253 記憶無し男は運命に踏み込む
長話をしていたので、もしかしたらスゥより遅くなったかもと思ったが、歩数を確認しながら帰るとまだ帰って来ていないようだった。
こうして歩いて帰ってくると、この家がどれだけ街から離れているのかが分かった。まあ、だからといって鍵もかけないのはどうかと思うが。
しばらく大人しく待っていると、スゥも帰って来た。
「あっ、おかえり……ってどうしたんだよその傷!?」
「これは、その……転んじゃって」
買い物袋を持つ手とは逆の手で頭を押さえるスゥの手は血で赤くなっていた。どこでどう怪我したのかは知らないが、アーサーは慌てて駆け寄る。
「とりあえず荷物を……」
持つよ、と言いかけてアーサーはその小さな違和感に気づいた。
人が転んだ時、よほどの事が無ければまず手をつこうとする。頭が切れたという事は、倒れたのは柔らかい土の上ではなくレンガの路上のような悪路という事だろう。それなのにスゥの手は綺麗なままで、擦り傷一つ付いていなかったのだ。
「……転んだってのは嘘だな? 手が綺麗すぎる」
「っ、それは……本当はぶつけて……」
「……」
二度目の嘘を受け入れるほど、今のアーサーでも間抜けじゃない。
本当に事故で怪我をしたのなら、わざわざ嘘をつく必要はない。もし怪我を隠したいならそれは後ろめたい事があるか、誰かを庇っているかなど、どうあれ他人が関わってくる。
「誰にやられたんだ……?」
あえて誰かに怪我をさせられた前提で詰め寄る。すると分かりやすくスゥの顔が歪み、アーサーは自分の勘が当たっていたのだと分かった。
「……違うの、これは私が悪いから……」
「っ……それこそ違うだろ」
アーサーは思わず、声に怒りを含ませて否定した。
「どんな理由でも誰かを……それも女の子の顔に傷を付けるのが正当化されて言い理由はない。お前が悪いなんてことは絶対にないんだ」
「レン君……」
「別にお前を傷つけた相手に痛い目を見せてやろうとかは思ってない。ただ、お前が置かれてる状況を教えて欲しい。こんな離れた場所に住んでる理由とか、どうして俺みたいな怪しいヤツに親切にしてくれるのかとか」
親切心を疑う訳ではない。ただ卑怯かもしれないが、こう言えばスゥが教えてくれると思ったのだ。
「……聞いたら」
そして額の傷ではない、もっと痛い何かに耐えるように、
「レン君はきっと、私を嫌いになるよ……?」
「……それでも」
ならない、とも。
かもしれない、とも。
何も知らないアーサーは言葉を返さなかった。
「それでも、俺はスゥの事を知りたい」
それが偽りの無い気持ちだと、真摯に伝えるためにスゥの目をじっと見据える。
スゥはとても複雑な表情だった。そしてその表情を傷口を押さえたまま腕に隠すようにして俯く。
「……もし、私が嫌いになったら、正直に言ってね……?」
そんな前置きをしてから、スゥは右目を隠していた前髪をかき上げた。
その下にあったのは、左目とは違う色の右目だった。それも普通ではない深紅色の輝きを放っている。
それを見て、アーサーは全てに得心がいった。
「その右目……スゥは『魔族堕ち』なのか?」
「ううん。私じゃなくてお父さんが『魔族堕ち』だったの。だから私には四分の一だけ魔族の血が流れてる。それが片目に現れてるの」
「そして、それがお前が傷つけられる原因か……」
「そうだよ。一緒に歩いていて注目されてたのはレン君じゃなくて私なの。この傷はどこからか飛んで来た石が当たってできたもので、レン君に先に帰って貰ったのはその様子を見せたくなかったから」
つまりは、これは今日だけが特別な訳では無いのだ。
いつも通り、これがスゥシィ・ストームの日常。
夕食の買い出しですら、流血無しにはこなせない環境。
