202 払う価値のある代償
それは確か、小学生の時の課題の一つだったと思う。
『将来の夢、か……』
『なりたいものでも良いらしいよ?』
ありふれた作文の課題だった。けれどそんなものにも真面目に取り組むほど、あの頃のヘルト・ハイラントは真っ直ぐな少年だった。
『それなら、ぼくは神様になりたい』
だから考えた末に出てきたのは、そんな偽りのない異質な答えだった。
『……神様っているのかな?』
『随分唐突だね。変な宗教にはまらないでくれよ?』
言ってから不安になった××××に、一緒に課題に取り組んでいた涯は適当な調子でそんな事を言った。
彼だって別に宗教に興味を持った訳じゃない。ただ誰だって一度は神様の有無について考えるだろう? この話はそんな素朴な疑問でしかない。
そのまま、中途半端な知識で会話を続けた。
『イエスって、結局神様なのかな?』
『どうだろうね。死んで三日目に生き返ったっていうのもどこまで本当なのか。まあ、それを信じる人によるとは思うけど、一応は神様なんじゃないの? でも神様とはいえ、確かユダって人に銀貨三〇枚で裏切られるんだろう?』
『ああ、あの一三番目の?』
『本当は一二番目だったらしいけどね。ともかくどんなに凄い人でも、裏切られる事はあるって事だ』
『でもキリストはユダの裏切りに気づいていたのに、背中を押してる節もあるらしいけど?』
『だとしたら運命には逆らえないっていう良い見本だろ。ユダは裏切るしかなかったし、キリストは裏切られるしかなかったんだ。どう足掻いても自分の持って生まれた運命には抗えないって訳だ』
『……いよいよ生きる希望を削ぎに来たよコイツ』
××××は苦い顔で溜め息をつく。すると涯はさらに追い打ちをかけるように言う。
『ま、裏切り者はダンテの「神曲」で酷い事になってるけど』
『あれは人が描いた地獄のイメージだろ? 結局は人のエゴで作られた想像上のものでしかないし、仮にあるとしても人のイメージ力だけで想像するのはおこがましいと思うけど。それにぼくとしては裏切りより嘘の方がよっぽど罪深いと思うけどね。というより、地獄絵図にまで人間の傲慢さが及んでるとか、ぼくは地獄より人って存在に戦々恐々だよ』
『結局行き着くのはそこなんだよなぁ……』
二人の会話はいつもこうだった。
最初はどんな話から始まっても、最後にはこうして暗く終わる。
もし運命なんてものが本当にあるのなら、嬉しいや愛しいなど、必要な感情を習得してこなかった子供の末路はこうなると決まっているかもしれない。
◇◇◇◇◇◇◇
そしていつも通り、夜が明けて朝が来た。
ヘルトは嘉恋と二人、ある場所に向かって歩いていた。
「涯はおそらく嘉恋さんのパソコンの存在には気付いていない。となると『W.A.N.D.』を使ってこのUSBだけを狙ってくるはずだ」
だがそのUSBはヘルトにしか生みだせない。それを知っているかは分からないが、どちらにせよ一番持っている可能性の高いヘルトが狙われるのは自明だ。
「ただ一つ問題として、多分『W.A.N.D.』のほとんどの人達は『パラサイト計画』について知らないんだと思う。だから向かって来る人達に関しては返り討ちにするとしても、その前に全員に真実を知って貰いたい」
「具体的に?」
「放送設備をジャックしよう。直接乗り込んで制圧して全体にぼくが呼びかける。だから道案内を頼むよ」
「そういう事なら、お姉さんに任せてくれ」
「きみが姉? ぼくが兄じゃなくて?」
「私が長女、君が長男だな。とはいえこの世界に産まれたのはきみが一番遅いんだ。末っ子という事実は変わらないよ」
追われている自覚が無いのか、軽い調子の二人はその調子のまま『W.A.N.D.』の基地の中に入って行く。とはいえ馬鹿正直に正面から入る訳ではない。あくまで嘉恋が監視カメラを潰し、それから事前に調べていた人通りの少ない通路を歩いて向かう。
放送室の前には何事もなくすぐに着いた。ヘルトは扉を消し飛ばして中に入るために、右手を押し付ける。
すると、隣から確認するように嘉恋は聞いてきた。
「……覚悟はできたのかい? 彼は君のたった一人の友人なんだろう?」
「とっくにできてるよ」
「私が言っているのは友人を殺すかもしれない覚悟の事だ」
「だからそれをできてるって言ってるんだ」
扉から嘉恋の方に向けたヘルトの顔には、達観したような笑みが浮かべられていた。
「昔から、いつかこんな風に衝突する日が来る気はしてたんだ。ま、異世界でこんな大事になるとまでは予想できてなかったけど。それに彼はぼくが敵に回るのを分かってる。だから彼とはぼくが戦う」
「……一言に友人といっても複雑な関係のようだ」
「まあね。実を言うと、一緒に行動する事はあまりなかったんだ。まるで磁石のS極とN極のように、近い存在なのに絶対に重なる事はなかった」
再び扉に意識を向けて、ヘルトは改めて確認するように言う。
「でも彼を巻き込んだのはぼくだ。その責任はぼくが背負わなくちゃいけない」
扉を右手で分解して放送室の中に入る。中には数名のスタッフがいたが戦闘員ではない。どうせ放送で居場所はバレるので、剣で脅して無理矢理外に追い出す。
「ありがとう嘉恋さん。嘉恋さんがいなかったら今頃全部右手で消し飛ばしながらここまで来てたよ」
