行間三:『消滅』
そして、その日は来た。
午後まではいつも通りの日で、その日は仕事を頼まれたアレックスがアーサーとレインの家を訪ねていた。
「おいアーサー。一緒に森行こうぜ、森」
開口一番にまとめた要件を伝えると、アーサーは若干嫌そうな顔をした。
「随分突然だけど、森に行って何する訳? 俺、結構疲れてるんだけど」
「そりゃ背中にそいつを背負ってたらそうなんだろ……俺の記憶が正しけりゃ、午前中からずっとそうしてねえか?」
呆れたように言いながら、アレックスが指さしたアーサーの背中には彼の妹のレインがしがみついていた。アーサーからは見えないだろうが、おんぶされているその顔はこれ以上無いほど幸せそうだった。そのうえで、この行動の正当性を説明していく。
「おにいちゃんが妹と一緒にいるのは当然だよ。昨日は天体観測以外は二人共ずっと森に入ってて一緒にいられなかったんだから、今日はその埋め合わせをして貰わないとダメなの」
「って事らしいから」
これ以上無いくらい阿保な理論を展開する妹と、それを一切疑いもせず受け入れている馬鹿な兄。それでもこの三人の世界では多数派だ。多数派という数の暴力がアレックスの常識を覆していく。
「……ったく、ブラコンとシスコンが合わさると始末に負えねえから嫌なんだ」
言いながらアレックスは頭をガリガリと掻いた。
これは今日だけが特別な光景ではない。毎日、当たり前のような日々で繰り返されている、彼らなりの幸福だった時間だ。
「良いから来い、こっちは仕事なんだよ。俺達が今日何か捕まえねえと、俺とお前の所の晩飯は草系だけになる」
「うっ……それはちょっと嫌かも」
うげっと舌を出して、レインは潔くアーサーの背中から降りた。
簡単に説得されたレインは、敬礼のポーズをアーサーに向けて言う。
「というわけでおにいちゃん、妹は夕食にお肉を所望します! ……続きは帰って来てからで良いからお願いね?」
「おっけい任せとけ! 大物取って来てやる!!」
上目使いの妹のお願いに、馬鹿な兄の答えは一つだけだった。その横でアレックスは心底呆れたように溜め息をつく。
「……こいつ見事に操られてやがる。テメェは将来女関係で苦労すんな……」
アーサーが単純なのか、レインが小悪魔なのか、あるいはその両方なのかもしれない。
とにかく二人はレインのエンジェリックスマイルに見送られながら森に入って行く。二人の手には一応、鉈が握られていた。
「それで狙いは?」
「適当に見つけた動物。ただし、危険なヤツはパスだ」
「了解、さっさと終わらせて帰ろう」
彼らは九歳とはいえ、何度も狩りをしているのだ。いつもなら二時間程度で終わらせられるレベルの簡単なお仕事のはずだった。
けれど、この日は違った。
理由は分からない、だがいくら探しても動物が一匹もいないのだ。
「……どうなってる?」
呟かれたアレックスの疑問。それにアーサーは答える。
「もしかしたら野生動物の勘で何かを感じ取ったのかも。だとすると嵐でも来るのか……早く帰って備えた方が良いかもしれない。どうにも嫌な予感がする」
「おい止めろよ。テメェの予感じゃ確信じゃねえか。嵐の中で草食って寝るとか、泣きそうになってくるぜ」
「軽口はその辺にしてもう切り上げよう。早く……」
アーサーが言いかけたその時だった。何かに気づいたアレックスが勢い良く振り返り、遠くを見つめてから声を上げた。
「待てアーサー……こっちに来い!」
「へ……?」
「疑問を挟むな、死にたくなきゃとっとと伏せろ!!」
ほとんど押し飛ばすような形で、アレックスはアーサーに覆い被さるように地面に伏せた。突然の事にアーサーは困惑する。
「なっ、ん……だ!?」
「これを感じねえならテメェの勘はボケてんぞ!!」
そもそもこれは魔力量の問題でもあるのだが、当時はまだ魔力感知など魔術に関わる事は何も知らない二人はこの感知のズレの正体に気づく事は無かった。
ともあれ、アーサーも遅れてようやく気づいた。
粘っこくて鋭いような、形容しがたい気持ち悪いものが全身にまとわりついてくるような感覚だった。ドス黒い何かが体内に入り込みそうで、すぐさま起き上がって駆け出したくなった。
全身から汗が吹き出し、だというのに体温はどこまでも下がっていく。自分の意思とは関係なく、勝手に全身が震えて止まらない。
