15 妹達の夢
結局何も買えず、事態が悪化しない事を祈りながら三人は町から離れるしかなかった。まあ町から離れたといっても『魔族領』も近いのでそんなに遠くまでは来れなかった。それでもわざわざ暗い森を進んで来ようとは思わない程度に町から離れた所でテントを張る事にした。
日も完全に落ち、やる事もないから寝ようという話になったところで突然ビビが言う。
「星を見に行きたいです」
本当に急だったので、アーサーとアレックスは面食らってしまう。
だがその後の反応は早かった。
「お呼びだぜアーサー」
「お前は来ないのか?」
アーサーの問にアレックスは呆れたように溜め息をついて、
「俺はお呼びじゃねえんだよ。そこら辺鈍いよなあテメェは」
「そうなのか?」
アーサーは確認するためにビビの方を見る。
「はい、おにーちゃんと二人で見に行きたいです」
「な?」
ニヤニヤ笑いで得意げなアレックスの顔面に割と本気で拳を叩きこもうと思ったが、すんでのところで堪えてビビの方に向き直る。
「じゃあ行くか。アレックスは寝てて良いぞ」
「そうさせて貰う」
軽口を叩き合うとアレックスはテントに入り、アーサーはビビの手を引いて森の中を進む。
夜になり夜行性の動物が襲い掛かってくる事も懸念したが、『魔族領』が近いためか動物の気配は一切なかった。そのお陰で何事もなく森を進めたが、同時に風に揺られて鳴る葉音以外の音がない森は不気味だった。
それからしばらく夜の森を進むと開けた場所に出た。最後の木から十数メートル先に崖があった。下との距離は数十メートルはあり、誤って足を踏み外せば命の保証はないだろう。
思わず息を飲むアーサーの隣で、ビビは飛び跳ねるようにテンションが上がった。
「見て下さいおにーちゃん、星がすごいです!」
ビビにつられてアーサーも顔を上げる。そこには雲一つ無く、満点の星が光り輝く夜空があった。村にいた時は常にそこにあったので時に意識して見上げた事は無かったが、改めて見てみると自分がとても小さいものに思えてくる独特の感覚が身を包む。
「そうだな。ここまで星が綺麗に見れるのは科学が発達してない国の特権だ。ビビの住んでる場所じゃここまでは見えないのか?」
「いえ、そんなに離れた場所ではないので見える星はほとんど同じです」
「ん? それだとあんまり新鮮味はないんじゃないか?」
そう言うと、ビビは頬を少し膨らませて、
「おにーちゃん、こういうのは誰と見るかが重要なんですよ?」
「そういうものか?」
「そういうものですっ」
正直そういったものに疎いアーサーにはいまいちピンと来ない感性だった。それでも少しは理解しようとしばらく唸りながら星空を見上げていると、急にビビがアーサーの腕に抱き着いた。
「えへへっ、おにーちゃんとわたしはずっと一緒ですっ」
「うん? なんでそんな事わざわざ口に出して言うんだ?」
普通に返したが、アーサーは内心ギクリとした。それはビビを母親の下へ送り届けた後、ビビと一緒に『魔族領』に残るのか、それともビビとは分かれて『ゾディアック』で旅を続けるのか、答えを出せていなかったからだ。だからその事を感づかれたのではとアーサーは危惧していたのだが、ビビの口から告げられた理由は全く別のものだった。
「そうしないとおにーちゃんと一緒にはいられないと思ったからです。わたしとおにーちゃんでは種族が違いますから」
「……」
こういう時、どうしても人間と魔族との間に埋められない溝があるのだと意識させられる。
何より悲しいのは、まだ年端のいかないビビでさえそれを理解しているという事だ。
「そんなの関係ないだろ。そもそもそんな事を気にするくらいなら最初から助けてない」
「おにーちゃんはそう言うかもしれないですけど、周りはそうは思わないですよ?」
「それはそうかもしれない……。でも俺はビビから離れたりしない」
「それならわたしの本当のおにーちゃんになってくれますか?」
「………………え?」
突然放たれた言葉に、呼吸が止まった。
それは単に突拍子のないビビの言葉に驚いただけが理由ではないだろう。その願いの意味ともたらす結果を考えた時に、心臓を直接鷲掴みにされたような気味の悪い感覚が襲い掛かる。
「……急に、何言って……」
出た言葉は自分でも驚くほど掠れていた。その言葉からビビはアーサーの動揺を感じ取ったのだろう。見るからに表情を暗くしてビビは続ける。
「……急にこんな事を言ったら驚かせるのは分かってます。でもわたしにはそれくらいの繋がりがないと不安なんです。魔族と人間にはそれくらい埋められない溝があるのはわたしにだって分かります。だから……」
「……」
ビビのそれはもう懇願に近かった。
越えてはいけないラインだと、本能の部分が告げていた。ここでの選択が後々に悪影響を及ぼすであろう確かな予感があった。
「ビビ……」
名前を呼ばれた少女の肩は震えていた。
甘かった。
ビビは強い子なのだと勝手に思っていた。
でもそんなはずがなかった。まだ幼い少女が謎の敵に村を襲われて、お別れをする間もなく母親と別れて敵地である『ゾディアック』に単身流れ着いたのだ。もし自分が単身『魔族領』に流れ着いたとしたらどんな精神状態になるのか、それを考えればすぐに分かる事だったのに、そんな事は考えようとも思わなかった。
不安が無いはずがなかった。
怖くないはずがなかった。
家族が恋しくない訳がなかったのだ。
