある。地面に倒れるアーサーの周りはすぐに血溜まりになり、傍目からは生きているのか死んでいるのかも分からない酷い有り様だった。
「レンさん!!」
叫んだのは意外にもネミリアだった。その声はアーサーの耳に届いていたが、ただ聞こえているだけで何か言葉を返す事もできない。指一本だって動かせない状態だった。
そんな中、アーサーが抱いていた感情は酷い後悔と怒りだった。
(俺は……また、負けるのか……)
―――ふざけるな。
(スゥだけじゃなくて、アクアやネミリア達まで助けられないのか……?)
―――ふざけるな!
(俺はまた、失うのか……!?)
―――ふざけるな!!
「……ゥ、ア……」
呻き声だけが口から洩れ出た。
それを最後に、アーサーの意識は途絶する。
「もう捕らえるのは止めだ。この場で全員殺す!!」
アーサーを降したギリアスは、他の四人へと意識を移す。全員が彼の産み出した十字架の対処に追われる事になる。
ネミリアは念動力で十字架の動きを止めながら叫んだ。
「メアさん! ワイヤーで全員を捕まえて下さい。わたしの力で上に逃げます!!」
「できたらとっくにやってるよ! 速度が出ないネミリアちゃんの力じゃ、結局十字架から逃げられない!!」
メアは鎖鎌を使って空中を駆けながら答える。
言い合いは牢屋の方でもあった。
「クロウ! せめてあの者達だけでも逃がせぬのか!?」
「オレがオマエを見捨てると本気で思ってんのか!? つーか十字架が四つも来てる状況じゃそもそも無理だ、その前にオレ達はやられる!!」
どんな行動を取ってもジリ貧だった。今は何とか十字架を退けられているが、原理的に大量の魔力を保持しているギリアスには長期戦は悪手だ。どうあっても勝つ未来は無い。
「……少しでも十字架に対抗できるアイツが、レンが居ねェと無理だ」
「レン……」
アクアの視線が血溜まりに倒れている少年の方に向けられる。
「立て……」
思わず漏れた声。
無責任だと分かっている。
身勝手だって自覚はある。
「立て、レン!! スゥを助けたいんじゃなかったのか!?」
それでも少女はすがった。
この場にあるたった一つの『希望』に。ついさっき、確かにそれを与えてくれた者に。
「無様だな、アクア・ウィンクルム」
嘲笑し、ギリアスは言った。
「国も友も父も失い、最後にすがるのが死体とは。これがクーデターに屈した王族の末路とは、流石に笑えてくる」
彼はこの場にいる最強の存在として、両手を大きく広げてなおも叫ぶ。
「この国を統べるのはオーガスト・マクバーンだ! 良いものは取り込め、それ以外は排除しろ。時代に順応し続ける彼こそが、この国の王に相応しい! お前じゃなくな!!」
「っ、そんなもの正しさでも何でもない! そのためにあやつが何をしてきたと思っている!? 一体何人、無関係な人間を殺してきたと!?」
「そんな事に拘泥しているからお前はここにいるんじゃないのか? 王には時に非情さが必要だ。ウィンクルムにはそれが無い。だから俺達マクバーンが乗っ取ってやったんだ」
「ふざけるなァ!!」
「大真面目だ」
言いながら、ギリアスは開いた掌をアクアの方に向ける。
「では時計の針を動かそう。安心しろ、この国は世界に誇れる最強の国になる」
ギリアスの周りに新たに現れた十字架が一つ、アクアの方に向かって飛んでいく。ギリギリ耐えていた所に新たに追加される十字架は、アクアの終わりを意味していた。
「チィ! アクア!!」
他の十字架への対処に追われるクロウの叫び声だけが響く。もう助かる道の無いアクアは、何かを覚悟した彼女はゆっくりと目を閉じた。
しかし、いつまで待っても攻撃は訪れなかった。恐る恐るゆっくりと目を開くと、おかしな事が起きていた。
「な、ん……?」
目の前で十字架に『黒い炎のような何か』がまとわりつき、その動きを完全に封じていたのだ。否、動きを封じていただけではない。それが十字架の全体に絡みつくと十字架そのものを消し飛ばしたのだ。