今すぐここから逃げろと、全細胞が訴えかけて来ていた。その行動が最善かどうかなんてのも無視して、ただ頼むから逃げてくれと叫んでいた。
さもなくば―――オマエ ココデ シヌゾ―――と。
「……っっっ!!!???」
ブヂッ!! と唇を噛み切った音と共に口内に鉄臭い味が広がった。
何とか理性を取り戻すために、アーサーはそうした。チラリと視線を背中側に向けると、アレックスも同じように自身の唇を噛み切っていた。
「(冗談じゃねえ……何だって魔族がこんなとこにいるんだ!? 結界を越えた覚えはねえぞ!!)」
そう、魔族。
ただそこにいるだけで死の予感を喉元に突き付けてくるほどの存在感。ロクに戦う手段のない九歳の少年二人にはどうしようもできなかった。ただ嵐が過ぎ去るのを家の中で待つように、ジッと声を殺して待つだけだ。
「なあ、本当にもう『人間領』に入ったのか?」
ほんの数メートル先を歩く魔族は二人の男。その中の一人が何の気なしにそう言った。
しかし、間近にいたアーサーとアレックスにとってはたまったものではなかった。その何気ない一言だけで、あまりの緊張感に二人はすでに呼吸の仕方も忘れてしまっていた。
「……ああ、こっちで合っている」
「この先にある村を襲うんだっけ? ったく、どうして俺らがそんなこと……」
「知った事か。俺達下級は上の命令には逆らえん。それに忌々しい結界を越えられるのも俺達のような下級だけだからな。とにかく俺達も仕事を果たすぞ」
「へいへい、お前は本当に真面目だな」
真面目と不真面目の二人組というのは分かった。
けれど、それ以上に問題の発言がその短い会話の中にはあった。
この先の村を襲う。それに該当する場所はつまり、自分達が住み家族がいる場所だと。
「……っっっけんな!!」
先に動いたのはアーサーの上にいたアレックスだった。というか、アーサーは彼に押し潰されていたので後に動くしかなかった。
勝てないのは分かっている。
それでもせめて足止めをしないと、家族を含めた全員が蹂躙されるのは目に見えていた。だからこそ二人の少年は鉈を片手に駆けだした。
距離はたった数歩で埋められる程度しかない。完全に虚をついた攻撃は、届くかのように思われた―――が、
ッッッバギィン!! と。
鉈を粉々に砕かれて、アレックスの体が砲弾のような勢いでアーサーの横を抜けて木に叩きつけられた。
目の前で起きた事なのに、アーサーはそれを目で追う事ができなかった。それほどの速度でアレックスは何らかの反撃を受けて返り討ちにされたのだ。
そして、次にそれを身をもって体験したのはアーサーだった。というより、自身の身に直接受けても何をされたのか理解できなかった。全身に鋭い痛みが走ったかと思うと視界が真っ白に染まり、次いで背中に衝撃が響いた。そうなってから自分もアレックスと同じように木に叩きつけられたのだと理解した。
(ぁ……、そ……か、らが……)
思考も途切れ途切れだった。体が自分のものじゃないように全く動かせなかった。何とか動く目蓋を上げると、視界が真っ赤に染まっていた。
「も、ういい……だろう。こど……もに、などか、まってな……いでしご、とにも……どるぞ」
「あ……あ、おれた、ちにむか……ってく、るきが、いはに……んげ、んにし……てはよ、かったが……な。……うらむ、んなら……ひりき、なじぶ……んをうら、……んでしねよ、がき、ども……」
彼らが何かの会話をしているのは分かっていたが、それを処理するだけの能力が残っていなかった。言葉は途切れ途切れで、よく分からない。
(……じょう、だんじゃ……ないっ)
僅かに擦り合わせた奥歯から音が鳴る。こんな状況で、アーサーの頭の中には怒りしかなかった。
ここで立たなきゃみんなが死ぬという当たり前の事実。
ここで立ったとしても、瞬殺されてしまうだけという当たり前の事実。
自分には全てを守る事ができないという当たり前の事実。
その全てが―――その全てに、アーサーは深く怒りを覚えた。
何故、こんな目に遭わなくてはならない?
俺が、じゃなく。アレックスやレイン、母親や村のみんなが殺されなくちゃならない?
人と魔族が共存できる世界を望んでいた彼女が、どうして魔族に殺されなくちゃならない?
どこの誰とも知らないヤツの命令で、どうして!!