それでも、アーサーがテーブルの下で拳を握り締めて、歯を食いしばって怒りに震えているのはそれが主な理由では無かった。
「頭の傷もね、もうほとんど塞がってるの。人より治癒力が大きくて、そんなだから魔族以上人間未満の扱いを受けてる。だけど当たり前だって私自身も分かってる。人は理解できないものを恐れるから、人間でも魔族でもない私が攻撃されるのは当たり前の事で、むしろここから追い出されないだけマシだって思ってる。こうして食材だって売ってくれるし、この程度で済んでありがt
「もう止めろ」
堪えきれなくなって、アーサーは懇願するように呟いた。
アーサーが怒りを覚えていた一番の理由は、それを語るスゥの表情。泣きたいのに泣けないような、そんな複雑な笑み。どんなに傷つけられても悪いのは私です、と言い続けて泣く事すら許されていない彼女の境遇に、どうしても怒りがこみ上げてくるのだ。
「そんなどうしようもない生まれの理由だけでスゥを嫌いになってたら、俺は世界中のほとんどの人間を嫌いにならなくちゃいけなくなるよ……」
それくらい、アーサーにはスゥが善人に見えていた。それは記憶が無いなんて関係無く、当然の事のようにそう思っていた。
「レン君は優しいね……だけど、嫌われてるのはそれだけが理由じゃないんだよ?」
苦みを含ませた曖昧な笑みを浮かべて、スゥは続ける。
「……私には『断絶障壁』っていう魔力障壁と、『無害無敵』っていう透明化になる『無』の魔術があるの。それが悪い」
「悪い?」
「うん。特に透明化の方だけど、透明になっている間はあらゆる感知に引っ掛からないの。魔力感知だけじゃなくて、科学的なセンサーや動物の感覚器官にも。それなのに私は透明化中も物を触ったりできる。……レン君は鋭いみたいだから、もう分かっちゃった?」
「……なんとなく、分かって来た」
誰にも感知されない完璧な透明化。いや、もはやそれは一時的な消失に近いのかもしれない。
とにかく誰にも感知されず、それなのに実体を持っている。それはつまり透明化中にスゥが何かをやっても、誰もそれを咎める事ができないという意味だ。何かを盗んだり、殺したりする事が容易にできる。
もしスゥが本当の悪人なら彼女に強く当たる方が危険だと思うのだが、人間そこまで冷静になれないのかもしれない。まあ、ここまでやられても何もしない少女が、そもそも悪人な訳が無いのだが。
「……アクア・ウィンクルム=ピスケス」
アーサーがその名前を呟くと、スゥの肩がピクっと震えた。
「本来なら次の王様になってたはずの、捕まってるお姫様だろ? その話の時の様子が明らかにおかしかったけど、それも何か理由があるのか?」
「……レン君は本当に遠慮が無いね?」
「どうしても聞いておきたいんだ。頼む、誤魔化さずに教えてくれ」
「……、」
長い沈黙があった。
時計の針の音だけが鮮明に聞こえてくる空間で、やがてスゥは観念したように躊躇いがちに小さく口を開いて言葉を吐き出す。
「……友達、だったの。レン君みたいに偏見の無い、たった一人の……」
「……そっか。話してくれてありがとう」
ここまで踏み込んでおいて、ありがとうの一言だけで全てを償えるとは思っていないが、それでもアーサーは感謝の言葉をスゥに伝えた。
そして思う。
やはり自分は間違っていなかったと。
スゥシィ・ストームという少女は尊敬できる相手だと。
「それじゃ、一応傷口の手当てをさせてくれよ。いくらほとんど治ってるからって、そこから黴菌が入る可能性だってある訳だし。救急箱みたいなのってあるか?」
患部を見るためにそっと手を伸ばすとスゥは後ろに退いた。流石にいきなり手を伸ばすのはマズかったかと思ったが、どうやら後ろに退いた理由はそれじゃなかったらしい。
