265 助けたい相手は……
『水底監獄』最下層。
一つ上の層からここに下りるには専用のエレベーターを使うか、真ん中を通る巨大な支柱に取り付けられた螺旋階段を降るしかない。エレベーターを使う選択肢は最初から無いので、四人は階段を使って最下層に降り立った。
構造自体は上のフロアまでと何も変わらなかった。ただ違う点が一つ、一番下には牢屋が一つだけしかなかった。それも後から作られたのか、周りと比べて少し新しかった。
「あそこにいるはずだ」
「……」
クロウが牢屋を指すのを見て、アーサーは浅く息を吐いた。
アクア・ウィンクルム=ピスケスはスゥシィ・ストームの友達で、アーサーは確かに牢屋から救い出すと誓った。だけどそれは全てアーサーの勝手なもので、アクア自身とは初対面だ。緊張しない方がおかしい。
少しだけクロウに遅れる形で、アーサーは牢屋の前まで進む。中は薄暗かったが、そこにいる人物はハッキリと見えた。
こちらには背中に向けているその少女。服は他の囚人とは違い私服のようだった。それに牢屋の設備も、パッと見で少なくともベッドとシャワー室が備え付けられて扱いが明らかに違った。薄い水色だったスゥとは違い、その少女は深い青の長い髪で、地面に座る姿には気品を感じられた。
容姿は知らなかった。だけど彼女がアクア・ウィンクルム=ピスケスだというのは直感で分かった。
「……クロウ。早く出そう」
「ああ、『死神の―――」
「よせ。ここを開けるな」
制止の声は他ならない、牢屋の中に座る少女から発せられた。
少女はこちらに振り返る。目にかかるほど長い前髪の隙間からこちらを覗く双眸は髪と同じような深い青で、何か引き込まれそうな引力を発していた。
「妾はここにいた方が良い。その方が誰にも……クロウ、お主や父上、そしてスゥにも迷惑をかけん」
その辺りの事情を、アーサーはアルフォンスから簡単に聞いているから知っている。
クロウは彼女と同じようにここに捕まっていた。
父親は自分が人質として利用されたために殺された。
スゥは自分を捕らえる理由付けのために『魔族堕ち』という体質をばらされた。
彼女がその事に責任を感じるのは当然だ。立場が逆なら、アーサーだって同じように思って座り込んでいたかもしれない。
「クロウ」
「分かってんよ」
だがアーサーの決断は彼女の意志に反したものだった。名前を呼ばれたクロウも同じ気持ちだったようで、先程出し損ねた死神を出して鎌を振るい、鉄格子を斬り飛ばした。
アクアは出ようとしない。だからアーサーの方から檻の中へと入って行く。
「悪いけど、俺はお前の意志とは関係なくここから出すぞ。俺が今、一番助けたいのはアンタじゃなくてスゥだからな。アンタが自分がいるせいでどれだけの人を不幸にするのかは知らないけど、少なくともスゥはお前がいなくなって不幸だったはずだ」
スゥの事を引き合いに出すと、アクアの顔つきが明確に変わった。そこには部外者が知った口をきくな、という怒りが表されていた。
アクアは怒っている。だがそれはアーサーだって同じだった。まるで、少し前の自分を見ているような気分だったからだ。けれど彼女に怒りをぶつける資格が無いと思っていたアーサーはそれを表には出さなかった。
「多分、俺とあんたが知ってるスゥシィ・ストームは何も変わらないよ。あいつはあんたがいなくなって一人きりになった。それでも、根っ子の部分の優しさは何一つ変わってなかったんだよ」
そこから先を話す前に、アーサーは一瞬だけ躊躇った。
背後にいるメアとネミリアに視線を移し、何故見られているのか分からず首を傾げる彼女達を見ながら、意を決して話す。
「……俺は数日前、記憶を無くしてた所をスゥに拾われた。森の中で孤独に目を覚ますはずが、スゥの家で誰かが傍にいる状況で目を覚ました。そして今、スゥは俺を助ける代わりにオーガスト・マクバーンの手の中に落ちた」
多分、その告白に一番驚いたのはメアだろう。だがネミリアがフォローしてくれているようで後ろから小声の会話が聞こえて来た。アーサーは内心でネミリアに感謝しつつも、アクアから目を逸らさなかった。
「俺は二度も命を救われた。ずっと心を救われてた! 俺が目を覚ますよりも前の最初から、今この瞬間までずっと、俺はあいつに救って貰ってるんだ!!」