「……な」
言葉が、漏れた。
獣のようでいて、地の底から絞り出したような低い声が。
「……るなっ」
自身を内側から燃やすような強い何かを感じ取った。
それはたった今生まれたものではない。ずっとそこにあって、今まで無意識に触れて来なかったものが、アーサーの怒りに呼応して浮上してきただけだ。
「……けるなッ」
言葉に徐々に力が込もる。
それが正しい力でないのは、何となく理解していた。
それでも彼は彼自身の意志で、その得体の知れない何かに手を伸ばした。
「フザケルナァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!」
ずズズズズズズズズぞゾゾゾゾゾゾゾゾゾざザザザザザザザザザ!! と。
それはアーサーの内側から漏れ出た。
『黒い炎のような何か』の揺らめきが、アーサーの体に衣のようにまとわりつく。いや、そもそも全身からあふれ出しているのだから、まとわりつくという表現は正しくない。ただ当たり前にずっとそこにあったものが、たった今視認できるようになったような、そんな印象すら与えていた。
「ウォォォオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
もはや獣に近い雄叫び上げているアーサー自身にも、自らの体に起きた変化に完全には気づけていないだろう。明るい茶髪だった髪は全て真っ白に、両方の瞳の虹彩は『魔族堕ち』のように深紅色に染まっていたのだから。
そして彼は内側から溢れ出る激情に身を委ね、右手を握った。
そこにあるのは鉄製の鉈。何の力もない魔族相手には非力すぎる武器だ。
「ソコヲ……」
身を屈め、あからさまに突撃の体勢を取る。
奇襲ですら効かなかったのに、真正面から挑むその姿勢に二人の魔族は失望の色を見せていた―――が、それも一瞬の事だった。
なぜなら次の瞬間には、まるで悪魔と化したアーサーが懐にいたからだ。
時間を止めた訳でも、超スピードとも違う異質な何か。
まるで初めから両者の間に距離など無かったかのように、アーサーは魔族の懐に潜り込んでいたのだ。
「チィ―――ッ!!」
初めてであった。
不真面目な魔族の顔に焦りが走り、彼は右手を引き絞って解き放つ。
それはアーサーとアレックスが吹き飛ばした時と全く同じ攻撃。だが今回はアーサーにもそれがよく見えていた。開いた左手で容易くそれを受け止める。
―――否、受け止めるという表現は適切ではなかった。アーサーの左手は『黒い炎のような何か』に覆われており、それに触れた途端、魔族の右手が跡形もなく『消滅』したのだ。異変に気づいた瞬間に手を引いたが、もう遅かった。彼の左手に触れてしまった拳は完全に消えてなくなっていたのだ。
「ドケェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!」
こちらも『黒い炎のような何か』に覆われた鉈を、アーサーは横薙ぎに振るった。ただの鉄製では傷一つ付けられなかったであろう魔族の肉体は、何の抵抗もなく斬り裂けた。
しかも、アーサーはそこで手を休めない。
唐竹、袈裟斬り、右薙、右斬上、逆風、左斬上、左薙、逆袈裟。突き以外の八方向からの鉈の斬撃を何度も何度も繰り返して魔族の体を刻む。何回目で絶命したのかはもう覚えていない。ただ見た目が細切れになるまでアーサーはその手を休めなかった。
「……なん、それ、は……っ」
それを見て、もう一人の真面目な方の魔族の男は震えあがっていた。
数分前とは全く逆の状況。彼は悪魔を見て言葉を漏らす。
「それは、魔力じゃない……ッ!? まったく別で異質な、この世界のものではない何k―――」
その言葉は最後まで続かなかった。
今度は呆気なく、アーサーが向けた左手から放たれた『黒い炎のような何か』が魔族の体を跡形もなく消し飛ばしたからだ。
そして、ふっと糸が切れたように。
アーサーの姿は元に戻った。『黒い炎のような何か』も、真っ白な髪も、赤い瞳も、その全てが元の人間アーサー・レンフィールドのものに戻っていた。
「……ぁ?」
アーサーは今の出来事を辛うじて覚えていた。
まるで夢のようにだが、ぼんやりと。
「これ……俺がやった、のか……?」
残されたのは破壊の跡だけ。目の前にはバラバラになった魔族の死体が転がっていた。
何が起きたのか、それを起こしたアーサー自身にも分からない。
けれど確実に分かるのは、アレは手を出して良い力では無いという事だ。
悪寒を感じたアーサーは意図的に思考を切り、まだ終わっていない問題の方に目を向けた。
「ッ!? そうだ、それより早く村に……っ!!」
彼らは会話で『俺達も仕事を果たすぞ』と言っていた。つまり彼らの他にも別に動いている魔族がいる可能性が高い。そして、それらがすでに村に到達している可能性も。
驚くべき事に、アーサーが負っていた傷は全て塞がっていた。代わりに頭痛は止まないし、体調は最悪の一言だったが。
それでもまだ体が動く事に感謝し、倒れて動かないアレックスを背負いながら、アーサーは村に向けて足を進めた。
ありがとうございます。
今回、アーサーが使った力は今後の問題の一つですので、覚えておいて下さい。
行間はあと二話で終わります。