160 三度目の正直
そして今、クロノは孤独の世界に佇んでいる。
「『時間停止』……。悪いなアーサー・レンフィールド、アナスタシア。ここからは私だけの時間だ」
遊びを終わらせたクロノは自らの名前を叫びかけて止まっているアーサーの傍に近寄り、魔力で形作った剣を喉元に当てる。それは集束魔力剣と呼ばれる、集束魔力砲と同じ膨大な魔力を剣の形として一ヵ所に集めた代物だ。人の首くらいなら簡単に斬り落とせる。
(……さて、確実な安心を得るためにここで殺してしまっても構わんのだが……どうしたものか)
かつてこの世界に入れたのは『魔力掌握』の力を持っていたローグ・アインザームだけだ。そして彼がいなくなった今、彼女は本当に孤独だ。現実時間では五〇〇年だが、停止した空間で長い時間を過ごしていた事もあるクロノにとってはそれ以上の時が流れているのだ。その孤独感は計り知れない。
「……止めだ。さっさと死ぬとしよう」
踵を返して魔王の部屋から出ようと扉へと向かう。
その時だった。
「……待てよ。まだ勝負はついてないぞ」
「……ッ!?」
弾けたようにクロノは背後を振り返る。
アーサーの声が聞こえたのかと思ったのだが、彼は動いていなかった。
「……気のせいか」
と思った瞬間だった。
アーサーの右腕の先から空間に亀裂が入る。
最初は小さく、それが次第に大きくなっていく。そしてガラスが砕けるような甲高い音と共に空間が割れる。その奥から一人の少年が奇妙な力を宿した右手を携えて、孤独の世界の前提を覆すためにこちら側に踏み込んで来る。
「……これが世界を掌握むって事で良いのか、ローグ・アインザーム」
「貴様……何故動ける!? 貴様の右腕はまだ馴染み切っていないはずだ。馴染んでいたとしても右腕一本でこの世界に入れるはずが……ッ!!」
「俺にも詳しい事は分からないけど、多分右手じゃなくて心持ちの問題だと思うよ? あんたも知ってるどっかの誰かさんの受け売りだけど」
言いながら、アーサーの脳裏にはこれまで出会ってきた人達の顔が浮かんでいた。
「……停滞するのは、もう止めたんだ」
だからだろうか。
強大な敵の前だというのに、アーサーは薄く笑みを浮かべていた。
「もう迷わない。デスストーカーを死なせてしまった事も、人質を救えなかった事も、その全てを背負って俺は前に進む。そのためなら上級魔族だって何人でも倒してやるよ」
「大きく出たな。『時間停止』を攻略した程度で勝ったつもりか? それを私が許すと思うなよ!」
激高する上級魔族の刺さるような魔力は依然として感じられる。けれどもう、体が縮こまる事も恐怖を感じる事はなかった。
「……『担ぎし者』が何なのか、なんとなく分かってきたんだ」
あらゆる祈りを託された拳を握り締めて。
迷いの無い瞳でクロノを射抜く。
「俺はこれを全て背負って行かなくちゃいけないんだ。喜びも悲しみも、これまでの出会って来た全ての人の意志を背負って進み続けなくちゃいけないんだ」
「それが分かったからなんだと?」
クロノの魔力が彼女の感情を表しているように吹き荒れる。
しかしアーサーはそれ見ても笑みを浮かべたまま。
優しい声で続けてこう言い放つ。
「ありがとな、クロノ。俺を立ち直らせてくれて。だからお返しだ。今度は俺が破滅に向かうお前を止めてやる」
「……っ、生意気を!!」
彼女の体に溢れる膨大な魔力が手のひらに集まっていく。
ブラックホールのように渦巻きながら集まった魔力は、黒くて小さな球状の形に収まった。
「……さっきいくつ魔力弾のレパートリーがあるのかと言っていたな。これが私の扱う最大の魔力弾だよ」
「その魔力量……もしかして集束魔力砲か?」
「少し違う。これは貴様らの使う集束魔力砲のように無駄に魔力を撒き散らしたりはしない。貴様の知る破壊力を全て一発の魔力弾に込めた集束魔力弾だ。お前の不完全な右腕では防げんほどにな」
青騎士も看破していたアーサーの右腕の弱点の一つ。処理能力を超える魔力量が使われていると掌握しきれない。その条件は集束魔力なら難なく突破できるだろう。クロノもそれが分かっている。
「死んでも文句は言うなよ? そもそもこれは、貴様が始めた戦いだ」
向けてきた手のひらから集束魔力弾が放たれる。
一直線にアーサーに向かってそれは飛んでくる。
「……『旋風掌底』」
それに対抗してアーサーが発動させたのは風で対象を押し飛ばす『旋風掌底』。集束魔力弾に比べたらか弱いそれを前に突き出し、無理と言われた右手での受け止めを実行する。
集束魔力弾が右手に着弾した瞬間、『旋風掌底』の風が吹き荒れる。そして拮抗するように、アーサーは右手で集束魔力弾を受け止めていた。その光景にクロノが驚いたように目を見開く。
「な、に……? 受け止めた、だと……!?」
「……確かにこれは俺が吹っ掛けた戦いだ」
