263 『今』のアーサーが動く理由
敗戦からの目覚めは最悪だった。
まず起きて一番最初に見たものが鉄格子というのが最悪だった。次いで硬い地面で寝ているのが最悪で、最後に十字架のせいでロクに体に力が入らないのが最悪だった。
(捕まったのか……)
「ようやく起きましたね」
すぐ傍で聞こえた声の方を向くと、毛先がピンク色の綺麗な白髪の少女が傍らに座っていた。
「……ネミリア? 体は大丈夫なのか?」
「はい、おかげ様で」
一応、彼女の体をざっと見てみる。手荒な事はされなかったようで目立つような傷はなく、むしろユーティリウム製で黒くなっていたはずの左手まで肌色に戻っていた。
「……左腕も戻ってるんだな」
「ナノマシンで人工体皮を作って表面だけコーティングしてるんです。ただ今はそんな事より、この最悪な状況をどうにかしなければなりません」
それは寝ぼけ頭のアーサーにも分かっている。
難攻不落の『水底監獄』。逆潜入して脱出という過程に、無理難題に近い脱獄という項目まで加わった。
元々人を逃さないための檻の中から抜け出すのは容易ではない。しかもこの檻の中、全く魔力を使えそうになかった。結祈やサラから聞いた事があるが、どうやら自然魔力すら使えないらしい。
「……さて、と」
とりあえず起き上がろうとするが、十字架の攻撃のせいで体力を根こそぎ持っていかれたようで、腕に上手く力が入らなかった。まるで全身に重りでも付けられているかのような気分だった。
「……何故ですか?」
その声に反応して、アーサーはうつ伏せに倒れたまま顔だけをネミリアの方へ向ける。そして驚いた。
自分で無感情と言っていて、確かに今まで無表情だった彼女が、どこか苦しそうな顔になっていたのだ。
「レンさんはどうしてそこまでアクアさんを助けたいんですか? それにアクアさんを助けるためなら、あの時、残るべきだったのはレンさんじゃなくてわたしやノイマンさんのはずです。感情の無いわたしにはあの魔術は効かなかったはずですし」
「……最後に一つ、あっただろ?」
「何かの間違いです。わたしに罪悪感なんて……」
あの時、十字架が生まれた事にネミリア自身が一番困惑しているようだった。その答えが何となく分かっているアーサーは勿体ぶらずに言う。
「引け目を感じてくれたんだよな? 俺を置いて行くことにさ」
引け目、捉え方によっては十分に罪悪感と呼べるだろう。
感情が無ければ、決して抱かないものだ。つまりネミリアは感情を抱かないのではない。記憶を消されたせいで感情が分からないだけで、十分な経験を積めば普通に感情を抱く事ができるはずなのだ。
「ネミリア、お前にはちゃんと感情がある。時間と経験さえあれば、根が優しいお前は当たり前のように誰かを思いやれる人になれる、絶対に」
「……、貴方の言っていることが、わたしにはよく分かりません」
だけどその顔には、本人には自覚が無いのだろうが、理解したいと書かれていた。だがそんな拘泥も僅かだったようで、すぐにいつもの無表情に戻る。
「それより話を逸らしましたね? わたしは、どうして貴方がそこまで他人を助ける事に拘るのかを聞きたいんです」
「……、それは」
異常かもしれないと、今のアーサー自身分かっている。その本音を話すには必然的に記憶喪失についても触れなければならない。正直適当な話で誤魔化す事もできなくはないのだが、感情という壁を乗り越えようとしている彼女を前に、それをするのはあまりにも失礼な気がした。
ここで見限られるリスクだってある。
だけど、アーサーは正直に話す事を決意した。
「ネミリア……お前にだけは話しておくよ」
そしてアーサーは告白した。
自分の記憶がネミリアと会ったあの日からの数日間しか無いという事を。今までそんな状態で周囲を欺き、戦って来たのだと。
所々つっかえて、しどろもどろな説明はお世辞にも聞きやすいとは言えなかっただろう。でもネミリアは嫌そうな顔をせずに、黙って最後まで聞き終えた。
「記憶喪失、ですか……」
「そうだ」