「……怖がらないの?」
「ん? 何を?」
「だってレン君、行く当てがないからって引き留めたけど、私と同じ家で寝泊まりするんだよ?」
「うん、だから何? むしろ外で野宿じゃないんだから安心だろ? ……それに、誰かと一緒に食べるご飯は美味いしな。それも可愛い女の子とならなおさらだ。不満なんか一つも無いよ」
その返答に、スゥはパクパクと口を動かす事しかできなかった。
本当にそれだけなのかと、正直に言えば不信に思っていた。多くの人が自分に向ける感情は恐怖と忌避なのに、目の前の少年の姿がスゥにはたった一人だけいた友達に重なって見えていた。
その様子を見てアーサーは再び手を伸ばした。しかし今度は傷口を見るためではなく、頭の上に置いて撫でるためだ。
いきなりの行動にスゥは目を見開く。
「い、いきなり何を……」
「いや……なんか、スゥが泣きそうな顔してたから、慰めようとつい……ごめん、すぐにやめる」
「あっ、待って!」
引きかけた手をスゥは掴んで止めた。そして再び自分の頭の上に引き寄せる。
「もう少し、傷が塞がるまでで良いから……お願い」
「……ああ、勿論」
なんだかんだでスゥに何かをお願いされたのは初めてで、アーサーは喜んで応じた。
何とか彼女を取り巻く環境を変えられないものかと、分不相応にも思考を巡らせながら。
◇◇◇◇◇◇◇
アーサーが寝床として用意して貰ったのは、今の自分にとっては始まりの記憶となる部屋だった。部屋に入ると森で倒れていたところを運んできて介抱してくれた事に、改めて感謝の気持ちが湧き上がってくる。
特にこれといって体力を使うような事はしていないのだが、体にはかなりの疲労が溜まっていた。怪我の影響だけではなく、記憶喪失に対して手探りの状態なのも精神的に影響しているようだった。
布団の上に寝転がって、アーサーは帰ってくる時に路上の掲示板から勝手に剥ぎ取って持って帰って来ていた一枚の紙を取り出して目を通す。それは『セレクターズ』に参加するにあたって、簡単にそのルールが書かれていた紙だった。
記憶を無くし、この国に来て一日しか経っていないアーサーにも、この場所でくすぶっている火種は感じ取っている。ネミリア=Nの指摘は正しく、近い内にこの国で何かが起きると。そして、おそらく火種の中心に最も近い位置にある欲望に塗れた『セレクターズ』に、アーサーは興味を引かれていた。
その紙には、ざっとこんな風に書いてあった。
『セレクターズ』の主なルール。
●参加者はそれぞれ一名ずつパートナーと一緒に参加しても良い。
●パートナー以外の人物や団体と協力関係になるのは禁止。だが参加者同士の協力は可とする。
●選手登録は前日まで。パートナーは不在でも構わないが、参加者は必ず来ること。
●選手とパートナーはそれぞれ同じ番号の書かれた青いバッチと赤いバッチを肌身離さず所持する。これを破壊された場合、その者は戦闘不能と同じ扱いになる。
●選手が死亡、または戦闘不能になった場合は失格。ただしパートナーが死亡、または戦闘不能になっても選手は続行できる。
●初日は『ピスケス王国』を全土を使ったバトルロイヤル。二日目は残った選手によるトーナメントを行う。
●最後の一組が優勝者。『ピスケス王国』の次期国王となる。
アーサーはこのルールを一通り読んで、ある違和感を覚えた。そもそも欲望丸出しの催しなので仕方がないかもしれないが、何か作為的な悪意のようなものを感じたのだ。
少し考えて、このルールを作った人物の浅い意図を読み取った少年は浅く息を吐く。それは悪意に対して呆れたからではない。