そんな中で唯一信頼を置ける者にすがろうとする少女を誰が責められようか。
「……おにーちゃん、少しわたしの話を聞いてくれますか?」
「……ああ」
アーサーがそう答えると、ビビは少し安心したような顔になってポツポツと語り始めた。
「わたしには夢があるんです。いつか、本当の意味で魔族と人間が共存できるような世界を作りたいんです。魔族にも人間にも、それぞれの個性があります。だからそれぞれを一括りに考えないで、それぞれがそれぞれを理解し合おうとすれば、そうすれば、いつかきっと……」
語られたビビの夢に、アーサーは驚いていた。
なぜならそれは昔、別の人から同じような言葉を聞いた事があったからだ。
「……お前はレインと同じ事を言うんだな」
「レイン……ですか?」
「ああ……。……俺の方も少しだけ話をしても良いか?」
ビビが頷くのを確認すると、アーサーはゆっくりと話し始めた。
「レインは俺の妹だ。昔は母さんと一緒に暮らしてて、アレックスともよく遊んでた」
「昔……今は一緒じゃないんですか?」
「ああ……。母さんとレインは魔族に殺されたんだ」
放たれたアーサーの言葉はビビの想像を超えるものだった。けれど動揺するビビに反して、アーサーの方は落ち着いた表情を浮かべていた。別に過去の傷が癒えている訳ではない、ほとんど強がっているだけだ。それでもビビに余計な気遣いをさせないように、言葉の一つ一つを噛みしめるようにして続ける。
「俺達が昔住んでた村は『魔族領』にかなり近かった。でも魔族は絶対に踏み込めない結界があるってお墨付きだったし、なによりそれほど危険じゃない『ジェミニ公国』だったからな、誰も魔族が来るなんて想像もしてなかった。だからいざ襲われた時には成す術なくみんなは惨殺されて、俺やアレックスみたいに運の良いやつは生き残ってその後は散り散り。他のやつらは今どこで何をしてるかも分からない。……たった一時間だったよ、村が壊滅するまで。いつも通りの日常がそんなあっけなく崩れる程脆いものだったなんて、あの時の俺は思ってもみなかった」
「おにーちゃん……」
アーサーの話を聞いて、ビビの脳裏には一つの不安が浮かんだ。
本当は答えを知りたくなかった。でも聞かずにはいられない事だった。聞かなければきっと、その先には一生進めない事だったから。
「……おにーちゃんも、魔族は嫌いですか」
それだけは聞かなければならなかった。自分を嫌いな者に、自分の兄になってなど頼めるはずがないのだから。
だがビビの不安とは裏腹に、アーサーはひどく穏やかな顔で答える。
「そういう瞬間もあったよ、でも俺はそうはならなかった。妹が残した言葉が俺を救ってくれたんだ。レインは魔族の攻撃を受けて、今にも死にそうな状態で、俺の腕の中で命を削りながら最期に言ったんだ。いつか、本当の意味で人と魔族が手を取り合えるような日が来れば良いね、って」
そう言った妹の言葉の裏にあった真意を知る術は、今のアーサーにはない。そう言った少女はもうこの世にはおらず、その気持ちは残された者が想像するしかない。
それでも思う事はある。
「驚いたよ、そして尊敬した。そんな夢物語を語れるだけの人だったらいる。でも自分を殺そうとしてる相手にそんな慈悲みたいな言葉をかけられる人はそうはいない。多分、あいつには分かってたんだ。魔族にだって人間みたいな個性があるって当たり前の事を。自分を殺そうとしてる悪意だけが魔族の全てなんかじゃないって事を。中にはビビみたいに俺達となんら変わらないやつもいるんだって事を。あいつはそうやって、当たり前の事のように種族の壁を越えようとしたんだ。人間と魔族が何百年かかっても出来なかった事を、本気でやろうとしてたんだ」
世界で一番尊敬する人は、と聞かれたらアーサーは迷わず妹と答える。誰に何と言われようと、それだけは自信を持って言える。
「さっきの問いの正確な答えな、俺は俺の大事なものを傷つけるやつは人間だろうと魔族だろうと嫌いだよ。でもそうじゃないのなら、俺は分かり合えるって信じてる。だからビビの事は好きだよ」
そう言ってビビの頭を撫でると、ビビは安心したように目を細めて微笑んだ。
「だから良いよ」
「……え?」
「俺と兄妹になろう」
ビビと話している間に、今まで抱えていた悩みは消えていた。そして一度決めてしまうと、自分でも驚くくらいさらりと口にできた。
「こんな口約束に大した拘束力はないのかもしれない。百人に訊いたら百人が指をさしてお前はおかしいって言うのかもしれない。でも俺はお前のお兄ちゃんだよ、ビビ。この先何があろうと、誰になんと言われようと、それだけは絶対だ」
まくし立てるように少し早口で言ったアーサーの言葉を聞き終えると、ビビは浅く息を吐いた。
「……おにーちゃんはすごいですね」
心の底からそう思った事がつい口から洩れた、そんな風な言葉だった。
「もしかしたら、おにーちゃんならいつか魔族と人間が本当の意味で共存できる世界を作れるかもしれないですね」
「それは買いかぶり過ぎじゃないか?」
「そんな事ありません」
「根拠は?」
返ってくる言葉を予想しながら訊いたアーサーの言葉に、ビビはやっぱり決まり文句のように、
「わたしのおにーちゃんだからです!」
「ははっ、そりゃどうも」
要領を得なくてもよかった。
ただビビが笑っているだけで、なんでもできるような気がした。