あくまでもし、もしもの話だ。仮にアーサーがたった一人、スゥに助けて貰わず森の中で目覚めたとしよう。
その場合はきっと、こんな風にはならなかったはずだ。
途方に暮れていたかも、あるいは何かを恨んでいたかも、それとも暴力性の塊になって自分のために平気で他人を傷つけるクソ野郎になっていたかもしれない。どうあれ、絶対に今みたいにはなっていなかったはずだ。誰かのために拳を握ることなど、ありえなかったはずだ。
「だから俺はスゥを助けたい。あいつの力になりたい! そのためならどんな困難だって、どんな敵だって薙ぎ倒す。でも本当にスゥを救うには、アンタの存在が不可欠なんだ!!」
役者不足。それはオーガスト・マクバーンに敗北し、何を言っても止まらなかった彼女を見た時から分かっている。
だから、アーサーは彼女に会いに来たのだ。勿論、無実の罪で捕まっている彼女を純粋に助け出したい気持ちもあったが、本音はやはりスゥの事を考えての事だった。
「なあ、頼むよ」
それはもう、ほとんど懇願に近かった。
「頼むよ!! 俺はあいつに世界が幸せを奪って行くだけのものなんて思って欲しくない。こんなどうしようもない理不尽の底にだって救いはあるんだって、あいつが示してくれたみたいに証明したい! だからそのためにアンタの力を貸してくれ、アクア・ウィンクルム=ピスケス!!」
返事は……無かった。
アーサーの叫びは、アクアの顔に迷いの見える影を落とすだけに留まった。
もう少し時間があれば、きっと彼女の答えが聞けただろう。
しかし、そんな時間は与えられなかった。この牢屋のある位置とは正反対、最も遠い壁に備え付けられたエレベーターからある男が下りて来たからだ。
ギリアス・マクバーン。『水底監獄』から脱出するなら、決して無視できない障害がそこに立っていた。
アクア以外の四人はその登場に気づいて振り返る。クロウが一歩、アーサーに近づいて悪魔のように囁く。
「契約は忘れてねェよな?」
「……分かってる」
アーサーは『天衣無縫・白馬非馬』を発動させてギリアス・マクバーンの方に足を進める。その傍らにはネミリアとメアの姿もあった。
「ちなみに聞いておくけど、ネミリアの力でギリアスの動きを拘束する事はできるのか?」
「無理です」
取り付く島もなく、ネミリアはバッサリと切り捨てた。
「私の力は生物に対しては触れるとまでは言いませんが、五メートルほどまで近づいて魔力を飛ばして当てなければ直接の操作はできません」
「五メートル……」
ギリアスの十字架を躱して五メートルまで近づく。無傷では無理だろう。直接戦闘がメインで機動力の高いアーサーやメアなら五メートルまでは行けるかもしれないが、魔術戦闘がメインでお世辞にも機動力が高いとは言えないネミリアには無理だろう。
「じゃあ対処は俺とメアがメインだ。ネミリアはフォローを。もし俺やメアが躱せない時は体か十字架を無理矢理操って助けてくれ」
「それで勝算があるの?」
「……どうだろうな」
メアの疑問にアーサーは前を見たまま答えた。
「あいつの周りの魔力が変な感じがする理由、俺みたいに自然魔力を集めてる訳じゃない。ただ囚人から魔力を集めてるんだ。つまり魔力量は実質ここに収監されてる囚人全員ってことになる。あの十字架の強さの秘密はそれだな」
「じゃあこの『水底監獄』はギリアス・マクバーンの魔術を強化するための装置ってこと?」
「では魔力切れは期待できませんね」
ネミリアはゆっくりと開いた掌に白いオーラのような魔力を纏わせながら呟く。
魔力の差は絶対だ。アーサーの右手はそのルールを覆せるが、それも本来の持ち主であるローグ・アインザームほどじゃない。今回の十字架のようにあまりにも魔力の量が多ければ掌握しきれない。
アーサーは自分の不利を理解しながら、それでも最大の武器である右手を握ったり開いたりして感触を確かめる。
じゃら、と隣にいるメアの手元で音が鳴った。彼女も武器の感触を確かめていた。
彼女の主武装であるユーティリウム製の極細ワイヤーではない。両先端を直刀にした鎖鎌、というのが一番しっくり表現だろうか。二つの直刀を繋ぐ鎖は彼女によって操られているのか宙に浮いていた。
「あらゆる紐状って、鎖も操れるのか?」