莫大な力を目の前で受け止めながら、アーサーは唸るように呟く。
「でも、この事件に俺を巻き込んだのはお前だ。だから最後まで付き合って貰うぞ!!」
叫びを上げて、右手でもって集束魔力弾を握り潰す。それと同時に掌握した膨大な魔力がアーサーの右腕に風のようにまとわりつく。
それが煌々と光り輝き、部屋の中を白く照らす。
「歯を食いしばれ、クロノ!!」
「くっ……!」
クロノが腕を交差させて初めて防御の姿勢を取る。
それに対してアーサーは迷わなかった。一切の躊躇いを見せずに握り締めた拳をクロノに向かって突き出す。
「『皓々と輝く神殺しの聖槍』!!」
それは集束魔力砲のような広い射程も周りに甚大な破壊をもたらす砲撃でもなかった。
射程は短く、けれど細く速く真っ直ぐと伸びた白い魔力の槍がクロノの体の中心を貫き、彼女の背中から煙のような何かが噴き出す。死なない相手だからこそ、アーサーはここまで遠慮無く攻撃できた。
「なっ、あ……!?」
けれど死なないからといってダメージが無い訳でもなかったらしい。槍に貫かれたクロノはよろけて口から血を吐き出す。
「……くそっ、どういうカラクリだ。あれだけ溜めていた魔力が……!!」
だがクロノは血を吐くほどのダメージよりも失ったものに目を向けていた。アーサーはまともに動けないほどダメージを食らったクロノに答え合わせをするように言う。
「ローグ・アインザームの力の残滓だ。この技は貫いた相手の魔力を根こそぎ体外に排出させるんだ」
「……っ!? ふざ……私がどれだけの月日をかけて魔力を溜めたと……!!」
「死んだ後でもローグ・アインザームはあんたを助けたいと願っていたんだ。あんたはその遺志すら汲めないようなヤツなのかよ!!」
「……っ」
やはりローグ・アインザームの存在は彼女の琴線だったのか、怒りで溢れていた彼女の表情が途端にくしゃりと歪む。
まだ何かを言おうとして、口をぱくぱくと動かした後に弱り切った声音で言う。
「……なあ、頼むよ。頼むから私を殺してくれ。私はもう、疲れたんだ」
「クロノ……」
それは初めて聞く彼女の弱音だった。
それを決定づけるように、その目の端には涙が浮かんでいた。
「ローグも死に、世界も暗くなるばかりだ。希望も何もない世界に飽きたんだ。アーサー・レンフィールド。お前の右腕なら魔力が無くても簡単に死ねるんだ。だから、頼む。私を助けてくれ」
あるいはそれは最後の懇願だったのだろう。
アーサーには五〇〇年も生きてきたクロノの気持ちは分からない。この世界を原初から見てきた者が、心の拠り所を失えばこうなってしまうのが当たり前なのかもしれない。
だけど。
「断る。俺はお前を―――助けない」
アーサーは突き放すようにそう言った。
クロノの顔が絶望の色に染まる。
「なぜ、だ……? どうしてお前は私の願いを聞いてくれないんだ!?」
「……『希望』はさ、あるんだよ」
今度はアーサーの方が泣きそうな顔をしていた。
アーサーはクロノに共感してしまった。その姿があまりにも痛々し過ぎて、まるで『リブラ王国』で墓前の前に座っていた自分を見ているような気分だった。もし誰にも励まされなかったらこうなっていたのかと思うと、心が割れそうになる。
「どんなに救いようがなくても、崖っぷちで今にも崩れ落ちそうな足場に立ってようと、どうしようもない汚泥のようなこんな世界でも、『希望』は確かにあるんだよ。それは本当に小さなものかもしれないけど、それでも確かにあったんだ」
「そんなものどこに……」
「それはさ……」
すがるような姿勢のクロノに対してアーサーは一度だけ言葉を切り、彼女に向かって歩き出しながらどこか確信の込もった声で続ける。
「……今まで出会って来た、みんなの中にあったよ。エレインにも教わった。それが人間の持つ最大の武器なんだって」
歩いていたのが次第に走るに。
走っていたのが次第に全速力になっていく。
そうして自分が立ち直れた言葉をクロノにも託して。
アーサーは強く強く右手を握り締めて最後の一歩を踏み出す。
「だからその目で、手で、足で、もう一度世界に触れてこい!! この世界にある全てのものが、どんなに輝いてるものなのか体験してこい!! それでも、世界を回り終わってもこの世界には生きる価値がないって答えが出るようなら、その時は俺がお前を殺してやるッッッ!!」
直後にアーサーの拳がクロノの頬に突き刺さり、連戦となった上級魔族との戦いの終わりを告げる快音が鳴り響く。
ようやく届いた拳。
その瞬間、アーサーは泣きそうな表情になっていた。
「……やっと勝てたけど、思ったよりも達成感とかないんだな、これ」
そうして。
クロノが仰向けに床に倒れ、三度目の戦いを終えたアーサーの呟きだけが静かに残った。
ありがとうございます。
次回、第九章最終話です。