「それは私がいなくても良かったという嫌味かい?」
「ま、正直に言えば突入だけなら一人でも良かったけどね。でもいてくれて本当に良かったと思ってるよ。流石にぼくも何でもかんでも消し飛ばせる訳ではないし、監視カメラや放送ジャックなんてできないからね。要らない手間が大分省けた」
「素直で結構。それじゃあ始めるぞ、弟くん」
「うん、頼むよ姉さん」
とはいえハッキングのような難しい作業という訳ではない。あくまでここのマイクからの声を『W.A.N.D.』の本部全ての届くようにするだけなので、いくつかのスイッチを押すだけで準備は整う。
「さあどうぞ、ソロデビューの時間だ」
「これで逆に捕まるかもしれないけどね」
適当に言いながら一度だけ浅く息を吐く。
そして、ヘルトはマイクに向かって声を発する。
「現在『W.A.N.D.』で活動している勤勉な職員達、労働に勤しむのは尊敬するけど少しだけ話を聞いてくれ。知っている人も多いと思うけど、ぼくの名前はヘルト・ハイラント。こことは違う世界から勇者として来た、きみ達が今追っている長官殺しの重要参考人だ」
この声を聞いている人がどんな気分で聞いているのかを想像しながら、ヘルトは言葉を紡いでいく。
「追われている身のぼくの言葉に説得力は無いだろう。けれど聞いてくれ、きみ達の多くが知らない『W.A.N.D.』が進めている『パラサイト計画』について」
彼は緊張しそうな時は傍観者の気持ちになる。自分はこれを聞いている時、きっと無感情だろうと。だが今のこの言葉は『W.A.N.D.』の全てにとって重要な事だ。みんなが固唾を飲んで聞いているのを想像すると、珍しく緊張で声が震えそうになった。
「『W.A.N.D.』は侵されていた。前長官の國帯さんを殺した、現長官の天童涯の手によって。『パラサイト計画』は彼にとって邪魔だと思った人間を全て抹殺する計画だ、それもきみ達の手で」
ヘルトの中には明確な優先順位が設けられている。そのためなら家族を殺す事だっていとわない、傍目から見れば異常者でしかない。
けれど同時に、それが他の人には受け入れがたいというものも理解している。それを押し付けるのが、恐怖による圧制社会になることも。
「……そこにはきみ達の大切な人もいるだろう。知人、友人、恋人、そして家族……。天童涯はその全ての人間に銃口を向ける事で、恒久的な平和を叶えようとしている。ぼくらの自由とプライバシーを売り飛ばし、ただ世界を平和にするために。……もしかしたらそれは正しい事なのかもしれない。ぼくも含めて、間違いだらけの人間にはそれくらいの荒療治が必要なのかもしれない」
人は自分の感情のままに動く、誰だってそうだ。普通の人にとって優先されるべき命の順番は自分、家族、恋人、友人とほとんど決まっている。ヘルトや涯のように自分の命の順位が著しく低くなる者は希少でしかない。
人間が間違いだらけだというのなら、きっと、ヘルトや涯のような異常者こそが一番間違っているのかもしれない。
「自由の代償はいつも高い。それはこの世界も前の世界も同じだった」
払って、払って、払い続けて。どれだけ代償を払い続けても自由なんて得られなかった。そもそもどれだけ払えば自由になれるのか、その保証はどこにもなかった。
全てが無駄だと言われても否定はできない。
諦めてしまった方が楽だったんじゃないかと、後悔しなかったのかと問われて素直に首を縦には振れない。
「けれど、そうじゃないと意味が無いとぼくは思う。自由も平和も誰かに無条件で与えられるものじゃなくて、自分達の手で掴み取らないと意味がないものなんだ。……つい否定したくなるだろうけど、人間は矛盾から逃れられない生き物だ。ぼくらはいつだって、自分で当てたくて買った宝くじが当たって自ら破滅する、そんな奇妙な生き物なんだから」
自ら破滅する、という意味ではヘルトと涯はその筆頭だったのではないか笑えてくる。他人を愛せないのに、誰よりも他人を助けようとした道化にはお似合いな末路のような気もするが。
「だからきっと、その代償には払うだけの価値がある。ぼくはこれから『パラサイト計画』を阻止するために動く。きみ達は職務に則りそれを防がなくてはならないだろう。ぼくは邪魔をするなとも、手を貸して欲しいとも言わない。……けれど、その前にみんなにもよく考えて欲しい。平和の代わりに自由を永遠に手放すのか、自由の代わりに不完全でもぼくらの力で平和の維持に務めるのか。『W.A.N.D.』の職員ではなく、一人の人間として」
それは、もしかしたら願いだったのかもしれない。
こんな腐った汚泥のような世界でも、誰もが自由を求める事ができると。
「話は以上だ。各々の選択が、より良い未来に繋がると信じている」
その言葉が放たれてすぐ、嘉恋は放送のスイッチを切った。そしてヘルトの方をみてニヤニヤ笑いを浮かべる。
「良い演説だった。スピーチライターとか向いてるんじゃないか?」
「興味無い。それより行こう、どうあれ混乱しているなら今が好機だ」
「敵味方の区別はどうするんだ?」
「向かって来たら敵。他は味方だ」
「単純で分かりやすいね」
どうあれ賽は投げられた。
後は進む道しかない。