210 一三番目と三一枚目
少女達と別れたヘルトは薄暗い通路を歩いていた。頼りない蛍光灯の光だけに照らされた、両側を鉄格子に挟まれた通路を規則的な足音を立てながら進んでいき、ある場所で足を止めた。
鉄格子の中には安っぽい鉄製のベッドと剥き出しの洋式便器だけがある、いわゆる牢屋の中。立ち止まったヘルトの前にある牢屋の中には、ベッドに腰をかけたまま俯く一人の少年がいた。
ヘルトは一度大きく息を吸い、気持ちを落ち着けてから言葉を吐き出す。
「……酷い場所だ」
「お前が入れといてよく言う。……なあ、『W.A.N.D.』の新長官様?」
そう。牢屋の外側にいる少年、ヘルト・ハイラントはこの数日で『W.A.N.D.』の長官の座に就いていた。
『パラサイト計画』の阻止や『レオ帝国』の魔族の大量殺害などを含めたこれまでの功績が考慮され、『W.A.N.D.』の職員達と意外にも『ポラリス王国』の女王による推薦で彼はその位置に立った。丁度、鉄格子の向こう側の天童涯の後釜に座る形で。
「それで、わざわざこんな所に何の用だ?」
「……考え直してくれないか? いつだってぼくにはきみが必要だ」
「昔のお前になら、な」
取り付く島もなかった。どうあれ戦いが始まり、その結果が出た時点で二人の間の亀裂はどうしようもないものになっていたのだろう。ヘルトは自業自得だと自分に言い聞かせ、僅かな心の痛みを表情に出さないように心がける。
「俺は間違っていなかった。世界を守るにはこれが最善だった。……ただ、今の世界はまだ、その時では無かったというだけだ。現段階ではお前の方が受け入れられた、それだけの話だ。『パラサイト計画』を止めたせいで間違いなく『第三次臨界大戦』が起きるぞ。これが戦争を防ぐための最後のチャンスだったんだ。俺だけがそれに気づき、世界を守ろうとしていたのにお前はその邪魔をした」
「だけどまだぼくがいる。きみの古い友人が、きみの代わりに世界を守る」
「どうだかな……」
そこには期待の色すら無かった。彼は彼で、まだ自分の方が正しいと思っている。
けれどその正しさは届かない。敗北とはそういうものだ。どんなに自分が正しいと言い聞かせても、結局は誰にも届かない。歴史が何度も繰り返してきたように、敗北が決定した時点でそれは悪と断定されてしまうのだから。
「……世間から見たら俺はただ頭のイカれた極悪人だ。平和のためにプライバシーを売り飛ばそうとしてた訳だからな。俺だってそれ自体、完全な善行だとは思っていなかった。だがヘルト・ハイラント、お前だって俺のように病んでるぞ? どうした、自覚がないのか? お前は新しい力と立場を手に入れたが、その意味を本当に理解しているのか? 『W.A.N.D.』の長官という地位の意味も……」
「……いや、理解していないのは君の方だ」
「しているさ。そんな事は、お前以上に分かってる」
「いいや、分かってない。それなら結果は逆になっていた」
そう言うと天童涯はよく見ろと言わんばかりに両腕を広げて牢屋の中を見回した。彼の体なら簡単に出られそうだが、この牢屋は『タウロス王国』の控室のように魔力を遮断するだけでなく、ユーティリウムを混ぜた金属でできているのでちょっとやそっとでは破壊できない。まさに天童涯のような人間を閉じ込めるためのものだった。
「こんな所に閉じ込めて勝ったつもりか?」
「……まあ、ね」
言い淀みながら答えると、涯はベッドから腰を上げてヘルトの前まで移動してきた。鉄格子を挟んで二人の少年は至近で睨み合う。
「俺から横取りした『パラサイト計画』のアルゴリズムを使って、お前だけが全人類のプライバシーにアクセスできる権利を得た。俺のように組織的にではなく、お前個人が全てを請け負うつもりで」
「……その通りだ。個人のプライバシーなんて、組織で管理するよりも個人で管理した方が安全だ。ぼくならそれができる」
「ぼくなら? 何故それが間違いだと気づかない? どうして自分だけは間違えないと断言できる!? 人間の模範になったつもりか? なら何故それが自分の責務だと思ったんだ、どうして!?」
その言い分は『パラサイト計画』のアルゴリズムだけの話だけではないような印象をヘルトに与えた。あるいはそれは単なる勘違いで、もしかすると自分は涯に責められるべきだと思っていたからかもしれないが。