「『タウロス王国』や『アリエス王国』で参加していた事件や、『ポラリス王国』の事も覚えていないんですか?」
「さっぱり」
もうやけくそ気味に何もかも吐き出すと、ネミリアはより一層難しい顔になった。アーサーはそれを怒っていると取り、すぐに額を床に付けて謝罪のポーズを取る。
「……黙ってた事は謝る。すまなかった」
「いえ、それは良いです。ですが記憶が無いならなおさら疑問です。記憶が無いなら、貴方がそうまでする理由はどこにも無いはずです」
「いや、それは違う。記憶がないからなおさらなんだよ」
そう言ってアーサーは顔を上げる。
ネミリアの顔を見たまま話すのは気恥ずかしいので、前にある鉄格子の方を向いて、床に顎を付けたまま話す。
「……確かに俺には記憶が無いから詳しい事までは分からないんだけどさ」
スゥは傷ついたアーサーを庇いながら言っていた。
誰かのために戦い続けて、記憶を失うくらいボロボロになって、それを誰も止められなくて、守れなかったからアーサーの記憶は無くなったのだと。
「記憶が無くなる前の俺がどんな人間だったかなんて思い出せない。それは他人の心をイメージするようなもので、イメージしても明確な答えが出る訳じゃない。でもさ、俺はきっと、頑張ったとか命を懸けたとか、そういう言い訳をするために記憶が無くなるまで頑張ったんじゃないと思うんだよ。もし俺がそんな人間なら、こうなる前にどこかで諦めてただろ。そうじゃなかったって事は、そういう事なんだ」
スゥは気づいていたのだろうか。記憶が無いアーサーにも本当の所は分かっていないのだが、何となく確信している事があった。
きっと前の自分は大切な何かを守るために傷つく事も覚悟して、いくつもの戦いを乗り越えて来たのだと。その終わりに何かの意味があるのだと信じて、ただ前に進み続けた。ある時、その結果が記憶喪失という風に現れただけだと。
「前の俺の事を全く思い出せなくても、その思い出せない部分のおかげで俺はこうしてここにいる。俺の頭から今までの行動やその意味が全部抜け落ちてたって、体は全部覚えてるんだ。だから俺は俺がやって来た事を、やるべき事が分かってる。いつか記憶が戻った時に、前の俺が今の俺に『ありがとう』って言えるように。俺は俺に、顔向けできないような選択は絶対にしない」
結局、それが今のアーサーを支える根幹だった。
だからスゥが離れていってしまったあの時に、アーサーは停滞せず進み続ける選択をしたのだ。
そこまで言い切って、アーサーは再び腕に力を込める。なけなしの体力を振り絞って、ゆっくりと腰を上げる。
「ッ……結局、さ。こういうのは記憶が有っても無くても関係ないんだよ。今日の俺の行いを、明日の俺が後悔しないように、俺は今やりたい事を……やるべき事をする。明日を後悔して生きるくらいなら、後悔しないで今日死にたい。記憶を失う前の俺も、きっとそう思ってたはずだから」
そうしてアーサーは立ち上がる。そして弱々しい力で拳を握り、鉄格子へと叩きつける。
音すら鳴らなかった。その程度の威力しか今のアーサーの体力では出せなかった。
しかしその姿を見て、ネミリアは何かを思ったようだった。
「……何となく、資料だけでは分からなかった貴方という人物が分かってきました」
呟くような言葉がアーサーの耳に入って来た。
「異常な生い立ちや何度も事件に関わってきた事が原因で、世界から危険視されるような存在になった訳ではないんですね。最初からそういう人だったから、結果的に世界から危険視される立場になってしまったんですね」
それはアーサーに対して言っている風ではなく、自分の中で何かを確認して整理する作業のようだった。
それが終わったネミリアは、アーサーの傍に寄り添って今にも倒れそうな体を支えながら言う。
「貴方とはパートナーですから、最後までとことん付き合います。それに貴方の傍にいれば、感情というものが何か分かりそうな気がするので。とにかく脱出方法を考えましょう。どのみちこのままでは無駄死にです。メアさん達の救援もあまり期待できないでしょうし」