「うん。直接的な攻撃はこっちの方が良いからね。ただ射程はワイヤーよりも短くて、最大まで伸ばして二〇メートル。そこまでは近づかなくちゃいけない」
「お前も距離制限かよ……」
「射程が右拳の届く範囲っていうレンくんに言われたくはないかなあ? それに記憶が無いこと、私にだけ黙ってたよね? ネミリアちゃんには話してたのに」
「うっ……それは悪かったって思ってるよ。中々言い出せなくて……」
「うん、じゃあ許すよ。その方がレンくんは十字架の影響を受けにくくなるだろうし。……私の方は今すぐ解消するのはちょっと無理そうだから」
二人の会話は真っ直ぐ、前を見たまま交わされていた。
話した内容に込められた気持ちは全て本当だ。だが目の前の敵は、目を離して会話をしてて良いほど甘い相手じゃない事も分かっていたのだ。
やがて両者の距離が限界に至り、アーサー達は一度足を止めた。
「……それじゃ行こうか」
「お先にどうぞ?」
その言葉に思わずアーサーは敵から視線を外して隣のメアにジト目を向けた。すると彼女もこちらを向いていて、いたずらっぽく笑みを浮かべていた。どうやら弛緩させるためのジョークだったらしい。
良い感じで緊張がほぐれた所で、二人はギリアス・マクバーンに向かって同時に駆け出す。アーサーが右、メアは左から回り込むように。
二人の周囲にはギリアスの魔術である十字架が、アーサーの周り三つ、メアの周りに四つ現れる。メアは鎖の直刀を地面に突き刺して自分の体を持ち上げ、両端の直刀で歩くように操作して空中を自由に駆けながら上手く十字架を躱していた。対して平面の移動しかできないアーサーは触れても唯一体力を奪われない右手を使うしか手段が無かった。十字架を右手で殴って破壊するのではなく、弾いた十字架を別の十字架に当てる方法で安全地帯を確保する。
「十字架の数が変動したな。この短時間に心境の変化でもあったか?」
「……っ」
確かにアーサーはネミリアに記憶喪失を隠していた負い目を無くし、メアは身の上話をしたばかりで後悔が最も色濃く出ているのだろう。この十字架の変動はもっともだった。
とはいえ、アーサーにはまだスゥに関する後悔がある。変動したといっても一つ減っただけだ。やがて押し込まれるのは明白だった。
「くそ、ネミリア! メア!」
正確な考えを伝える暇は無い。
アーサーは名前だけ叫んで、十字架も構わずギリアスに向かって一直線に走り出す。脅威となる十字架は三つ。
一つ目は、ネミリアが念動力の力で動きを止めている間にやり過ごす。
二つ目は、空を駆けるメアがワイヤーを巻き付けて動きを制限している間に駆け抜ける。
三つ目は、アーサー自身が握り締めた拳で思いっきり殴り飛ばした。
「ギリアスッ!!」
最後の一歩。
アーサーは踏み込み、振り切った右拳をもう一度引き絞ってすぐに解き放つ。
だが拳をぶつける直前、アーサーは確かにその言葉をギリアスの口から聞いた。
―――加速、と。
「ご、ぶ……っ!?」
完全に意識外からの一撃だった。たしかに『天衣無縫』を発動させていて、自然魔力感知だって切っていなかった。仮に魔力感知に引っ掛からない攻撃だとしても、アーサーには敵の攻撃を無意識に予期する戦闘勘がある。
それなのに、だ。
今の一撃はたとえ『未来観測』を使っていても躱せない理由があった。理由は単純、アーサーの運動能力を超える速度で十字架が襲いかかって来たからだ。
(目で、追い切れない……!!)
アーサーが体勢を立て直すよりも前に追撃が加えられる。
それを何度も、何度も、さらに十字架が襲いかかる度に体力が奪われるという悪循環。
「レンく……ぐっ!!」
「レンさん、メアさん! くぅ……!!」
その被害が及んでいるのはアーサーだけではなかった。最初から四つ抱えていたメアと、傷つき嬲られているアーサーを見て何か感じたのか、いつの間にか発生していた十字架によってネミリアも成す術なく攻撃されていた。
(ちく、しょう……っ)
これが難攻不落の『水底監獄』の署長。
これがギリアス・マクバーン。
数多の囚人達が、束になっても乗り越えられない最大の壁。
(……ッ、からって……)
アーサーは今にも消え入りそうな意識の中、薄く開いた目でギリアスの方を睨む。
(こんな所で、終われるか……!!)