人間の模範になったつもりは無い。責務だと思った事も。
けれど突き動かされるような衝動はあった。どんな形でも手にしたこの力がある限り、自分は常人とは違う道を歩き続けなければならないと。
そんな思いを看破しているのかしていないのか、涯は叫び続ける。
「俺とお前は元の世界で弱い立場の人と理不尽な目に遭っている人を守ると誓った。たとえちっぽけな力しか無くても、自分の肉を切って配る事しかできなくても、目に見える範囲だけでも守ろうと誓ったはずだ。それをお前は忘れたのか? 答えてみろよ、勇者様! それだけの力を持つと、弱かった頃の誓いなど忘れてしまえるものなのか!?」
「……忘れた事なんて一度も無い。ぼくは力を得て、守るものが多くなった。それでもあの誓いは忘れていない。今日までそれを胸に頑張ってきた」
「だがお前はその誓いを売った。自らの欲望のために捨てたんだ!!」
激情に任せたまま、涯は鉄格子に固く握りしめた両拳を叩きつけた。大きく高い音が鳴るが、特別製の鉄格子には歪み一つ無い。
「俺は自由の意味を知っている。平和の意味を知っている! だがお前はどうだ? お前はこの世界に来て、暴力でしか人を救って来なかった! それがお前の言う自由か? ここまで何人殺してきた? 一体何人騙してきた!? 一度騙すのも何度騙すのも同じ事か? お前の周りにいるお前を慕う人間は全員騙して作った肉壁か!? なあ、答えてくれよ、ヘルト・ハイラント長官!! それがお前の正義か? ならお前が描く正義の形には、一体何の意味があるんだ!? 俺の目を見て答えてみろッ!!」
激情に身を委ねて咆哮する涯とは対照的に、睨みつけられているヘルトは無表情のままだった。
明確な温度差を感じながら、ヘルトは乾いた口を開く。
「……ぼくは、彼女達を信じている。そして……きみの事もだ」
「答えになっていない! この世界の事はどうなんだ!?」
声を荒げて息を荒くする涯は表情の変わらないヘルトに嫌気が差したのか、息を整えながらベッドに戻った。ドカッと乱雑に腰を下ろし、俯いたままいくらかトーンを落として今度は呟くように言う。
「……夜中ふと、目が覚める事は無いか? 古い記憶から来る悪夢にうなされる。いつまた裏切るか分からない。お前や、お前が大切に思う人達に牙を剥くか……」
「……無いとは言わないよ」
「ならそんな時、お前はどうする?」
「そうだね……心底同情するよ。ぼくの大切なものに手を出したら、たとえ神であろうと許さない」
「……そうか」
納得したのか、それとも軽蔑したのか。
天童涯という少年は、それ以上ヘルトに期待するのを止めた。
「ならせいぜい力の限り守る事だな。無知なお前の大好きな世界が終わらないように」
「言われなくたって守るよ。古い友人と決別してまで選んだ道なんだから」
そしてヘルトは牢屋に背を向けて、彼の世界に戻っていく。
「××」
だが完全に断ち切る直前、牢屋から懐かしい名前を呼ばれた。思えば涯以外からは呼ばれる機会があったわけではなく、すでにヘルト・ハイラントという名前の方が自分の中で定着していて違和感すら覚えた。
そして涯は足を止めたヘルトに向かって何かを投げた。鉄格子の隙間から飛んで来たそれをヘルトはキャッチして見てみる。するとそれは何の変哲もないただの銀貨だった。
「これでお前は三一枚目を手に入れた。……俺の言いたい意味が、お前なら分かるだろ?」
「……」
それは一つの裏切りの話。
かつて三〇枚の銀貨で主を裏切った一三番目の男。彼はそれを手に入れた時、一体どういう感情だったのか。
騙された主を嘲っていたのか、あるいは後悔と自責の念に押し潰されそうになっていたのか、どちらにせよヘルトには自分の事しか分からない。
(……結局、ぼくは神様になれなかった。ぼくに相応しかったのは、裏切り者の一三番目だったって事か……)
だから三一枚目を手のひらの中で強く握り締める。そして再び足を進める。古い友人から、帰りを待っている本当の家族の元へ。
「……さよなら、イエス」
「ああ……さよならだ、ユダ」
ヘルトが皮肉を込めて放った別れの台詞に呟くような返答があった。
そして、二人の道は決定的に分かれた。
同じく『正しさ』を信じたはずなのに、どうしようもないほどに……。
ありがとうございます。