「だったらオレが開けてやるよ」
突然、そんな声が割り込んで来た。
アーサーがゆっくりと振り返ると、今まで気付かなかったが牢屋の隅の陰に隠れるように一人の男が座っていた。いや、歳はアーサーと同じくらいか。その少年はゆっくりと立ち上がりこちらに歩いて来た。
囚人、なのだろうか? 完全に私服だった。金髪に黒い髪が混じった(絶対気にしてるだろうから口が裂けても言えないがプリンみたいな色合いの)髪で、目付きが鋭くその顔は正直悪人面だった。とはいえノイマンの時のような警戒心が内側から湧いてこないので、一応は何かして来たらすぐに動く程度の心構えで集中する。
「ったく、まさかアクアを助けるために『水底監獄』に忍び込むバカがいるとはな。おかげでオレもまた動かなくいけなくなっちまった」
「あんた……誰だ?」
「クロウ・サーティーン。ちょっと特異体質のどこにでもいる傭兵崩れだ」
「傭兵、崩れ……?」
「アクアのヤツに雇われるまではな。今は捕まってこんなに落ちぶれてる。こっから出るだけなら簡単なんだがなァ」
「簡単って……この中じゃ魔術は使えないだろ」
「魔術は、な。だけどオレの力は特別だから問題ねェ」
鉄格子の前まで歩いてきて、アーサーと並んだクロウは正面を見たまま口を開く。
「取引だ。ここから出してやる代わりに、ギリアス・マクバーンを何とかしてくれ。アクアを助け出すまでの足止めでもいい」
「……一応確認するけど、あんたもアクアを救い出したいって認識で良いんだよな?」
「ああ、だが一番の障害でもあるギリアス・マクバーン。アイツとの相性が最悪なんだよ。オマエらがアイツを止めてくれるなら、アクアのヤツを檻から救い出せる」
「なら取引する。俺達をここから出してくれ」
その即答は予想していなかったのだろう。提案した方の少年が驚きの表情を浮かべていた。
「良いのか? 言い出しっぺが言うのもなんだが、取引相手としちゃ最悪だぞ」
「良いさ。アクアを救い出せるなら悪魔とだって取引してやる。契約期間はアクアを助け出すまでで良いか?」
「悪魔っつうより、オレは死神だけどな。ま、その期間で良い。どっちみち、アクアを助け出すのは別の契約があってやらなくちゃいけねェしな」
言いながら、少年はパチンと指を鳴らす。
すると彼の体の周りから蒼い炎が熾り、背後には布切れのようなコートを着た大きな鎌を持った骸骨が現れた。
『死神』。彼の言ったその一言が脳裏を過る。
「『死神の十三』。鉄格子を斬り飛ばせ」
瞬間だった。
目にも止まらぬ速さで死神が鎌を横薙ぎに二度振るい、鉄格子を綺麗に斬り飛ばした。途端に魔力の感触が戻ってくる。
「ようやく出所だ。感づかれる前にさっさと動くぞ」
「ああ、分かってる」
「ちょっと待って下さい」
その制止の言葉はネミリアから放たれた。アーサーを支えていた手が白く光る。『共感』の力を使ったのだろう、力が入らなかった体に急にみなぎるほどの力が込み上げてきたのだ。
「ネミリア……一体何をしたんだ?」
「『共鳴』の力で貴方の脳に働きかけて、アドレナリンを強制的に分泌させました。今日一日くらいなら疲れを忘れられますが、荒業なので後日に後遺症が残ります。具体的に今以上に体が動かなくなるはずです」
「……だけど、今は動けるんだよな?」
「はい。話から察するに、貴方は後日来る後遺症よりも今の方が大事そうだったので」
「まだ短い付き合いなのによく分かってるな。ありがとう、ネミリア。何から何まで本当に」
「パートナーですから。それでは早く行きましょう。脱獄がバレる前に少しでも第五階層に近づきたいです」
新たな仲間を加え、アーサーの時は再び動き出す。
今と前の自分をよく見つめているアーサーだが、きっとこの『力』にはどちらもアーサーも気づいていないだろう。
ネミリアやメア、前のアーサーも含めるなら『オンブラ』やエルフ達、デスストーカーや魔族の傭兵などもそうだろう。
その場にいる者達を次々と味方に付ける。
それこそが彼の持つ最大の力だということを。