自分が今し方思い付いた荒唐無稽な希望。何の根拠もない希望的な観測で、全てが上手くいっても認められるか分からないその手段。それに対して少年は迷うように息を吐いたのだ。
(……賭け、だな……)
向こうの意図が分かっていて、それが一般参加の自分にも利用できるものなら、利用しない手は無い。
いくつかの綱を渡り、ただ命懸けというだけで、何も無い自分には十分過ぎるほどの成果を望める。それにスゥに対する恩返しには、それ以上の事を思い付けなかった。
「……よし」
その決断にまとわりつくリスクを理解したうえで、アーサーは立ち上がった。
向かったのはスゥの部屋。ドアの前で一つ呼吸を入れてから、アーサーはノックする。
「スゥ、まだ起きてるか?」
「レン君? ちょっと待って、すぐ開ける」
ドアを開けたスゥはすでに寝る準備を整えていたのか寝巻姿だった。アーサーも体感して分かっているが、この国の夜は比較的暖かい。しかし霧も出るようだし朝は急に冷えるのか、その対策かは分からないがスゥの寝巻はもこもこした暖かそうな素材の服だった。
「こんな遅くにどうしたの? もしかして、何か不備があった?」
「いやそうじゃない。実は……今日一日、お前に貰った恩を返すにはどうしたら良いか考えてたんだ。で結局、俺はそこまで頭が良い方じゃないみたいだから、これしか思いつかなかった」
首を傾げるスゥの様子に少し躊躇してから、アーサーは思い切って本題を切り出す。
「スゥ、一緒に『セレクターズ』に出よう。お前の友達を助けるために」
「っ!?」
そんな言葉は予想していなかったのだろう。その言葉を聞いてスゥは大きく目を見開いた。
「いきなり、そんな……」
「スゥ、よく聞いてくれ。助けたい人がいて、助ける手段があるなら、やらなきゃダメだ。じゃないと後で絶対に後悔する」
記憶が無くてもそれだけは分かっていた。何故だかロケットの写真が頭をチラついたが、それは胸が痛むだけなので今は頭の隅に追いやる。
「『セレクターズ』に出たいか出たくないかじゃない。お前の友達を助けたいかそうじゃないかで選んでくれ。お前が人を傷つけたくないのは分かってる、だからその役は俺がやる。俺が戦ってお前が守る、それで俺達は最強だ。絶対にアクアを救い出せる」
「……っ」
唇をぎゅっと噛みしめて、スゥは俯いた。
迷っている少女の決断を良い方向に導くために、アーサーは伸ばした手をスゥの頭に置いて撫でた。
「人の良さとか、優しい所とか、それがスゥの美徳なのは分かってる。でもここだけは我慢しないでくれ。俺には我儘を言ってくれて良いんだ」
「……でも、恩を売ってからその弱みに付け込むような……」
「だったらさ、考えを変えてみてくれよ。お前は俺の弱みに付け込むんじゃない。俺がスゥの友達を、アクアを助けたいっていう我儘に付き合うんだ。俺が、お前を、連れ回す。拒否権は与えない……って言ったらどうだ?」
「……その言い方は、あまりにも卑怯だよ」
「卑怯で良いよ。それでお前の友達を助けられるなら」
「……、たいよ」
しばしの沈黙の後。
ぽつり、と。スゥは決断を下した。
「私はアクアを……友達を、助けられるなら助けたいよ……。だからそのために、レン君の力を貸してくれる……?」
「勿論、喜んで」
これが正しい選択なのかは分からない。
記憶を失う前の自分ならどうしたのかも想像できない。
だけど、今のアーサーはこれで良いと思っていた。たとえ優しい少女を無理矢理動かすという悪役になってでも、これで良いと断言できた。
心の底で友達を助けたいと思っていたはずの少女の願いを、手助けしたいと思ったのが間違いのはずがないのだから。
ありがとうございます。
今後しばらく更新ペースが落ちるかもしれませんが、それでも週に一本は出したいと思っているので、よろしくお願いします。