初の丸々一章使ったヘルト・ハイラントが主人公の物語、どうでしたか? 彼や天童涯に言わせたい事を言わせまくっていた会話パートなどは書きやすかったのですが、個人的には戦闘パートが書きにくかった印象です。
前にもあとがきで書いたように、やれる事が限られているアーサーは考えていて楽しいし書きやすいのですが、万能に大体の事ができるヘルトは書いてて楽しいは楽しいのですが、少し難しい所があるんです。アレックスはやっぱり中間くらいですかね。
では今回の章について。
今回のテーマは第一八九話のあとがきに書いたように『自由』と『平和』、そして『正しさ』と『悪』でした。大虐殺をしてでも世界を平和にしたかった天童涯と、これから先も多くの人が理不尽に叩き落とされるのを知りながら自由のために戦ったヘルト。短期的な目で見ればヘルトが正しく、長期的な目で見れば天童涯の方が正しかったように思われます。とはいえ個人的には彼らの行いに正誤の判断はつけられないと思います。どちらも正しく、どちらも間違っていた。そんな答えが単純とはいえ一番当てはまるのでしょう。正しさなんて立場によっていくらでも変わるのですから、結局この世界に正しさなんて無いという事だと思います。その辺りは自身の正義の形について語る事のできなかったヘルトの答えがそうなっていると思って頂ければ。
そして物語について。思わずスルーしてしまいそうになりますが、第八章前半に出てきた『ホロコーストボール』の名前が出てきました。そして今回登場した『ウリエル』、天童涯は共通して『箱舟』のノアのエネルギーが使われているという話も。さらに『試作型・対人類殲滅兵装』という新しい兵器の名前も明らかに。この辺りは後の物語に大きく関わってきますのでお忘れなく。特に『ホロコーストボール』と『試作型・対人類殲滅兵装』は。
では次回のあらすじです。
セラとサラの確執が原因で始まった騒動。それはアーサーとサラがセラを打倒した事で終わったかのように思えた。だが新たに現れたダイアナ・ローゼンバウムはシャルル・ファリエールとエクレールを引き連れ、『機械歩兵』の主導権すら奪った。彼らの目的は『オンリーセンス計画』の成就、それは世界から全ての魔力を消すための計画だった。セラとの戦いで疲労困憊の中、過去最悪の状態で挑まなければならない過去最大の敵を相手に、アーサーが思い出したのは五〇〇年前に提唱された禁断の計画だった。
次回は第一〇章の続きからの物語です。とはいえ第二一一話は振り返りのための話で、本編自体は第二一二話から再開します。
では、今回のあとがきは終わりです。
そしてこの下から、次回以降へと続く物語への布石です。
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何の前触れもなく、不意にポケットの中でマナフォンが震える。
取り出してみるとそれは自分の物ではなく、以前とある少年から押し付けられた方のマナフォンだった。
ヘルトは苦い表情を浮かべて、僅かに逡巡してからそれを耳に当てた。
『良かった、出てくれたか。久しぶりだな、ヘルト・ハイラント』
「……アーサー・レンフィールドか」
それは涯とはベクトルの違う因縁のある相手だった。涯と決裂した直後に彼の声を聞く事になった事に微妙な気持ちになる。だが向こうがそんな事情を知っているはずも無いので、わざわざ不快感は隠さないが話は先に進める事にする。
「で、要件は? まさかきみが雑談のためだけにぼくに電話をしてきた訳じゃないんだろう?」
『そりゃ勿論』
当たり前の事だが、二人は友人でも戦友でもない。近いが遠い、そんな関係だ。一番しっくり来る表現は馬の合わない隣人、そんな感じでどちらかというと敵に近い間柄の相手だ。
それは電話の向こう側の相手だって理解しているはずなので、単に雑談ではないのは分かっている。同時に敵にする要件がロクでもない事も分かっていた。
その予感が正しかったと告げるように、アーサー・レンフィールドは悪びれる様子もなく軽い調子で言う。
『ちょっと力を借りたい。正確に言うなら、お前の持ってる集束魔力砲の力を』
「……理由を言え。話はそれからだ」
そして彼は彼で傷を癒す暇もなく次の戦場に向かう。
ただし僅かな変化を伴って、今までとは少し違う姿で。