その『黒い炎のような何か』の出所はギリアスの後方だった。自然、全員の視線がそちらへと集まる。
じゃり、という小さな音が最初にあった。先程まで血溜まりに沈んでいた少年が、俯きがちでゆらりとした頼りない所作だったが、確かに両足で立っていたのだ。
変化はそれで終わりでは無かった。
場の空気が切り替わる。ただし『希望』と呼ぶにはあまりにも不釣り合いな、ドス黒い何かによって。
「ウ、ォ……ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
仰け反って天を見上げたアーサーの口から獣のような咆哮が溢れた。
その瞬間だった。アーサーの内側から爆発したように、『黒い炎のような何か』の波動がこの階層全体に撒き散らされる。同時に彼の髪が真っ白に染まり、瞳の黒い虹彩が深紅色に変化した。
「ッ、危ねえ!」
ぐいっと、クロウがアクアの体を引いた。すると今の今までアクアのいた足場にアーサーの内側から溢れた何かの余波がぶつかり、地面が抉り取られた。破片はどこにもない。その部分だけ、最初からここに無かったかのように跡形もなく消えていた。
「これは……魔力じゃねェ。俺のとも違う全く異質な何かだ。触れたら二度と元には戻らねェぞ」
「……そんな力を使ってあやつは、レンは大丈夫なのか?」
「……、」
クロウは何も答えなかった。代わりに変化したアーサーの方へと視線を向ける。
今のアーサーは異質としか言い表せなかった。全身にあった傷は瞬く間に塞がって修復された。『黒い炎のような何か』も全身にまとわりついて一向に消える気配がない。
さらに異常だったのはギリアスの魔術だった。罪悪感の大きさと量に応じて十字架の数が増えるその魔術が今のアーサーに反応して新たに十字架を生み出していたのだ。
だがその数がおかしい。すでに天井の方は輝いており、この階層を埋め尽くすような量が生まれているのだ。それもまだまだ増えていく。
「馬鹿な……」
四人が呆気に取られている中で、最も驚いているのはこの魔術を発動させているギリアス本人だった。
「有り得ない……罪悪感を抱けるだけのマトモな神経をしていながら、これだけの罪悪感を抱いたまま生きていられるなんて有り得ない!!」
そんな彼の感情とは関係無く、生み出された十字架は自動でアーサーに向かって落ちていく。
まるで流星のようだった。誰一人として対抗できなかった攻撃が大量に襲い掛かる中、しかしアーサーには一つも届かない。彼に届く前に『黒い炎のような何か』の壁に阻まれ、接触した十字架が次々と容赦なく『消滅』していく。
「お前……本当に人間なのか!?」
恐怖に後ずさり、尻餅を着くギリアス。
そんな彼に、アーサーの大きく見開かれた深紅色の瞳が向けられる。
「おdsh殺qv」
放たれた言葉は、とてもじゃないが人間から発せられる言葉とは思えなかった。
脳に直接響く、聞いただけで身の毛がよだつ言葉を放ちながら、その化け物はゆっくりと右手を前に伸ばした。するとその掌に『黒い炎のような何か』が集まって漆黒の球を形成していき、それが完成すると彼は微かに口を開いた。
「『た■その■■を■け■■めに』」
その声だけは、周りにいる者達にも鮮明に聞こえた。
逆に言えば、それ以外に音が無かった。アーサーの掌から放たれた集束魔力砲のような漆黒の光線が突き進んでいる時も、それがギリアスを飲み込んだ時も、さらに外壁を吹き飛ばして海まで突き抜けていった時も、一切の音を発していなかった。
『消滅』。十字架を消し飛ばした時のように、音すらも消し飛ばしているのだろう。やがて真っ黒な何かの集束砲が少しずつ細くなって止まる。
残ったのは破壊の爪痕だけ。ギリアスの姿は跡形もなく無くなっていた。
やがて白髪と深紅色の瞳に変わっていた少年のそれらが元の色に戻る。そして今度こそ起き上がる事なくその場に倒れた。