209 それでも彼は今日を生きていく
『ウリエル』の墜落は問題となったが、その他は広く外部には知られていない、しかし『W.A.N.D.』にとっては一大事だった『パラサイト計画』未遂事件から数日が経った。
集束魔力砲が飛び交い『W.A.N.D.』の本部は甚大な被害を負った訳だが、集束魔力砲に関しては演習として、被害に関しては自動修復のおかげですぐに事態は収束した。人の噂も七十五日というが、今回に関してはたった数日で誰の話題にも上がらなくなっていた。
「まったく、気楽なものだな。誰もあんな事件があった事すら知らないんだからおかしな話だ」
「情報化社会ってやつだろうね。『パラサイト計画』の話だけじゃない、歩きながら弄ってるアレから個人情報が抜かれて選別されてる事に気づいてなかったんだから、知らないっていうのは本当に恐ろしい」
取り戻した日常の中で、いつもと同じように外で朝食を済ませながら、ヘルトと嘉恋は辺りを見回しながら冗談交じりに会話する。見つめる世界はほとんど元の世界と変わらない光景を見ていると、これに涯と決裂してまで守る価値があったのかと疑問が湧いてくる。
その様子を見て、アウロラは嘆息しながら、
「またこわい顔になってますよ。ヘルトはかんがえが顔にでやすいタイプですから、凛祢をしんぱいさせないように気をつけたほうがいいとおもいます」
「……うん、そうだね。気をつけるよ」
ただ代わりに彼女達は守れた。だから今回はそれで良しとしておく事にした。せめてそれだけは正しいかったと言い聞かせでもしなければ、今度こそ立ち直れないほどに心が折られる予感があったからだ。
それほどまでに、今回捨てたものは大きい。取捨選択が世の常だと分かっていても、自分を切り捨てる以上には。
「ヘルトさん」
と。
コーヒーを飲みながら感傷に浸っていると、すでに馴染んだ名前を呼ばれた。ヘルトは呼ばれた方を見て自然と笑みを浮かべる。
「凛祢。それに水無月紗世も」
「ヘルト・ハイラント」
凛祢とは違って制御できているのか、深紅色だった瞳は紗世本来の金色の瞳に戻っており、彼女はしかめっ面のままヘルトの名前を呟いた。それから一歩前に出て、意外にも頭を下げた。
「椎を殺した事、疑ってすみませんでした。……ですが、それでもワタシはアナタの事が嫌いです」
「素直で結構。そっちの方がぼくは好感を持てる」
「アナタに好感を持たれても蕁麻疹が出るので止めて下さい」
相変わらずの紗世の様子に彼女の隣で凛祢は珍しく溜め息をついた。
「失礼だよ紗世ちゃん。ヘルトさんがワタシ達のために動いてくれたのはもう分かってるでしょ?」
「それは分かってるけど……」
「……なるほど。凛祢は紗世相手だとそんな砕けた口調になるのか……」
ただヘルトは紗世の態度よりも二人の会話の方が気になった。普段自分達には決してしないような口調で話す様には、壁というものが全く無いように見えたからだ。
凛祢はおずおずと遠慮がちに、
「えっと……ダメでしたか? 紗世ちゃんは、その……『魔造』の中でも特別なので……」
「……そうだね、うん。あれだけ言ったぼくがこんな気持ちになるのはダメだよね。情けないにもほどがある」
「……もしかしてヘルトさん、不機嫌ですか……?」
「……よく分からない」
それは拗ねた子供のようだった。あれだけ他人に依存せず孤独を好んでいた少年が、凛祢が自分以外の誰かと自分以上に親しげに話しているのを見ただけで心が揺さぶられたのだ。その感情の正体はヘルトにとっては未知のもので、どう扱って良いのか分からない。ただこれが普通の人間にとっては必要な感情だというのは何となく分かった。
ヘルトがこの感情は捨てずにとっておこうと決めている正面で、凛祢は嬉しそうにニコニコしていた。まるで、こちらの考えなど全てお見通しだと言わんばかりに。
「どうして嬉しそうなんだ……」
「うーん……内緒です」
「本当に謎だ……」
「どうしよう、ヘルト・ハイラントを嫉妬心で呪い殺せるかもしれない……っ!!」
「こっちはこっちで物騒過ぎる!?」
新たに輪に加わった少女に対して、ヘルトは今後どういった接し方をすれば良いのか分からなくなってきた。その辺りは極力凛祢に任せるしかないのかもしれない。
「本当、女心は難しいなぁ……」
「少年の理解力の問題な気がするけどね」
やはりいつも通り遠巻きに見ていた嘉恋は呆れたように溜め息をついていた。さらにその隣でアウロラは複雑な笑みを浮かべていた。
「ヘルトさん」
だがそんな空気もお構いなしに、凛祢はヘルトの名を呼んだ。
そして両手を握り締めながら、力強く宣言する。
「ワタシ、もっと強くなります。ヘルトさんだけに頼らないように、支える事ができるように強く」
今回の件は全てが丸く収まった訳ではない。霜月琲琉というイレギュラーを残してしまった。そして、凛祢はその責任を誰よりも強く感じていた。能力的に絶対的な差があっても、逆立ちしたって勝てないような相手でも、彼は凛祢の姉妹を殺し、いつかヘルトに害を成すと宣言して去っていったのだ。誰に何と言われようと、その咎は自分にあり、なんとかしなければならないと責任感に燃えていた。
「……ホント、凛祢は不思議だ」
けれどその事情を加味しても、ヘルトはその言葉に驚きを隠せなかった。
自分の周りにいる人達は自分の力だけが目的なのだと、心のどこかではずっと思っていた。最強の力を持つヘルトの傍にいれば、それ以上の安全地帯は無いと思われているのだと。
けれど違ったのだ。当たり前の事かもしれないが、彼女達がヘルトの傍にいたのはもっと違う理由だったのだ。ずっとそのサインは出ていたのに、彼にはそれを認めるだけの強さが無いだけの話だったのだ。
強いように見えて、誰よりも弱い。自分を犠牲にしても他人を助けるのだって、突き詰めれば他人が苦しむ様を最後まで見る強さがないだけの話なのだ。
だからこそ、こんなくそったれな世界の中で、少年達はいつも命懸けで戦っているのだろうから。
「凛祢はいつも、ぼくが欲しい言葉をくれるから困る」
だからこそ、彼女達を拒めなかったのだろうとヘルトは思った。
「困るんですか……? それなら今後は気をつけます」
「いや、ただ単にぼくの方に免疫が無いって話だよ。今更態度を変えられる方が困る。……ぼくにはもう、きみ達しかいないから」
儚げに笑って告げるヘルトを、周りの四人の少女は複雑そうに見ていた。
中でもやはり凛祢はそれを放っておけなかった。そっと近づいてヘルトの手を取る。
「家族ですから……嫌がってもずっと一緒ですよ? これからもお願いします、ヘルトさん」
微笑んで言う凛祢に、ヘルトも今度は柔らかい笑みを浮かべて、
「……うん、ありがとう。こっちこそ頼むよ、凛祢」
大切なものを得て、あるいは失って、それでも彼は今日を生きていく。
それは単に、いつか失うと分かっていても、今は大切な何かを守るために……。